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アキとユズ*第五章

uneasy night*1

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「―――え、いま、なんて…?」

 午後の終わり、珍しい相手から電話があった。急ぎの仕事もコンペの予定も憶えがなかった俺は、スマホの画面に表示された相手の名に首を傾げた。と、同時に、ワケもなく淡くぼんやりと不安に近い感情を覚えた。
 まだ話も聞いていないのに失礼過ぎるだろ…と、苦笑気味に電話に応じて、そして、ワケもなく輪郭も曖昧だった筈の不安の正体を知ることになった。

「えっとね、八百谷やおや総合病院。救急のとこらしいんすけど…まあ、さっき電話して来てくれたぐらいだから、処置とかは終わってるのかも。」
「……はぁ…」
「んでー…俺ちょうど今日部活休みだし会議とかもないから、荷物届けがてら病院行こうかなって思うんすけどー…」

 電話口の声が小声なのは勤務中の私用電話だからなのと、よりにもよって相手が相手だからなのかもしれない。肉親でも、配偶者でもない…友人の恋人、なんて堂々と言えない奴にかけているからかもしれない。それでもあえて彼が俺に報せてくれたのは、たぶん、“同志”だからだろう。
 電話口の背後から微かに感じられる彼の職場の気配と声に囁くように告げられる事柄を、俺は震えそうな手でどうにかそこら辺の紙の端に書き留めた。「八百谷、救急、迎え」断片的にならぶ単語の意味は、電話を終えた俺ですら解読できるのか定かではなかったけれど。
 大丈夫ですよ、と言って、電話は切れた。あと30分ぐらいしたら迎えに行く、ともつけ足して。
 電話を終えた途端、足元が揺らいだ気がして俺はその場にへたりこんでしまった。たった今告げられた事が現実なのか夢なのか、なにか性質の悪い冗談なのか、咄嗟に判断しきれなかったからだ。
 指先がちいさく震えていた。膝も、微かに。歯の根が合わなくてまるで猛吹雪の中にそのまま放り出されたかのようにがちがちと鳴り出しそうになっていた。
 ふと目に留まった、いつも以上に読みにくい自分の字で綴られたヒステリックなメモ書きが、いまの電話とそれから告げられた事が現実で事実なんだと教えてくれる。知りたくもないって思っているのに、それを丸めて捨てるのもできなかった。

「…と、りあえず…なんか、飲んで…着替え、よ…」

 編集さんとの打ち合わせも急ぎの買い物もない、夕方まで特に何の用事もない日は昼ぐらいまで寝ていることが多い俺の格好は、ちょっとすぐに表へ出ていい物ではなかった。
 ようやく震えも治まってきた脚を奮い立たせて、のろのろと仕事部屋を後にする。隣の寝室のクローゼットから適当に取りだした服に着替えて、もさもさの髪を撫でつけながら冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出した。
 ちいさい紙パック入りので、ストローを挿してひと口啜った時、これは昨日の夕方のお土産だったことを思い出した。「ビタミンとかった方がいんじゃないかなーって思って」って言いながら、フルーツがゴロゴロ入っているヨーグルトと一緒に持って来てくれたんだ。たった、10数時間ぐらい前の話だ。
 たった1日も過ぎてなくて、まさかこんなことになるなんて思ってなかった。俺も、多分…お土産を持って来てくれたアキくんも。いつもどおりに俺が作った夕飯食べて、並んで片付けをして、ちょっとだけ、じゃれて。
 大したことないって、さっきの電話で鹿山くんも言ってくれていたし、アキくんが自分から電話して来ていたって言っていたし…大丈夫だよ、そう、電話口で何度も言われていたのに、言われる程に俺はぽたりぽたり薄墨が真っ白な紙に滴るように、不安が止め処なく積み上がってくのを止められなかった。
 不安の色の雪がしんしんと静かにひっそりと俺の足許を埋めていく。いまでも、止め処なく。
 鹿山くんを信じてないわけじゃない。職場の関係者でも、まして家族ですらない俺に、それも仕事中にわざわざ報せてくれた彼の親切心にケチをつける様な事なんてできないもの。だけど、どうしても、不安で、同じぐらい悲しくて仕方ない濡れ鼠色の気持ちは拭いようがなかった。
 鹿山くんからまた連絡があるまでの間、何をするにも手がつかなくて、本当に文字通りぼーっとリビングの椅子に座って、飲み干す事も出来ないままのオレンジジュースのパックを眺めていると、もう一度スマホが鳴った。
 静まり返った部屋に不釣り合いなほどけたたましい音を立てているそれに出ると、鹿山くんがウチのマンションのすぐ下までついたという電話だった。
 上着と、部屋の鍵とスマホと財布を放り込んだぺらぺらのトートバッグを引っ掴んで、俺は部屋を飛び出た。
 ワインレッド色のちいさな軽自動車で迎えに来てくれた鹿山くんから、病院に着くまでの間簡単に事の顛末を聞かされた。


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