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アキとユズ*余聞
雨とカフェ・オレ
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――――いつからだろう…あんなに好きだった声に、こんなに苛立つようになっていたのって……
「ねーえ、陽人ぉ、聞いてるぅ?」
雨の降った週末。天気が良ければ先月の連休にリニューアルしたらしい隣町のアミューズメントパークに行こうと話していたのに、生憎の天気になって中止。しかも、お互いの仕事の都合やらなんやらでタイミングが合わずに実に2週間ぶりぐらいの逢瀬だったのに、だ。
約半月ぶりの逢瀬。以前までなら2人――いや、相手にとっては今もそうなのかもしれないけれど――の感情を盛り立ててくれるいい起爆剤になっていた。物理的に恋しいはずの相手に触れ合えない状況は、SNSや通信手段が進化している昨今であっても圧倒的ダメージを誇る。画面越しでない相手の肌や声や息遣いの感触はどんなに精巧な複製品だって敵わないだろう。
なのに……俺の気持ちは部屋の外に降り注ぐ雨模様のように冴えない。折角、休日に恋人と久し振りに好きなだけ触れ合えるほど近くにいるのに。
休日の昼間、ただ再放送のドラマが映るテレビの画面をぼんやり眺める他することがない。寝転んだまま肘枕をしてテレビを眺める俺の視界に、わざとらしいふくれっ面をした彼女の顔が割り込む。眉の薄い、少し荒れたすっぴんの肌で。
いい歳して、なんだその気の惹き方は…呆れて彼女の幼稚な行動を鼻で笑う俺の様を、彼女は自分の仕草の可愛さへの反応だと勘違いしたらしく、膨れていた口許がぷすりと息を吐いた。
「んー…あー…ごめん、ユナ…なんだっけ?」
「もーぅ…だからぁ、ライヴ。来週なんだけど、行くでしょ?チケットも貰ってきてあげたよ。」
「あー…サンキュー…」
予報によれば今日を山場に明日まで季節外れの台風並みの雨量らしく、仕方なく俺らは前日の段階で予定を変更し、急きょ俺の家でお泊り会になった。
(……貰ってきてあげたって…つーか俺、そのライヴ、そもそも行くって言ったっけ?)
行く予定を組んでいたかも定かでないイベントのチケットを、勝手に手配されていることにも軽く苛立ちを覚えながらも、俺はもう一度はその来週のライヴの話を聞かされていた。
友達の先輩の彼氏とやらが出演するらしいそのライヴイベントは、来週の夜にほぼオールナイトで開かれるらしい。ドリンク飲み放題付のチケットは相手の奢りなのか、それとも単純に俺に請求し忘れているのか、とりあえず今のところはイベントの説明をするのにアタマがいっぱいらしい。
知り合いのバンドの出演順とそのバンドの雰囲気の説明、最近出演した他のライヴイベントの話をしていく内に、どんどんと目の前に置かれたチケットに書かれたイベントの話からずれていく。以前のライヴでの出来事の話からその知り合いのイベントとは全く関係のない話、その知人との思い出話……とめどなく溢れ続ける言葉を乗せた声が、どんどんどんどん俺を浸食していく。甘さを鼻にかけた幼さの少し滲む声のさざ波に、俺は抗うこともなくぼんやりと半身が呑みこまれていかれていくままにしていた。
浸食してくる波に抗わないのは、そこそこに長い付き合いから得た経験からだ。とめどなく流れる言葉をうっかりせき止めてしまう事のないように注意を払いながら、右から左へと流していく事。逆に、対して興味もない、知りもしないのに下手に言葉に食いついてしまうと、却って相手の逆鱗に触れてしまいかねない事も。
――――いつからだろう、こうやって彼女が話しかけてくれることが鬱陶しく思えてきてしまったのは……
説明下手で、話が無駄に長くなってしまう癖にも軽く苛立ちを最近は覚え始めている。仕事で疲れているのかな…そう、思えなくもないけれどそれだけのせいにできるような種類の苛立ちとは違う事にも薄々自覚がなくはなかったが、見て見ぬふりをすることにした。その方がたぶん今は楽だからだ。
「―――…でね?悪いんだけど、この日、先に行っててくれる?私、この日研修でね、開演までに着けるか微妙なの。」
「…え?あ、そう…」
「チケット先に渡しとくから、いいよね?」
文末に疑問符が付きつつも拒否権は俺にない。頷く他術がないのに、わざわざ寝ころんでテレビを見ている俺の顔を再び覗き込んできて影を落とす姿に、苛立ちがふつりと湧いた。邪魔だな、と。
同時に、俺はそれまでうつらうつらと半分眠りかけていた意識が冷水を掛けられたようにはっきりと覚醒するのを感じた。一瞬自分の胸中を過った感情に驚きを隠せなかったからだ。見て見ぬふりをしている方が楽だと思っていた感情が、向こうからやってきた気がした。
今回のお泊り会はお互いの仕事の都合やらなんやらでタイミングが合わずに実に2週間ぶりぐらいの逢瀬だった。出かける予定がお流れになったとは言え、こうしてのんびり2人で過ごせている状況が苦痛を覚える退屈に思えてならなくなっていること。この世で一番可愛いと思っていた、俺だけのものになってあんなに喜んでいた筈の相手の表情や仕草にそんな感情が湧いたことに自分でも愕然としていた。あまりに黒く意地の悪い感情を、好きだったはずの相手に躊躇いなく向けている自分に。
(―――いや、もう、既に、可愛いと“思っていた”って、過去形になってるじゃないか……)
往生際悪く自分の本音と向き合おうとしない己のヘタレ具合に自嘲するほかなかった。なんて、情けない。もういい加減に認めてしまえよ、そう、口元を歪めながら。
いつの間にか、相手は寝ころぶ俺に添うように身を寄せて一緒に寝転んでいた。当たり前のように俺の胸元から腕にかけて寄りかかってくる頭部がやけに重たく感じられた。まるで俺の胸中を見透かし、その底意地の悪さの罰として課せられた重石のようだった。
「その先輩の彼氏のバンドって、かなりヤバいんだってー。なんか、レコード会社の人に声かけられたことあるとかって言うしー…」
すごくない?と、言いながら、腕の中からまた俺の顔を覗き込んでくる。深い森の中に居そうな、ちいさな木の実を好む小動物みたいな丸い黒目がちな瞳が、もう既にこの状況が牢獄でしかなくなっている囚われの俺の惨めな姿が映し出されていた。
仕事で疲れ切っててぼろぼろで、興味もない話に延々とつき合わされお愛想に頷くか適当に言葉を挟むしか出来ない、なんとも情けない自分の姿をこれ以上見たくなくて、俺は、その姿を映す瞳に唇を落とすことで覆い隠した。そんなことした所で、俺が惨めなことに変わりはないのに。
不意の口づけに、相手はくすくすと、だけど満更ではない風に甘く笑った。わざとらしき肌を密着させてくる自分に俺が欲情したと思っているんだろう。俺は、彼女の手の中で転がせるほどの取るに足らない容易い存在だと、一種の蔑視を感じずにはいられなかった。
しかも、この先このまま恋人を続けた果てに互いが、人生の伴侶とやらに相応しい存在になれると思い込んでいる、彼女の恐ろしい図々しさと計算高さの垣間見える微笑みに背筋の凍るような思いがした。自分のステータスアップのために、俺を捕まえておいて踏み台にしてやろうという無意識化の彼女の野望の火種に気付いてしまったのは、いつからだっただろうか?
すべてを、打ち消したかった。何かの思い違いだと信じたくもあった。何故なら、俺にも腕の中で甘く微笑む相手を生涯の伴侶だろうと錯覚していた時期が確かにあったからだ。もうそんな甘いお菓子のような感情は、どこにも見当たらないのだけれど。
いつの間にその甘いお菓子を落としてしまったんだろう。いつ、どこで。誰かが食べてしまったんだろうか。俺は、どうしてそれを止められなかったんだろうか。大切だと、愛していると、確かに思っていた筈なのに……いまはもう、相手の望むままに肌に口付し、胸元や首筋を舐め、甘い声で啼き出すまで指先を巡らせるその一連の流れが苦行のようでしかなかった。
腕の中から、春先の野良猫のような声が聞こえ始めてきた。行為に夢中になっているふりをして顔を伏せたり目を瞑ったりしていると、まるで自分が化け猫を抱いているかのような気さえしてきた。
もうだめだ、もうこれ以上こいつに関わるなんてできない―――――それでも、躰はきちんとそれなりに“役割”を果たしているのだから、つくづく心と躰は別物なんだと思い知らされた。我ながら呆れるほど、俺は見事に望まれるままに相手に悦びの声をあげさせ、啼かせ、ちゃちな避妊具越しに白濁の熱を注ぎ込んでやった。
気持ちなんてぴったり合致しなくても、躰の心地よささえ合っていればそれなりに快楽を得たり与えたりできるんだと、何とも残酷なことを知った出来事だった。
窓の外では昨日から降り続く豪雨の音が、低く遠く聞こえていた。雨音は吐き出した白濁で自らの躰を汚した、情けない姿の俺の上に降り注いでいた。
*****
いつの間にか消えてしまっていた甘いお菓子のような感情が再び俺の許に迷い込んできたのは、それから数か月後の事だった。
新たに得たお菓子は、メレンゲのように儚く、それでいて口に含むとたまらなく甘く濃厚で、味わうたびに貪欲に求めてしまいたくなる。ぐっとそれを抑える事はなかなか難しい。
だけど、相手もまた、俺のことを貪欲に求めてくれるのを感じる。己の欲望のままに求めることを躊躇いつつも、混じりけのない感情で求めてくれる。身体の造りが同じだから余計な小細工がいらないせいか、言葉にならない感情を、文字通り肌で感じあえる瞬間がある。それが、たまらなく、愛しい。
「――――…んぅ?アキくん…?どうしたの?」
「…んー…なんか、眼がさめちゃって。」
寝覚めの瞬間に見た昔の記憶が夢になって出た。昔、というにはまだ生々しい古い記憶。古傷と呼ぶのもちょっと違う、苦い思い出。
変な夢を見た、と苦笑する俺を、ユズが心配そうに見つめてくる。腕の中ではなく、寄り添うように並んで横たわった姿勢から。わずかに触れ合っていた指先がするりと絡み取られて、少しだけ強く握りしめられた。
特に夢の内容を話したワケでも、夢を見てこうだったああだったと言ったワケでもないのに、ユズは暫くの間手を繋いでいてくれた。繋いだ指先から、ゆったりと甘くあたたかな感情を注がれている気がした。苦い記憶が、ゆったりと薄れていく。
「なんかあったかいもの呑む?」
「あー…コーヒーとか。」
「えー?逆に眠れなくなりそうだけど…」
そうだ、牛乳で淹れて、カフェ・オレみたくしようか?と、言いながら、ユズが起き上がる。素肌にTシャツだけを身に着け、床に落としたままの下着を探し出してのろのろと寝室を出ていく。裸同然とも言える似たような姿のまま、俺もその後に続く。
外はいつの間にか雨が降り出しているみたいで、夜中である以上にひどく静かに思えた。
手探りで流しの明かりだけをつけ、ふたりで息を潜めながら冷蔵庫から牛乳を取り出したり、戸棚からコーヒーを出したり、お湯を沸かしたりした。誰か他に眠っているワケでもないのに足音を忍ばせ、声も潜めてそんなことをしている自分たちがおかしくて、時々2人顔を見合わせてちいさく笑った。
儚い、メレンゲのような、あたたかなミルクのような笑み。片手鍋の中の牛乳が湧くまでの間、俺とユズはただ並んで手を繋いでそれを見つめていた。
「アキくん、」
「うん?」
「カフェ・オレはね、嫌な夢を甘くしてくれるんだよ。砂糖をたっぷり入れるとね、もっといいんだって。」
不意にそんなことをユズが言い出した。そっと横顔を見たけれど、寝惚けているのか、本気でそんなことを言っているのか俺には判別しかねた。
でも、さっきまで見ていた苦い記憶の感触がまだ生々しかった俺にとって、彼の言葉はするりと気持ちを解放してくれる魔法の呪文のように思えた。そして本当にカフェ・オレにはそんな効用があるようにも思えた。
もしかしたら、俺は寝てる間に魘されたりしていて、ユズがそれを見たり聞いたりしたのかもしれない。だから、こんなこと言ったりもしたのかもしれない。ユズには話した事のない記憶だけれど、彼は時々不思議と人の胸中の深いところを見透かすような所があるから。
温めた牛乳をインスタント…コーヒーの粉入りのカップに注いでいるユズの眼差しは、手許のミルクのようにやわらかだった。
丁寧に淹れられたカフェ・オレはたっぷりと甘く、知らぬ間に冷えていたらしい手足や身体の中をやさしく温めてくれた。
「…おいしい。」
「そう。よかった。」
雨に呼び起された古い苦い記憶は、いつかミルクと砂糖と混ぜ合わせたコーヒーのようにするりと飲み下すことができるようになるだろうか。
それとも、また、新たに苦い記憶を作り出してしまったりするんだろうか。
苦くても、甘さで誤魔化すことなくやり過ごしたり乗り越えたりできるようになるんだろうか。
――――そうなれたら、一番いいのかもしれないな…できたら、隣に彼がいる所で……
ゆっくりと一口、カフェ・オレを啜る。ユズもまた、マグを両手で包み込むように持ってゆっくりと飲む。
静かな、2人きりの雨の夜。苦いコーヒーを甘くやさしい味に変えて飲み干しながら、俺は、いま隣り合う、とっておきのお菓子のように甘い存在と見つめ合って微笑みあいながらそんなことを想っていた。
<終。>
「ねーえ、陽人ぉ、聞いてるぅ?」
雨の降った週末。天気が良ければ先月の連休にリニューアルしたらしい隣町のアミューズメントパークに行こうと話していたのに、生憎の天気になって中止。しかも、お互いの仕事の都合やらなんやらでタイミングが合わずに実に2週間ぶりぐらいの逢瀬だったのに、だ。
約半月ぶりの逢瀬。以前までなら2人――いや、相手にとっては今もそうなのかもしれないけれど――の感情を盛り立ててくれるいい起爆剤になっていた。物理的に恋しいはずの相手に触れ合えない状況は、SNSや通信手段が進化している昨今であっても圧倒的ダメージを誇る。画面越しでない相手の肌や声や息遣いの感触はどんなに精巧な複製品だって敵わないだろう。
なのに……俺の気持ちは部屋の外に降り注ぐ雨模様のように冴えない。折角、休日に恋人と久し振りに好きなだけ触れ合えるほど近くにいるのに。
休日の昼間、ただ再放送のドラマが映るテレビの画面をぼんやり眺める他することがない。寝転んだまま肘枕をしてテレビを眺める俺の視界に、わざとらしいふくれっ面をした彼女の顔が割り込む。眉の薄い、少し荒れたすっぴんの肌で。
いい歳して、なんだその気の惹き方は…呆れて彼女の幼稚な行動を鼻で笑う俺の様を、彼女は自分の仕草の可愛さへの反応だと勘違いしたらしく、膨れていた口許がぷすりと息を吐いた。
「んー…あー…ごめん、ユナ…なんだっけ?」
「もーぅ…だからぁ、ライヴ。来週なんだけど、行くでしょ?チケットも貰ってきてあげたよ。」
「あー…サンキュー…」
予報によれば今日を山場に明日まで季節外れの台風並みの雨量らしく、仕方なく俺らは前日の段階で予定を変更し、急きょ俺の家でお泊り会になった。
(……貰ってきてあげたって…つーか俺、そのライヴ、そもそも行くって言ったっけ?)
行く予定を組んでいたかも定かでないイベントのチケットを、勝手に手配されていることにも軽く苛立ちを覚えながらも、俺はもう一度はその来週のライヴの話を聞かされていた。
友達の先輩の彼氏とやらが出演するらしいそのライヴイベントは、来週の夜にほぼオールナイトで開かれるらしい。ドリンク飲み放題付のチケットは相手の奢りなのか、それとも単純に俺に請求し忘れているのか、とりあえず今のところはイベントの説明をするのにアタマがいっぱいらしい。
知り合いのバンドの出演順とそのバンドの雰囲気の説明、最近出演した他のライヴイベントの話をしていく内に、どんどんと目の前に置かれたチケットに書かれたイベントの話からずれていく。以前のライヴでの出来事の話からその知り合いのイベントとは全く関係のない話、その知人との思い出話……とめどなく溢れ続ける言葉を乗せた声が、どんどんどんどん俺を浸食していく。甘さを鼻にかけた幼さの少し滲む声のさざ波に、俺は抗うこともなくぼんやりと半身が呑みこまれていかれていくままにしていた。
浸食してくる波に抗わないのは、そこそこに長い付き合いから得た経験からだ。とめどなく流れる言葉をうっかりせき止めてしまう事のないように注意を払いながら、右から左へと流していく事。逆に、対して興味もない、知りもしないのに下手に言葉に食いついてしまうと、却って相手の逆鱗に触れてしまいかねない事も。
――――いつからだろう、こうやって彼女が話しかけてくれることが鬱陶しく思えてきてしまったのは……
説明下手で、話が無駄に長くなってしまう癖にも軽く苛立ちを最近は覚え始めている。仕事で疲れているのかな…そう、思えなくもないけれどそれだけのせいにできるような種類の苛立ちとは違う事にも薄々自覚がなくはなかったが、見て見ぬふりをすることにした。その方がたぶん今は楽だからだ。
「―――…でね?悪いんだけど、この日、先に行っててくれる?私、この日研修でね、開演までに着けるか微妙なの。」
「…え?あ、そう…」
「チケット先に渡しとくから、いいよね?」
文末に疑問符が付きつつも拒否権は俺にない。頷く他術がないのに、わざわざ寝ころんでテレビを見ている俺の顔を再び覗き込んできて影を落とす姿に、苛立ちがふつりと湧いた。邪魔だな、と。
同時に、俺はそれまでうつらうつらと半分眠りかけていた意識が冷水を掛けられたようにはっきりと覚醒するのを感じた。一瞬自分の胸中を過った感情に驚きを隠せなかったからだ。見て見ぬふりをしている方が楽だと思っていた感情が、向こうからやってきた気がした。
今回のお泊り会はお互いの仕事の都合やらなんやらでタイミングが合わずに実に2週間ぶりぐらいの逢瀬だった。出かける予定がお流れになったとは言え、こうしてのんびり2人で過ごせている状況が苦痛を覚える退屈に思えてならなくなっていること。この世で一番可愛いと思っていた、俺だけのものになってあんなに喜んでいた筈の相手の表情や仕草にそんな感情が湧いたことに自分でも愕然としていた。あまりに黒く意地の悪い感情を、好きだったはずの相手に躊躇いなく向けている自分に。
(―――いや、もう、既に、可愛いと“思っていた”って、過去形になってるじゃないか……)
往生際悪く自分の本音と向き合おうとしない己のヘタレ具合に自嘲するほかなかった。なんて、情けない。もういい加減に認めてしまえよ、そう、口元を歪めながら。
いつの間にか、相手は寝ころぶ俺に添うように身を寄せて一緒に寝転んでいた。当たり前のように俺の胸元から腕にかけて寄りかかってくる頭部がやけに重たく感じられた。まるで俺の胸中を見透かし、その底意地の悪さの罰として課せられた重石のようだった。
「その先輩の彼氏のバンドって、かなりヤバいんだってー。なんか、レコード会社の人に声かけられたことあるとかって言うしー…」
すごくない?と、言いながら、腕の中からまた俺の顔を覗き込んでくる。深い森の中に居そうな、ちいさな木の実を好む小動物みたいな丸い黒目がちな瞳が、もう既にこの状況が牢獄でしかなくなっている囚われの俺の惨めな姿が映し出されていた。
仕事で疲れ切っててぼろぼろで、興味もない話に延々とつき合わされお愛想に頷くか適当に言葉を挟むしか出来ない、なんとも情けない自分の姿をこれ以上見たくなくて、俺は、その姿を映す瞳に唇を落とすことで覆い隠した。そんなことした所で、俺が惨めなことに変わりはないのに。
不意の口づけに、相手はくすくすと、だけど満更ではない風に甘く笑った。わざとらしき肌を密着させてくる自分に俺が欲情したと思っているんだろう。俺は、彼女の手の中で転がせるほどの取るに足らない容易い存在だと、一種の蔑視を感じずにはいられなかった。
しかも、この先このまま恋人を続けた果てに互いが、人生の伴侶とやらに相応しい存在になれると思い込んでいる、彼女の恐ろしい図々しさと計算高さの垣間見える微笑みに背筋の凍るような思いがした。自分のステータスアップのために、俺を捕まえておいて踏み台にしてやろうという無意識化の彼女の野望の火種に気付いてしまったのは、いつからだっただろうか?
すべてを、打ち消したかった。何かの思い違いだと信じたくもあった。何故なら、俺にも腕の中で甘く微笑む相手を生涯の伴侶だろうと錯覚していた時期が確かにあったからだ。もうそんな甘いお菓子のような感情は、どこにも見当たらないのだけれど。
いつの間にその甘いお菓子を落としてしまったんだろう。いつ、どこで。誰かが食べてしまったんだろうか。俺は、どうしてそれを止められなかったんだろうか。大切だと、愛していると、確かに思っていた筈なのに……いまはもう、相手の望むままに肌に口付し、胸元や首筋を舐め、甘い声で啼き出すまで指先を巡らせるその一連の流れが苦行のようでしかなかった。
腕の中から、春先の野良猫のような声が聞こえ始めてきた。行為に夢中になっているふりをして顔を伏せたり目を瞑ったりしていると、まるで自分が化け猫を抱いているかのような気さえしてきた。
もうだめだ、もうこれ以上こいつに関わるなんてできない―――――それでも、躰はきちんとそれなりに“役割”を果たしているのだから、つくづく心と躰は別物なんだと思い知らされた。我ながら呆れるほど、俺は見事に望まれるままに相手に悦びの声をあげさせ、啼かせ、ちゃちな避妊具越しに白濁の熱を注ぎ込んでやった。
気持ちなんてぴったり合致しなくても、躰の心地よささえ合っていればそれなりに快楽を得たり与えたりできるんだと、何とも残酷なことを知った出来事だった。
窓の外では昨日から降り続く豪雨の音が、低く遠く聞こえていた。雨音は吐き出した白濁で自らの躰を汚した、情けない姿の俺の上に降り注いでいた。
*****
いつの間にか消えてしまっていた甘いお菓子のような感情が再び俺の許に迷い込んできたのは、それから数か月後の事だった。
新たに得たお菓子は、メレンゲのように儚く、それでいて口に含むとたまらなく甘く濃厚で、味わうたびに貪欲に求めてしまいたくなる。ぐっとそれを抑える事はなかなか難しい。
だけど、相手もまた、俺のことを貪欲に求めてくれるのを感じる。己の欲望のままに求めることを躊躇いつつも、混じりけのない感情で求めてくれる。身体の造りが同じだから余計な小細工がいらないせいか、言葉にならない感情を、文字通り肌で感じあえる瞬間がある。それが、たまらなく、愛しい。
「――――…んぅ?アキくん…?どうしたの?」
「…んー…なんか、眼がさめちゃって。」
寝覚めの瞬間に見た昔の記憶が夢になって出た。昔、というにはまだ生々しい古い記憶。古傷と呼ぶのもちょっと違う、苦い思い出。
変な夢を見た、と苦笑する俺を、ユズが心配そうに見つめてくる。腕の中ではなく、寄り添うように並んで横たわった姿勢から。わずかに触れ合っていた指先がするりと絡み取られて、少しだけ強く握りしめられた。
特に夢の内容を話したワケでも、夢を見てこうだったああだったと言ったワケでもないのに、ユズは暫くの間手を繋いでいてくれた。繋いだ指先から、ゆったりと甘くあたたかな感情を注がれている気がした。苦い記憶が、ゆったりと薄れていく。
「なんかあったかいもの呑む?」
「あー…コーヒーとか。」
「えー?逆に眠れなくなりそうだけど…」
そうだ、牛乳で淹れて、カフェ・オレみたくしようか?と、言いながら、ユズが起き上がる。素肌にTシャツだけを身に着け、床に落としたままの下着を探し出してのろのろと寝室を出ていく。裸同然とも言える似たような姿のまま、俺もその後に続く。
外はいつの間にか雨が降り出しているみたいで、夜中である以上にひどく静かに思えた。
手探りで流しの明かりだけをつけ、ふたりで息を潜めながら冷蔵庫から牛乳を取り出したり、戸棚からコーヒーを出したり、お湯を沸かしたりした。誰か他に眠っているワケでもないのに足音を忍ばせ、声も潜めてそんなことをしている自分たちがおかしくて、時々2人顔を見合わせてちいさく笑った。
儚い、メレンゲのような、あたたかなミルクのような笑み。片手鍋の中の牛乳が湧くまでの間、俺とユズはただ並んで手を繋いでそれを見つめていた。
「アキくん、」
「うん?」
「カフェ・オレはね、嫌な夢を甘くしてくれるんだよ。砂糖をたっぷり入れるとね、もっといいんだって。」
不意にそんなことをユズが言い出した。そっと横顔を見たけれど、寝惚けているのか、本気でそんなことを言っているのか俺には判別しかねた。
でも、さっきまで見ていた苦い記憶の感触がまだ生々しかった俺にとって、彼の言葉はするりと気持ちを解放してくれる魔法の呪文のように思えた。そして本当にカフェ・オレにはそんな効用があるようにも思えた。
もしかしたら、俺は寝てる間に魘されたりしていて、ユズがそれを見たり聞いたりしたのかもしれない。だから、こんなこと言ったりもしたのかもしれない。ユズには話した事のない記憶だけれど、彼は時々不思議と人の胸中の深いところを見透かすような所があるから。
温めた牛乳をインスタント…コーヒーの粉入りのカップに注いでいるユズの眼差しは、手許のミルクのようにやわらかだった。
丁寧に淹れられたカフェ・オレはたっぷりと甘く、知らぬ間に冷えていたらしい手足や身体の中をやさしく温めてくれた。
「…おいしい。」
「そう。よかった。」
雨に呼び起された古い苦い記憶は、いつかミルクと砂糖と混ぜ合わせたコーヒーのようにするりと飲み下すことができるようになるだろうか。
それとも、また、新たに苦い記憶を作り出してしまったりするんだろうか。
苦くても、甘さで誤魔化すことなくやり過ごしたり乗り越えたりできるようになるんだろうか。
――――そうなれたら、一番いいのかもしれないな…できたら、隣に彼がいる所で……
ゆっくりと一口、カフェ・オレを啜る。ユズもまた、マグを両手で包み込むように持ってゆっくりと飲む。
静かな、2人きりの雨の夜。苦いコーヒーを甘くやさしい味に変えて飲み干しながら、俺は、いま隣り合う、とっておきのお菓子のように甘い存在と見つめ合って微笑みあいながらそんなことを想っていた。
<終。>
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