3 / 31
*二章 「コン」との出会いとぼくの後悔
しおりを挟む
白川くんが「あの事」と言っていた狐のこと――コンと出逢ったのは、一週間くらい前だ。
夕方、いつものようにバイト先のたんぽぽから自然公園の遊歩道の中を通ってアパートに帰っていると、植え込みの周りでカラスが数羽騒いでいた。
「なんだろ?」
エサの取り合いでもしているんだろうか? と思ってなんとなくその植え込みの奥を覗いてみたら、そこだけ雪が積もっているみたいに真っ白な積もりたての雪のような塊が見える。
――生き物……白い、犬……? 白いものの正体を確信して傍によってさらに驚いた。白いと思っていた毛並みの下には真っ赤で痛々しい傷が見えたからだ。
カラスたちはきっとこの犬の血のにおいを嗅ぎつけて騒いでいたんだろう。まさにエサにするために。
脳裏に過ぎった光景に背筋が凍ったぼくは、カラスを追い払って急いで拾った犬の身体を抱え上げて獣医の谷先生の病院へ駆け込んだ。
腕の中の命の火が段々とか細くなっていく感触がじわじわと伝わってきて、ぼくは居てもたってもいられなかった。
「おいおい、今回は狐じゃないか。どこで拾ってきた?」
谷先生は休診日だったのにもかかわらず、急患の犬――と思っていたものは、実は手負いの白い狐だった――を受け入れてくれた。
「そこの公園の藪の中にいたんです……って、狐なんですか⁈ この子」
「パッと見、素人だと見分けがつきにくいんだよ。これは狐。それも銀狐だ」
「銀狐……」
「それより、しっかり手を洗って。消毒も念入りにな。手負いの野生動物触ったんだから」
先生に狐を診てもらっている間、ぼくは手負いの野生動物に触れてしまったので念入りに手洗いと消毒をして再び診察室に入ると、谷先生は険しい顔をして腕組みをしている。
「……こいつは厳しいぞ、緋唯斗くん」
だけど、谷先生が狐を診て開口一番の言葉はかなり厳しいものだった。
狐はどこかで大きな犬にでも噛まれたようで、命からがら公園のあの場所に逃げてきたところをカラスに襲われていたのだろうと谷先生は言う。
「……助かりますよね、先生」
「何とも言えん。最善は尽くす、と言っておくが……過剰に期待もしないでくれ」
お願いします、どんなことしても助けてください! と、ぼくはすがるように言ったのを、谷先生は複雑な顔をしてうなずく。
手術は夜遅くまでかかり、ぼくはずっと待合室で待つことになった。
晩御飯を食べることも忘れて、あの狐が助かってくれるならぼくがどうなったってかまわないから、とずっと祈っていたほどだ。
どれぐらい待合室のソファに座ったり立ったり、フロアをうろうろしていただろう。
「終わったよ」と、手術を終えて疲れきった顔で谷先生に告げられた時やっと息ができた気がしたくらいにホッとした。
だけど、谷先生の顔から狐の容体があまり良くないのはすぐにわかった。
「お別れをしてやりな。ひとりきりじゃさびしだろうから」
谷先生からそう促されてぼくは狐が横たわる手術室に入れてもらうと、小さな動物の手術台の上に狐はさっきまで真っ赤だった身体をきれいにしてもらって横たわっている。
白い毛並みにそっと触れるとそこはまだやわらかで、ほんのりあたたかでもあった。
「――……コン」
密かにつけようと思っていた名前をぼくがそっと呼ぶと、それまでぐったりしていたように見えたのに気だるげにぼくのほうに目を向けた気がした。真っ黒な夜色のガラス玉みたいな眼の中に、泣き濡れたぼくの姿が映し出される。
名前を付けてあげたら、きっとまた会えるんじゃないかと思えた。例えば、うんとぼくが歳を取ってこの世から消えた後の世界とかで。名前をつけることはそんな儚い約束を交わすことに似ていると思う。
ぼくがそっと腕で囲って頭から背中にかけて触れて撫でてやると、コンはまたぐったりと、だけど心なしか気持ちよさそうに目を閉じる。
「……ごめん、ね……助けてあげられなくて……また、必ずどこかで会おうね……」
零れ落ちてくるぼくの涙を浴びるように受け止めながら、コンはその内段々と上下させていたお腹の動きを弱めていって、やがてそれもゆっくりと止まってしまった。
腕の中のコンはまだかすかにあたたかいのに、さっきまで感じていた小さな鼓動も呼吸も、いまはどこにもない。
コンの息が途絶えたのを確かめた瞬間、ぼくは胸の中が空っぽになったような感覚に襲われた。
でもその場でずっと泣いているわけにはいかないから、ぼくは谷先生に相談して、せめてきちんとお別れしたいと思ったので動物用の火葬業者を手配してもらう。
「緋唯斗くん、コンくんを入れてあげる棺の箱、お花の代わりにこのタオルを敷いてあげようか」
看護師さんに呼ばれてほんのちょっとぼくがコンのそばから離れ、谷先生も業者に電話したりして一瞬だけ手術室に誰もいなくなった時があった。
ミカン箱ぐらいのきれいな箱にやわらかそうなライトブルーのバスタオルを敷き詰めてぼくと看護師さんが手術室に戻ってきたら――コンが、いなくなっていたんだ。
