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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第52話 拠り所 其の三

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 それはきっと竜紅人りゅこうとも同様だったのだろう。

 沈黙を。
 この静寂を、空気を、ただ楽しむ。

 以前ならば何かを話さなくてはという、焦る気持ちが生まれていた。だが『竜紅人の御手付きものであるという名の鎖あかし』にやんわりと縛られたことによって、ここまで心が安定して、安心できるなど思ってもみなかったのだ。

 その真綿の様な鎖は、柔くそしてしなやかに、香彩かさいを竜紅人の側に縛り付ける。そして竜紅人が香彩に見せた、執着にも似た独占欲もまた、香彩にとっては安心材料だった。

 たとえ何があっても彼は、自分を手放そうとはしないだろう。もしもと考えるのは、今は愚かなことなのかもしれない。だが仮にそんな時が来るとするのならば、それはお互いに傷付けまいとする時だと、香彩は思う。


(……もしも僕が原因で、貴方を深く傷付けてしまうことがあるのなら)
(──僕は……貴方を手放すだろう)
「──!」


 香彩は思わず息を詰める。
 心内で呟いたその言葉は、無意識だ。
 だが心内で思い描き、考えて導き出された言葉そのものは、まさに『無意識の直感』だった。
 香彩の仕事柄、こういった『直感』や『自我の世界』や『夢』といったものの中には、何かの暗示が隠されていることが多い。


(……僕が傷付けて)
(僕が……手放す)


 目の前で優しい瞳の中に深い愛情を湛えて、自分を見ている彼を。
 嫌だと、離れたくないのだと心が悲鳴を上げる。だがさほど遠くない未来に、そんな感情を再び心の奥底に封じ込める日がくる。
 与えられた『竜紅人の御手付きものであるという名の鎖あかし』と、毅く付けられた唇痕と牙痕を、心の拠り所にして。


 さらさら、さらさらと。
 髪の流れる音だけが、響く。
 掻き上げる様にして、頭皮に触れる長い指が何とも心地良かった。
 


 香彩もまたそっと竜紅人の髪に触れる。
 見た目よりも柔らかくて気持ち良い綺麗な伽羅色が、すっと指を通る。指と指の隙間に感じる彼の髪が、気持ち良くてそしていとおしくて堪らない。


「もう、『いやらしい悪戯』はするなよ、香彩」


 竜紅人の甘い声とその内容に、びくりと香彩の身体が動いて、くしけずいていた指が止まった。
 『いやらしい悪戯』のつもりではなかったのだ。
 だが結果、そういう行為に繋がってしまったのだから、何も言えない。何も言えないけれども、どこか不本意な気持ちを抱えたまま香彩は、む、と口を尖らせて上目遣いで竜紅人を見た。


「……何? 俺に悪戯したかった?」
「違う! ……ただちょっと……触ってみたかった……だけ」


 言葉にしてみるとただ恥ずかしくて、香彩の語尾は少しずつ弱々しくなる。
 くすりと竜紅人が笑った。
 そして空いている方の手で香彩の手首を掴むと、まるで今すぐに触れろとばかりに、逞しい胸板に押し付ける。
 途端に香彩は顔を赤らめた。


「言ってくれたら、いくらでも触らせてやるのに」


 だからそういうことではないのだと、香彩は心内で叫ぶ。
 いつか竜紅人の肌に触れるだけで、恥ずかしいと思わない日が来るのかもしれない。だが今は駄目だった。恥ずかしくて堪らない。
 半ば強引に触れさせられている竜紅人の胸板からは、力強い鼓動が感じられた。それは香彩の手の平を通じて、まるで自身の胸にまで駆け上がってくるかのようで、どきりとする。


「……だって起きてる時に触ったら……その、恥ずかしいし、それに……それだけで済ましてくれない気がするし」
「──んなもん、当たり前だろうが」
「……」


 当たり前と来ましたか。
 心内でそんな言葉を呟きながらも、香彩の顔は更に紅潮する。


「……ったく、さっきまで……っつーか、昨夜も含めて、これよりも恥ずかしいこと散々したっつーのに」
「りゅうっ……!」


 そういうことは言わないでほしい。
 声に出して言いたかったがそれは言葉にならず、香彩は少々怒り気味に竜紅人の名前を呼ぶことしか出来なかった。
 そんな香彩の心情などお見通しなのだろう。竜紅人が楽しそうに、そして実に面白そうに、喉奥でくつくつと笑う。


「けど……こうやってお前が俺に触れて、恥ずかしがってるのを見るのは」


 堪らんよな。


 語尾を掠れさせてそう言う竜紅人に、香彩の方こそ堪らず、その伽羅色から視線を逸らした。

 どくり、どくりと。

 先程よりも更に強くなる鼓動と、次第に熱くなっていく身体を手の平に感じて、香彩は思わず竜紅人の胸板から手を引く。
 掴まれていた手首をあっさり放す竜紅人に、彼らしくないと香彩は思わず竜紅人を見てしまった。
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