【完結】百日後、溺愛狐に嫁入りすることになりました

伊藤あまね

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*二十二章 ふかいふかいやみいろのあくむ

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 気付くとぼくは、真っ暗な、湿ったぬるい風が吹きつけてくる中をひとりで歩いていた。
 若草色の着流しと羽織を着て、白い足袋に同じ若草色の鼻緒の草履を履いていたはずなのに、ぼくは寝巻のような襦袢のような薄い着物姿に裸足だった。
 歩いている道も真っ暗で、どんなところを歩いているのか、道の幅は狭いのか広いのか、歩いている両脇に何があるのかもわからない。
 わからないのに、ぼくはそこを歩き続けるしかないと思い込んでいて、ただひたすらに歩いていた。前も後ろも、何も見えない中を、ひとりで。
 身体に吹きつけてくるぬるい風の感触は妙に気持ち悪く、寒くないのに、ぼくは歩きながら鳥肌が止まらなかった。
 その内に、どこからか、ぽちゃん、ぽちゃん、という小さな音が聞こえ始めた。

 ――どこからだろう、水が滴る音が聞こえる……

 水滴が水面に滴る音が、耳が痛くなるほど静かな暗い中に響いているのがたまらなく怖かった。
 水音は、大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、淡々と続く。ぼくの歩いているすぐそばで聞こえたり、ものすごく遠くの方で聞こえたりもしながら。

 ――……紺……どこ?

 不意にぎった人物の名に、ぼくは思わず足を止めて辺りを見渡す。見えるのは、やっぱり指の先も見えない暗闇ばかり。
 こういう時こそ一緒にいて欲しい人の影がないことに気づいたぼくは、それまでひたすらに歩き続けていた足を止めてしまった。
 足を止めてしまうと、それまで見ないふりをしていた恐怖心が一気に姿を現してぼくの心に影を落とす。

 ――……紺?

 真っ暗な中に、水滴の音とぼくの声が交差する。
 何度も何度も、紺の名前を呼ぶ。何度呼んでも、応えはない。
 自分の声の後に広がる静寂が怖くて、呼びかける声が段々と大きくなっていく。
 ……でも、やっぱりどこからも返事はない。

 ――紺! ねえ、どこにいるの?

 声は恐怖心に比例するように段々と叫びに変わっていく。ぼくはもう一ミリも歩き進めることができなくなっていた。
 正直その場にへたり込みたい気分だったけれど、そうしてしまうにはあまりに辺りが真っ黒に暗かった。
 ぬるい風が、強くなってぼくを包む。吹きつけてくる、舐めるような感触に一層鳥肌が立つ。膝が震えてまともに立ってもいられなくなってきていた。
 こわい、怖い、コワイ……言葉にならない恐怖が風となってぼくを頭から舐めていく。

『……ひいとぉ……ひいとぉ……』

 恐怖心がピークに達しようとしたその時、どこからかぼくを呼ぶ低い声が響いた。
 紺が来てくれたのかと思って辺りを見渡してみたけれど、やっぱりなにも誰もいない。

――紺! 紺! ねえ、どこにいるの?

繰り返し闇の中に問うてみても、返ってくる言葉はない。あるのは、強いぬるい風と不気味に無機質に低いぼくを呼ぶ声ばかり。
 動けなくなったぼくが顔をあげたその先には……――真っ赤な口のような穴がぽっかりと空いていて、ぼくを呑み込もうとしていた。
 
――……っや……やだ、やだ……紺! 紺‼

 声にならない悲鳴が、吐き気のように喉をせり上がってくる。大きく口を開いているはずなのに、声がまったく出てこない。
 喉をかきむしっても、もがいても、声は出てくる気配もなくて――その内に、真っ赤な口はじわじわとぼくに近づいてきていた。
 恐怖のあまり腰が抜けてしまったぼくは、ついにその場にへたり込んでしまう。べったりとした地面の感触が気色悪く脚に絡みつくのも構わずに。

『……ひいとぉ……まてぇ……まてぇ……』

 真っ赤な口から、低い声でぼくを呼ぶ声がする。ぞっとするほど甘い、不気味な声色。
 震えてがくがくしている脚を奮い立たせて、ぼくは何とか立ち上がって転がるように駆けだす。
 もと来た道なのか、これから行くはずだった道なのかわからない、真っ暗な闇ばかりが続く中を今度はひたすらに走った。
 足許は、さっき歩いていた時には感じなかったのに、ひどくぬかるんでいることに気づいた。ヘドロが、裸足に絡みついてくる。
 びちゃびちゃと踏みつけるぼくの足音と、荒い呼吸音、時々、ぼくを呼ぶあの低い声。真っ暗な闇の中に響くのはそんなものばかり。

 ――ッは、あ……っはぁ、はぁ……紺……紺……!

 どこまで行っても、ゴールが見えない。入り口さえない。暗いくらい闇ばかりが延々と続く。
 どれぐらい走ったかわからないところまで来た辺りで、ぼくは足がもつれて派手に転んでしまった。
 べったりとする感触の地面に身体が投げ出されて、襦袢がたちまちにヘドロに塗  まみれる。
 それでも構わず立ち上がって、ぼくは走る。はるか頭上から口を開けて追いかけてくる何かわからないものから逃げるために。
 お腹が段々痛くなってきて、ぼくのお腹には赤ちゃんがいることを思い出し、そっとそこに手を宛がう。
 赤ちゃんが怖がっているのかもしれない……ごめん、ごめんね……心の中で祈るように謝りながら、ぼくはまた走る。

 ――……逃げなきゃ、この子を護るためにも……ここじゃない、どこかへ……

 ここではないどこか……脳裏に過ぎるのは、紺がいる場所だった。
 あたたかでやさしい匂いのする、ぼくらの家に帰りたい。紺に、ぎゅっとして欲しい。視界がにじんで揺れて、滴って頬を伝っていくのが止まらなかった。

 ――紺に逢いたい……紺に逢いたい…… 紺……紺……どこにいるの……

 立ち止まることも振り返ることもできないまま、ぼくは真っ暗な闇の中を走り続ける。
 自分と、お腹の中の紺との大事な赤ちゃんを護るために。早く、もう大丈夫だよとお腹の中に伝えるために。

「――緋唯斗」

 その瞬間、不意に涙が出るほど懐かしい、大好きな声が聞こえた。ぼくの名前を呼んでくれたのが聞こえた。
 ――紺の声だ! 瞬時にわかったぼくは、恐怖で張り裂けそうな胸を抱えながら、痛むお腹をさすりながら、渾身の声で名前を叫ぶ。

「紺‼ ここだよ! ぼく、ここにいるよ‼」

 闇の中に、ぼくの叫び声が響き渡る。どこまでも、どこまでも声はこだましていく。
 こだまする声を打ち消すように、背後からも低い不気味な声がぼくを呼ぶ。

『……ひいとぉ……ひいとぉ……まてぇ……まてぇ……』
「いやだ! 絶対に、お前なんかのところに行かない!」

 不気味な声を振り切るように叫び返し、もう一度ぼくは大好きな声のする方へ名前を叫ぼうと口を開いた。
 その後ろでは、同じようにぼくを呑み込もうと赤い口が一層大きく開かれているとも知らずに――


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