「……え? コン?」
コンの姿がないだけでなく、コンが横たわっていて手術台に滲みついていた赤い血痕なんかもすべてきれいに、拭きとったみたいに消えていた。手術室はもちろん、病院の正面の入口も裏口も誰も出入りした気配はなかったはずなのに。
ぼくも谷先生も看護師さんも病院内はもちろん、周辺のゴミ捨て場や公園の方まで足を延ばして探してみたけれど、コンの姿はどこにもなかったのだ。
なんだか本当に狐につままれたような気分で呆然としたまま、ぼくはひとまず谷先生たちにお礼を言ってアパートに帰った。
二度の大きな、それも不可解な別れがあってすごく疲れてしまっていたのか、ぼくは帰り着くなり敷きっぱなしの布団に飛び込んで寝落ちてしまっていた。
そしてその夜、あの、ぼくが花嫁姿をしていたすごく不思議な夢を見たのだ。
『――……百日後に、あなたを嫁に迎えにゆく……』
朱い鳥居に囲まれた景色の中、長くて綺麗な銀色の髪をした男の人にそう告げられる花嫁姿になっていたあの夢を。
夕方、いつものようにバイト先のたんぽぽから自然公園の遊歩道の中を通ってアパートに帰っていると、植え込みの周りでカラスが数羽騒いでいた。
「なんだろ?」
エサの取り合いでもしているんだろうか? と思ってなんとなくその植え込みの奥を覗いてみたら、そこだけ雪が積もっているみたいに真っ白な積もりたての雪のような塊が見える。
――生き物……白い、犬……? 白いものの正体を確信して傍によってさらに驚いた。白いと思っていた毛並みの下には真っ赤で痛々しい傷が見えたからだ。
カラスたちはきっとこの犬の血のにおいを嗅ぎつけて騒いでいたんだろう。まさにエサにするために。
脳裏に過ぎった光景に背筋が凍ったぼくは、カラスを追い払って急いで拾った犬の身体を抱え上げて獣医の谷先生の病院へ駆け込んだ。
腕の中の命の火が段々とか細くなっていく感触がじわじわと伝わってきて、ぼくは居てもたってもいられなかった。
「おいおい、今回は狐じゃないか。どこで拾ってきた?」
谷先生は休診日だったのにもかかわらず、急患の犬――と思っていたものは、実は手負いの白い狐だった――を受け入れてくれた。
「そこの公園の藪の中にいたんです……って、狐なんですか⁈ この子」
「パッと見、素人だと見分けがつきにくいんだよ。これは狐。それも銀狐だ」
「銀狐……」
「それより、しっかり手を洗って。消毒も念入りにな。手負いの野生動物触ったんだから」
先生に狐を診てもらっている間、ぼくは手負いの野生動物に触れてしまったので念入りに手洗いと消毒をして再び診察室に入ると、谷先生は険しい顔をして腕組みをしている。
「……こいつは厳しいぞ、緋唯斗くん」
だけど、谷先生が狐を診て開口一番の言葉はかなり厳しいものだった。
狐はどこかで大きな犬にでも噛まれたようで、命からがら公園のあの場所に逃げてきたところをカラスに襲われていたのだろうと谷先生は言う。
「……助かりますよね、先生」
「何とも言えん。最善は尽くす、と言っておくが……過剰に期待もしないでくれ」
お願いします、どんなことしても助けてください! と、ぼくはすがるように言ったのを、谷先生は複雑な顔をしてうなずく。
手術は夜遅くまでかかり、ぼくはずっと待合室で待つことになった。
晩御飯を食べることも忘れて、あの狐が助かってくれるならぼくがどうなったってかまわないから、とずっと祈っていたほどだ。
どれぐらい待合室のソファに座ったり立ったり、フロアをうろうろしていただろう。
「終わったよ」と、手術を終えて疲れきった顔で谷先生に告げられた時やっと息ができた気がしたくらいにホッとした。
だけど、谷先生の顔から狐の容体があまり良くないのはすぐにわかった。
「お別れをしてやりな。ひとりきりじゃさびしだろうから」
谷先生からそう促されてぼくは狐が横たわる手術室に入れてもらうと、小さな動物の手術台の上に狐はさっきまで真っ赤だった身体をきれいにしてもらって横たわっている。
白い毛並みにそっと触れるとそこはまだやわらかで、ほんのりあたたかでもあった。
「――……コン」
密かにつけようと思っていた名前をぼくがそっと呼ぶと、それまでぐったりしていたように見えたのに気だるげにぼくのほうに目を向けた気がした。真っ黒な夜色のガラス玉みたいな眼の中に、泣き濡れたぼくの姿が映し出される。
名前を付けてあげたら、きっとまた会えるんじゃないかと思えた。例えば、うんとぼくが歳を取ってこの世から消えた後の世界とかで。名前をつけることはそんな儚い約束を交わすことに似ていると思う。
ぼくがそっと腕で囲って頭から背中にかけて触れて撫でてやると、コンはまたぐったりと、だけど心なしか気持ちよさそうに目を閉じる。
「……ごめん、ね……助けてあげられなくて……また、必ずどこかで会おうね……」
零れ落ちてくるぼくの涙を浴びるように受け止めながら、コンはその内段々と上下させていたお腹の動きを弱めていって、やがてそれもゆっくりと止まってしまった。
