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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第56話 泡沫の夢 其の三
しおりを挟む「……桜香」
香彩と瓜二つの姿をした少女が、神桜の樹に寄り添うように立っていた。
様々な感情が溢れ出して、名前を呼ぶ声色が震えて掠れる。
自分達が消してしまった少女だ。
あの後、無事に療の『中』に還ることが出来たのだろうか。そう声を掛けようとして香彩は思い留まる。
もしも桜香が療の『中』で、その魂を癒され浄化され、次の真竜としての生を待っているのであれば、香彩の夢床に現れないのではないかと思ったのだ。
「……桜香……どうして」
ここに?
そう問う声は言葉にすることが出来なかった。
桜香の頬に流れるのは、一筋の涙。
「申し訳、ございません……」
そう言って彼女は深々と頭を下げる。
慰めるように桜香《⑪の足に、身体を擦り寄せるのは銀狐だ。
彼女の側に行きたいと香彩は思った。行って一頻り抱き締めてから、泣いて謝る理由を聞きたかった。それに謝るのは自分の方だという気持ちの方が大きかった。
一歩踏み出そうとして、それは出来ないのだと、この白い世界が言った気がした。
まるで透明の大きな壁が、香彩と桜香の間に存在しているような感じだった。これ以上は譬え香彩自身だとしても、踏み入れてはいけない領域なのだと世界は語る。
自分の空間だというのに、自分自身が入れない場所があることに、香彩は戸惑いながらも、ああだからかと、納得する。
だから桜香は頭を下げたのだ、と。
(……この先の空間は、一体何なのだろう)
夢床に降りたのは、初めてではない。
これまでにも幾度か呼ばれたり、自我を守る為に降りたことはあったが、入ることが出来ない空間が出来たのは、今回が初めてだった。
手でそっと透明な壁に触れてみる。
すると壁は、まるで水面のように綺麗な水紋を描く。
波打つ景色の向こうの桜香を見ていると、涙する彼女に寄り添うように、ひとりの少女が現れた。そしてその少女を見守るようにして背の高い男が、彼女達から少し雛れた場所に現れる。
強くなる花の香と土の香で、香彩は彼らが真竜なのだと理解した。
「……申し訳ございません……香彩様……っ」
少女に支えられながら、頭を上げた桜香が、涙ながらに言った。
「本来でしたら長い心の拵えを経ての──……でしたのに、私が……──」
所々、桜香の声が聞こえなくなる。
「──……──」
やがて彼女が何を言ってるのかすら、香彩は分からなくなった。
遮断したのだ。
世界が。
それが何故なのか、自分の心のことだというのに、香彩には分からない。
再び、一陣の風が吹いた。
風は神桜の花弁を連れて、香彩の身体に巻き付く。
やがて風は花弁ごと、香彩をこの世界から掻き消したのだ。
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