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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第54話 泡沫の夢 其の一

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 むせかえりそうな、雨のにおいがした。
 ほのかに陽は射しながらも、やがて霧の様な雨が降り、鮮やかに彩られていた世界を、淡くぼんやりとした風景に変える。
 その白い世界の景色が、けぶる雨と光によって霞み渡るようだった。
 ここはどこなのだろう。
 全く知らない空間に放り込まれたようなのに、不思議と怖いという感情が湧かなかった。
 ゆっくりと歩いてみる。
 ぴちゃりと水音がして足に跳ね返るが、それを冷たいと感じることはない。


(……ああ、夢床ゆめどのだ)


 香彩かさいはようやくそう認識する。
 夢床ゆめどのは意識の奥に存在する、潜在意識の眠る場所だ。ここは繊細で、自分以外の者が近づくと不快に感じだり、普段気の合う者でも触らせることはない、誰もが持っている『自分』が『自分』であるための矜持の場所だ。
 そして自分の経験や傷が眠る場所でもあるのだ。

 先程までまるでこの身体に存在を刻み込むようにして、愛されていた。人形ひとがたであることが最後だからと、この熱を忘れるなと、幾度も注がれては掻き出されて。
 きっと自分はその快楽に気を失った直後に、ここへ『降りた』のだろうか。
 それとも、『呼ばれた』のだろうか。
 
 自分が自分である為の矜持の場所とされているが、この場所はあまりにも広かった。だが決して迷うことなく、『目的』の為に足を進めることが出来るのは、自分の何処かで『呼ばれている』ことを認識しているからだ。

 霧雨がしっとりと香彩を濡らす。
 自分はこの雨を知っている。
 神様が降らせる特別な雨の気配を、決して忘れることはない。
 少しばかり立ち止まって、この包み込むような細かな雨を、その気配を堪能する。
 これは春を迎え、生命に新たな伊吹を与える恵みと祝福の雨だ。


(……喜びの雨だというのに)


 あたたかく自分を包み込んでくれるというのに、どうしてこうも不安な気持ちに苛まれるのだろう。

 香彩が立ち止まった。
 呼ばれているのだ。
 行かなくてはいけないのだ。

 だが一度止まってしまった足は、なかなか次の一歩を踏み出すことが出来ない。
 道を知っているというのに、まるで道にはぐれた子供のような気持ちになって、香彩は上を仰ぐ。
 しばらくこの雨に打たれたなら、また歩き出すことが出来るだろうか。


(……もう一層のことこの雨に全て洗い流して貰ったら)




 綺麗な自分に戻れるのだろうか。
 また歩き出すことが出来るのだろうか。
 彼と共に。



 ここまで考えて香彩は漠然ながらも理解する。
 ここは夢床ゆめどの
 意識の奥に存在する、潜在意識の眠る場所。
 今まで考えないようにしていた、もしくはすっかり記憶の奥に封じ込めてしまった、漠然とした不安が顕になる。
 また滅多に降りることのないこの場所には、過去や現在の心の傷はもちろん、未来の傷もまた眠る場所だと言われている。
 ああそうか、と香彩の心の中にそれは、すとんと落ちた。
 それは近い将来に感じるだろう想いなのだ。



(……いつか自分は『綺麗な自分』ではなくなって……それは)
(彼と……共に歩めないと)
(思ってしまうほどの、もの)


 ああ、と香彩は納得する。
 先程も思ったではないか。
 彼の腕に抱かれながら。


(──もしも僕が原因で、貴方を深く傷付けてしまうことがあるのなら)


 ──僕は……貴方を手放すだろう、と。




 心が再び、嫌だと叫び出す。
 まるで慟哭にも似たその叫びを、心の奥底でもあるこの場所で、息を整えながらゆっくりと包み込んで隠す。



 そうやって心の嵐を収め少し落ち着けば、顕になり浮き上がってくるのは、随分前に聞いたある話だった。
 それは就業終わりの陰陽屏と呼ばれる仕事場でのこと。目を通しておきたい書簡があって、誰もいないだろう陰陽屏の戸を開けようとした時だった。
 僅かな灯りの中、大司徒だいしとの麾下二人が話をしているのを香彩は聞いてしまったのだ。



 ──今年行われる『成人の儀』の力の継承、あれは交合によるものだと聞いたが本当なのか?
 ──あまりこのような所で話さぬ方がいい。何処に耳があるか分かりませんぞ。……詳細は知らぬが、密儀だそうな。



 その話を聞いて、まさかと思った。
 単なる噂話と気にも留めなかった。そうしている内に、紅麗の奥座敷に竜紅人りゅこうとの想い人がいるという噂が広がって、心はそれどころではなくなった。
 だから今この夢床ゆめどので、あの話を思い出すということは、やはり心のどこかで引っ掛かっていたからだろう。そして夢床ここへ『呼ばれた』ことと、何かしら関係があるのだろう。


(……でもあの話が噂ではなくて、本当のことなのだとしたら)


 何故あの人は何も言わないのだろう。
 仕事が忙しいともうひとつの私室で寝泊まりを始めてから、数える程しか顔を合わせていない。
 その僅かな機会ですら、あの人はいつも通りだったと香彩は思った。表情も態度ですらも噯《おくび》にも出さなかった。
 業務の一環と割り切っているのか。
 複雑な胸の内を抱えながら、突如、ひやりとした冷たいものが背筋を駆け上がる。

 力の継承は決定事項だ。
 だがその継承の仕方が、もしもあのふたりが話していた通りなのだとしたら。


(……その継承方法を) 


 彼が……真竜である竜紅人が知っていたとしたら。


 ──忘れてくれるな、かさい……っ!俺の声、俺の体温。
 ──俺の雄形かたちを忘れてくれるな……!
 ──譬え俺が熱の感じられない、冷たい鱗の身体になっても……別の熱を受け入れることになっても、どうか忘れてくれるな……!!



「あ……」


 先程の彼の言葉を思い出して、香彩はその場にくずおれた。

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