腕の中のコンはまだかすかにあたたかいのに、さっきまで感じていた小さな鼓動も呼吸も、いまはどこにもない。
コンの息が途絶えたのを確かめた瞬間、ぼくは胸の中が空っぽになったような感覚に襲われた。
でもその場でずっと泣いているわけにはいかないから、ぼくは谷先生に相談して、せめてきちんとお別れしたいと思ったので動物用の火葬業者を手配してもらう。
「緋唯斗くん、コンくんを入れてあげる棺の箱、お花の代わりにこのタオルを敷いてあげようか」
看護師さんに呼ばれてほんのちょっとぼくがコンのそばから離れ、谷先生も業者に電話したりして一瞬だけ手術室に誰もいなくなった時があった。
ミカン箱ぐらいのきれいな箱にやわらかそうなライトブルーのバスタオルを敷き詰めてぼくと看護師さんが手術室に戻ってきたら――コンが、いなくなっていたんだ。
「……え? コン?」
コンの姿がないだけでなく、コンが横たわっていて手術台に滲みついていた赤い血痕なんかもすべてきれいに、拭きとったみたいに消えていた。手術室はもちろん、病院の正面の入口も裏口も誰も出入りした気配はなかったはずなのに。
ぼくも谷先生も看護師さんも病院内はもちろん、周辺のゴミ捨て場や公園の方まで足を延ばして探してみたけれど、コンの姿はどこにもなかったのだ。
なんだか本当に狐につままれたような気分で呆然としたまま、ぼくはひとまず谷先生たちにお礼を言ってアパートに帰った。
二度の大きな、それも不可解な別れがあってすごく疲れてしまっていたのか、ぼくは帰り着くなり敷きっぱなしの布団に飛び込んで寝落ちてしまっていた。
そしてその夜、あの、ぼくが花嫁姿をしていたすごく不思議な夢を見たのだ。
『――……百日後に、あなたを嫁に迎えにゆく……』
朱い鳥居に囲まれた景色の中、長くて綺麗な銀色の髪をした男の人にそう告げられる花嫁姿になっていたあの夢を。
0
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中
risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。
任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。
快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。
アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——?
24000字程度の短編です。
※BL(ボーイズラブ)作品です。
この作品は小説家になろうさんでも公開します。
オメガ修道院〜破戒の繁殖城〜
トマトふぁ之助
BL
某国の最北端に位置する陸の孤島、エゼキエラ修道院。
そこは迫害を受けやすいオメガ性を持つ修道士を保護するための施設であった。修道士たちは互いに助け合いながら厳しい冬越えを行っていたが、ある夜の訪問者によってその平穏な生活は終焉を迎える。
聖なる家で嬲られる哀れな修道士たち。アルファ性の兵士のみで構成された王家の私設部隊が逃げ場のない極寒の城を蹂躙し尽くしていく。その裏に棲まうものの正体とは。
もう一度、恋になる
神雛ジュン@元かびなん
BL
松葉朝陽はプロポーズを受けた翌日、事故による記憶障害で朝陽のことだけを忘れてしまった十年来の恋人の天生隼士と対面。途方もない現実に衝撃を受けるも、これを機に関係を清算するのが将来を有望視されている隼士のためだと悟り、友人関係に戻ることを決める。
ただ、重度の偏食である隼士は、朝陽の料理しか受け付けない。そのことで隼士から頭を下げられた朝陽がこれまでどおり食事を作っていると、事故当時につけていた結婚指輪から自分に恋人がいたことに気づいた隼士に、恋人を探す協力をして欲しいと頼まれてしまう……。
[BL]王の独占、騎士の憂鬱
ざびえる
BL
ちょっとHな身分差ラブストーリー💕
騎士団長のオレオはイケメン君主が好きすぎて、日々悶々と身体をもてあましていた。そんなオレオは、自分の欲望が叶えられる場所があると聞いて…
王様サイド収録の完全版をKindleで販売してます。プロフィールのWebサイトから見れますので、興味がある方は是非ご覧になって下さい
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
愛の鎖が解ける先に
赤井ちひろ
BL
可愛すぎる容姿故にいつも恋愛のいざこざに巻き込まれ、このたび29回目の解雇が決まった三淵葵が、偶然にも出会った堅物男に恋をした。
恋人を失った悲しみから二度と恋なんかしないと誓ったはずの東條は、三淵のほんわかした天然っぷりにほだされていく。
一時でも亡き恋人を忘れてしまった罪悪感から、東條は……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる