83 / 409
第一部 嫉妬と情愛の狭間
第83話 紫雨 其の一
しおりを挟む背中に寝台の敷包布の感触と、今まで眠っていたはずの紫雨の体温が伝わってくる。
何が起こったのか、理解が追い付かないまま、天井を映していた視界に、紫雨が映り込んだ。
自分と同じ深翠の瞳と目が合う。
ほんの一瞬のことだった。
ぎらついた焔を双眸の奥に見た気がして、香彩の背中をぞくりとしたものが駆け上がる。
冷たい汗が、つつと背に流れる感触がして、香彩は無意識の内に奥歯を噛み締めた。
(──この体勢は……だめ、だ)
身体が強張ってしまう。
もう昔のことだというのに、与えられた息苦しさを思い出してしまう。
「……っ!」
片手の手首もまだ掴まれ、寝台の敷包布に縫い付けられたままだ。
逃げ出したい。
そんなことを思う。
だが身動きをしたくても、手首の痛みと深翠が持つ鋭い目つき、そして未だに心の奥底に巣食う傷に縛られて、動くことが出来ない。
はくはく、と。
空気を求めて、香彩が口を動かした時だった。
鋭い眼光が和らいだと思いきや、紫雨は小さなため息をついたのだ。
「──何だお前か。気配が変わっていたから、賊の輩かと思ったぞ。香彩」
「……賊って……!」
ようやく手首を離されて、香彩は紫雨に対して、そう毒付くことが出来た。
香彩を組み敷く形で身体を押さえていた紫雨は、くつくつと笑いながら香彩の上から退き、寝台に腰掛けるように座る。
つられるようにして起き上がった香彩は、恨みがましい目を紫雨に向けた。
「ここ、誰でも入れるわけじゃないし。そういう結界張ったの紫雨じゃないか」
「確かにそうだがな、香彩。俺より『力』が強い者なら、ここの結界も無効になる。年年歳歳、酷使した『力』は減り続けるものだ。その内、誰でも入れるようになってしまうかもしれんな」
「……」
「四神も食べ滓のような『力』よりも、肉汁溢れる新鮮な『力』の方が、働きがいがあるというものよ」
自虐的な物言いは、紫雨の癖のようなものだと香彩は分かっている。いつもなら聞き流す香彩だったが、昔の傷を刺激された後とあって、紫雨、と呼ぶ声は自然と厳しいものになった。
一瞬の間を空けて、再び紫雨が面白そうに、くつくつと笑う。
「……悪かった。そう怒るな、香彩」
香彩の手を包み込んでしまいそうな大きな手が、頭に差し掛かったと思いきや、頭の上でぽんぽんと弾む。
その温かさや視線の優しさに流されそうになるところを、香彩は頭を振って我を取り戻した。
「全然悪かったって思ってないでしょう?」
「……そうでもないさ。お前を呼んだというのに、眠っていて済まなかったな」
淡く、そして愛しいのだと言わんばかりに笑みを浮かべる紫雨に、そういうことではないのだと思いつつも、ついに何も言えなくなってしまった香彩だ。
そんな顔に、やはり翳りが見える。
香彩は紫雨の隣に座ると、そっと額に触れた。
「……疲れて、る?」
香彩の言葉に、息を詰める紫雨の様子が伝わってくる。だがそれはほんの僅かな時間だった。息を吐く紫雨の表情が、先程よりも柔らかいものになる。
「……ほんの少しだけだ。悪いがしばらくそうしててくれるか? お前の手は癒される」
こくりと無言で香彩が頷けば、紫雨は深く息をついて目を閉じた。
自分を組み敷いた時とは打って変わった表情に、そんなに安らぐものなのだろうかと香彩は思う。
自分は何もしていない。『力』も何も使っていない。ただ手を額に当てているだけだ。それだというのに紫雨は言うのだ。
疲れが消えて行くようだ、と。
大宰私室の中を静寂が占める。
聞こえるのは、お互いの穏やかな息遣いのみ。
ふとくつくつとした低い笑い声が、部屋の中の空気を震わせた。
「……この前とは、反対だな」
紫雨の言葉に香彩の身体が、ぴくりと動く。いまこの瞬間に、同じあの日のことを、紫雨も思い出していたのだと考えただけで、妙に気恥ずかしく思えて仕方ない。
「……何のこと?」
だから敢えて香彩は白を切った。
何となく同じものを思い出していたのだと、認めたくなかったのだ。
「先日、お前を起こしに行った時だ」
面白そうに喉の奥で笑いながら、紫雨が言う。香彩の思うことなど、全てお見通しだと言わんばかりの笑い方だった。
香彩は息を詰める。
気恥ずかしいとも悔しいとも嬉しいとも違う、複雑な苦しさが心の中を占めていく。
「……」
無言のまま香彩は、肯定の意を示すかのように、彼の言葉に返事でもするかのように、ゆっくりと一度まばたきをした。
同じ時に同じものを思い出す気恥ずかしさよりも、もっと居た堪れないものをあの時、紫雨に見られてしまっていることを思い出したのだ。
「──しかし……」
くつくつと笑いながら発した美声が、一段と低い。
「あの時に見た、あの見事な所有印。やはり竜紅人のものか。いずれそういうことになるだろうと覚悟はしていたが……複雑なものだ」
0
お気に入りに追加
141
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
ダブルスの相棒がまるで漫画の褐色キャラ
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
ソフトテニス部でダブルスを組む薬師寺くんは、漫画やアニメに出てきそうな褐色イケメン。
顧問は「パートナーは夫婦。まず仲良くなれ」と言うけど、夫婦みたいな事をすればいいの?
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる