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絶対安静の入院に入ってから約一カ月半が過ぎたころ、朝の検温に来た有本さんが首を傾げている。
「ちょっとお熱あります?」
「んー、ちょっと身体がホカホカする気がします」
「熱っぽい感じですか? だるいとか」
「そこまではないけど……でも、ちょっとぽやーってする感じ」
先週末辺りから風邪とも言えないようなふわふわする感じがあるにはあって、それから少し眠気がある。これは入院してからほとんどゴロゴロと過ごしているせいからだと思っていたのだけれど、それにしても眠たいのだ。
有本さんは俺の話をメモ用のアプリに書き取り、「先生にもお話してみますね。何かお熱だったらすぐに他の科でも診てもらいますので」と言ってくれたのでちょっと安心した。
そのあとに運ばれてきたのはいつもと変わり映えのないお馴染みの和定食の朝食。味付けは薄いけれど不味くはないのでいつも特に気にかけることなく食べられる……はずなのに、今日はなんだか美味しくない。
「……なんかもっと濃い味のが食べたいな。こってりのラーメンみたいなの」
スナック菓子でもいいから何かガツンと来る味が食べたい……一度気になり始めるともう目の前の食事では物足りなくなっている。何だろう、この感じ。味覚が変わっているような気がする……
ふと、俺は思い出してタブレットのファイルを開く。コウノトリプロジェクトの治療を始めた時にもらった資料の一つだ。『妊娠かなと思ったら』という項目を開いてみる。
「えーっと……“ダルさ、眠気、吐気、味覚の変化――”……味覚の、変化?」
一番当てはまるのはそれだけしかないし、吐気もいまはない。でも眠さとダルさは若干感じるので、もしかしたら……? 俺は、急に自分の身体の変化を探り始める感覚にドキドキしながら、そっとお腹の下の辺りに手を宛がう。もしかしたら……その期待に逸る想いと緊張が走り、俺はひとり小さく笑んでいた。
「――うん、小さいけれど心拍も確認できました。おめでとうございます、ご懐妊ですよ」
有本さんが先生に知らせてくれたので午後の産科の診察台で診てもらった時、蓮本先生からにこやかにそう告げられた。帝都大病院では四十数例目になるコウノトリプロジェクトにより妊娠だとも言われ、俺は現実に惚けて何も言えないでいる。
「独島さん、よく頑張りましたね。とは言えここからがまた大変なのですが、ひとまずおめでとうございます」
「え、あ、あの……子ども、デキてるんですか?」
ポカンとしたままで俺が同じことを訊いても、先生たちは嬉しそうにうなずいて、「そうですよ、おめでとうございます」ともう一度言ってくれた。
エコー写真という胎内の受精卵の様子を撮った写真を手渡されたけれど、画面に映し出された丸が命の種だなんて言われても俺は信じられなかった。信じられなかったけれど、それが俺の中にいるのは確かなのだ。
「いまはまだ胎動も感じられないのでピンとこないかもしれませんが、いまたしかに独島さんのお腹には赤ちゃんの素になる卵があります。まだまだ不安定な状態ですので、無理は決してしないように」
子どもが、もとい、子どもの素になる卵が俺の中に宿っている――焦がれていた状態に辿り着けたことが俺は何より嬉しくて、夢の中にいるような心地がしていた。
先生からの説明を聴きながら、俺は何度も自分のお腹の下の方に手を宛てて語りかけるように撫でていた。まだ海のものとも山のものともつかない生き物の種でしかないのに、すでにもう愛しくて仕方ない。
この先十カ月ほどをまた急激な身体の変化と戦いながら過ごしていかなくてはならないという話を聴きながらも、俺は楽しみと嬉しさが込み上げてきて抑えるのがやっとだった。
「独島さんは、いまスタートラインに立ったんです。ここからが本番ですよ。ですから、僕たちも全力でサポートしていきます。元気な赤ちゃんを産みましょうね」
「はい! よろしくお願いします」
そう、今やっと俺はスタートラインに立てたのだ。妊娠することがゴールではなく、その先にある出産が目指すべきところで、それはまだまだ先の話だ。
それでもいつ頃に生まれそうなのか予定日は大体わかるとのことで、それから数えていつ頃に帝王切開するのかもだいたい決めていく。男性は出産用の骨盤や体型をしていないので、十カ月も妊娠をさせないそうだ。
「週数的に早産の扱いになりますし、生まれてきた赤ちゃんの状態にもよりますが、呼吸器が出来上がっていて体重がある程度あればそう長く入院することはないと思います」
「あの出産までは家に帰れますか?」
「遠出や仕事はできませんが、家でゆっくり過ごすというのであれば退院できますよ。たまに近所のお散歩をして体力を少しつけておくのもいいかもしれませんね」
でもくれぐれも無理はしないように、と強めに言われたけれど、ようやく朋拓との家に戻れると思うと嬉しくて仕方ない。限りあるふたりきりの時間をふたりの部屋で過ごせるというのもまた嬉しかった。
看護師と助産師から改めて妊娠中の過ごし方の注意と出産のときに要するものなんかの説明を受けて、俺は病室に戻った。そしてさっそく朋拓へ連絡をする。
『赤ちゃんできてたって?!』
仕事中かと思ってテキストメッセージで伝えたのに、返事はやっぱりホログラム表示の通話で、飛び掛かってこんばかりの勢いで朋拓が応対してくる。あまりの勢いに俺が苦笑して「まあそうだけど、落ち着いて」と言うと、朋拓は少し恥ずかしそうに座り直した。
『よかった……よかったね、唯人……ホントに、良かった……』
朋拓は感激で目を潤ませ、恥ずかしがることなく嬉し泣きをしている。彼の感情の豊かさが俺をより嬉しさの中に包み込んでくれて、それがしあわせに思える。
「朋拓も、ありがとう。って言ってもいまからが大変なんだからね」
『そうだよね。やっぱり、出産まで入院したままなの?』
「ううん、無理と仕事と遠出をしないなら帰ってもいいって。んで、出産日近くになったらまた入院になるよ」
『そうなんだ! やったー! 唯人と一緒にいられるー!』
両手を挙げてバンザイするように大喜びする朋拓の姿に頬が緩んでしまうのは、俺も同じ気持ちだからだ。ふたりの部屋でふたりきりで過ごせる、限られた時間。それを惜しいと捉えるか嬉しいと捉えるかは人それぞれなんだろうけれど、俺らは後者なんだと思う。これから増えるふたりの家族を迎えるための準備のために過ごすふたりの時間は、きっとなによりも掛け替えがない。
退院日を朋拓に告げ、その日迎えに来てもらうことを約束する。久しぶりに過ごせるふたりの時間の甘さを想いながら、俺もまた朋拓と同じようにとろけそうな笑顔で彼を見つめていた。
「ちょっとお熱あります?」
「んー、ちょっと身体がホカホカする気がします」
「熱っぽい感じですか? だるいとか」
「そこまではないけど……でも、ちょっとぽやーってする感じ」
先週末辺りから風邪とも言えないようなふわふわする感じがあるにはあって、それから少し眠気がある。これは入院してからほとんどゴロゴロと過ごしているせいからだと思っていたのだけれど、それにしても眠たいのだ。
有本さんは俺の話をメモ用のアプリに書き取り、「先生にもお話してみますね。何かお熱だったらすぐに他の科でも診てもらいますので」と言ってくれたのでちょっと安心した。
そのあとに運ばれてきたのはいつもと変わり映えのないお馴染みの和定食の朝食。味付けは薄いけれど不味くはないのでいつも特に気にかけることなく食べられる……はずなのに、今日はなんだか美味しくない。
「……なんかもっと濃い味のが食べたいな。こってりのラーメンみたいなの」
スナック菓子でもいいから何かガツンと来る味が食べたい……一度気になり始めるともう目の前の食事では物足りなくなっている。何だろう、この感じ。味覚が変わっているような気がする……
ふと、俺は思い出してタブレットのファイルを開く。コウノトリプロジェクトの治療を始めた時にもらった資料の一つだ。『妊娠かなと思ったら』という項目を開いてみる。
「えーっと……“ダルさ、眠気、吐気、味覚の変化――”……味覚の、変化?」
一番当てはまるのはそれだけしかないし、吐気もいまはない。でも眠さとダルさは若干感じるので、もしかしたら……? 俺は、急に自分の身体の変化を探り始める感覚にドキドキしながら、そっとお腹の下の辺りに手を宛がう。もしかしたら……その期待に逸る想いと緊張が走り、俺はひとり小さく笑んでいた。
「――うん、小さいけれど心拍も確認できました。おめでとうございます、ご懐妊ですよ」
有本さんが先生に知らせてくれたので午後の産科の診察台で診てもらった時、蓮本先生からにこやかにそう告げられた。帝都大病院では四十数例目になるコウノトリプロジェクトにより妊娠だとも言われ、俺は現実に惚けて何も言えないでいる。
「独島さん、よく頑張りましたね。とは言えここからがまた大変なのですが、ひとまずおめでとうございます」
「え、あ、あの……子ども、デキてるんですか?」
ポカンとしたままで俺が同じことを訊いても、先生たちは嬉しそうにうなずいて、「そうですよ、おめでとうございます」ともう一度言ってくれた。
エコー写真という胎内の受精卵の様子を撮った写真を手渡されたけれど、画面に映し出された丸が命の種だなんて言われても俺は信じられなかった。信じられなかったけれど、それが俺の中にいるのは確かなのだ。
「いまはまだ胎動も感じられないのでピンとこないかもしれませんが、いまたしかに独島さんのお腹には赤ちゃんの素になる卵があります。まだまだ不安定な状態ですので、無理は決してしないように」
子どもが、もとい、子どもの素になる卵が俺の中に宿っている――焦がれていた状態に辿り着けたことが俺は何より嬉しくて、夢の中にいるような心地がしていた。
先生からの説明を聴きながら、俺は何度も自分のお腹の下の方に手を宛てて語りかけるように撫でていた。まだ海のものとも山のものともつかない生き物の種でしかないのに、すでにもう愛しくて仕方ない。
この先十カ月ほどをまた急激な身体の変化と戦いながら過ごしていかなくてはならないという話を聴きながらも、俺は楽しみと嬉しさが込み上げてきて抑えるのがやっとだった。
「独島さんは、いまスタートラインに立ったんです。ここからが本番ですよ。ですから、僕たちも全力でサポートしていきます。元気な赤ちゃんを産みましょうね」
「はい! よろしくお願いします」
そう、今やっと俺はスタートラインに立てたのだ。妊娠することがゴールではなく、その先にある出産が目指すべきところで、それはまだまだ先の話だ。
それでもいつ頃に生まれそうなのか予定日は大体わかるとのことで、それから数えていつ頃に帝王切開するのかもだいたい決めていく。男性は出産用の骨盤や体型をしていないので、十カ月も妊娠をさせないそうだ。
「週数的に早産の扱いになりますし、生まれてきた赤ちゃんの状態にもよりますが、呼吸器が出来上がっていて体重がある程度あればそう長く入院することはないと思います」
「あの出産までは家に帰れますか?」
「遠出や仕事はできませんが、家でゆっくり過ごすというのであれば退院できますよ。たまに近所のお散歩をして体力を少しつけておくのもいいかもしれませんね」
でもくれぐれも無理はしないように、と強めに言われたけれど、ようやく朋拓との家に戻れると思うと嬉しくて仕方ない。限りあるふたりきりの時間をふたりの部屋で過ごせるというのもまた嬉しかった。
看護師と助産師から改めて妊娠中の過ごし方の注意と出産のときに要するものなんかの説明を受けて、俺は病室に戻った。そしてさっそく朋拓へ連絡をする。
『赤ちゃんできてたって?!』
仕事中かと思ってテキストメッセージで伝えたのに、返事はやっぱりホログラム表示の通話で、飛び掛かってこんばかりの勢いで朋拓が応対してくる。あまりの勢いに俺が苦笑して「まあそうだけど、落ち着いて」と言うと、朋拓は少し恥ずかしそうに座り直した。
『よかった……よかったね、唯人……ホントに、良かった……』
朋拓は感激で目を潤ませ、恥ずかしがることなく嬉し泣きをしている。彼の感情の豊かさが俺をより嬉しさの中に包み込んでくれて、それがしあわせに思える。
「朋拓も、ありがとう。って言ってもいまからが大変なんだからね」
『そうだよね。やっぱり、出産まで入院したままなの?』
「ううん、無理と仕事と遠出をしないなら帰ってもいいって。んで、出産日近くになったらまた入院になるよ」
『そうなんだ! やったー! 唯人と一緒にいられるー!』
両手を挙げてバンザイするように大喜びする朋拓の姿に頬が緩んでしまうのは、俺も同じ気持ちだからだ。ふたりの部屋でふたりきりで過ごせる、限られた時間。それを惜しいと捉えるか嬉しいと捉えるかは人それぞれなんだろうけれど、俺らは後者なんだと思う。これから増えるふたりの家族を迎えるための準備のために過ごすふたりの時間は、きっとなによりも掛け替えがない。
退院日を朋拓に告げ、その日迎えに来てもらうことを約束する。久しぶりに過ごせるふたりの時間の甘さを想いながら、俺もまた朋拓と同じようにとろけそうな笑顔で彼を見つめていた。
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