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「唯人、病院行こう。帝都大なら近くだから」
「大丈夫、吐いたらすっきりしたから」

本当に気分はすっきりしていたし、喉も痛くなかったのだけれど、「現場に行ける」という俺を制し、そのまま平川さんに車で家まで連れ帰られることになり、その日の仕事は急きょキャンセルされた。
家に帰り着いたら無意識に体に入れていた力が抜けたのか、急激にふらついてしまい自分の認識の甘さを思い知る。
だから自分からも現場にお詫びの連絡を入れ、平川さんにスケジュール調整を任せて今日は休むことにした。

「着替えはここね、まだ吐く?」
「いや、もう大丈夫……気持ち悪いけど……」
「水分をいっぱい取って。何か食べたい物とかある?」
「ない……さっぱりしたもんがいい……」
「オッケー、じゃあ寝といてね」

 部屋に担ぎ込まれるように連れ帰られてベッドに寝かされて、慌ただしく水分と着替えを枕元に置かれたかと思うと、平川さんはそのまま行くはずだった現場に改めて頭を下げに行った。いくらリモートでの関わりが増えたとはいえ、足を運んでの謝罪は誠意が見えるので今の世の中でも良く行われるらしい。
 ディーヴァとしては初めてのリスケになってしまった。常に万全で臨んでいたのに、少しホルモン治療が進んだだけでこんなになってしまったのが自分でもショックだったし情けなく思えた。心身の状態に関わらず唄えなければディーヴァと名乗ることは出来ないと思っているから。
 平川さんからすぐに連絡が入り、現場は多少困惑していたけれど、数日後にスケジュールを取り付けられたという話を聞いてひと安心した。

「ごめんなさい、平川さん……イヤなこと言われてない?」
「大丈夫。これがマネージャーの仕事だからね。唯人は兎に角今日は休んで、体調を戻して」

 そう話をしているさなかに朋拓から連絡が入った。先日会った時に薬を飲んでいるところを見たからか、体調が心配なんだという。

『いま近くいるんだけど家行こうか? 大丈夫?』
「え、なんで?」
『なんでって……なんか唯人、いま具合悪そうな感じだし』

 うっかりアバターでなく、ホログラム表示で通話に出てしまったので、相手の顔が鮮明に映し出される状態では顔色などの様子を誤魔化しようがなく、朋拓にそう心配されても仕方がない。
 なんか買ってくものあるなら買っていくけど? とまで当然のように言ってくる朋拓の親切心が普通なら有難いのだろうけれど……いまの俺の頭には、マネージャーの平川さんと鉢合わせして余計な話を――例えばコウノトリプロジェクトの話なんかを――勝手にされないかが気がかりになって朋拓の申し出を素直に受けていいか迷ってしまう。
 だから、大したことないから大丈夫、とでも言って通話を切ればよかったんだと思う。何時頃になるかはわからないけれど平川さんがまた帰ってきて何か買ってきてくれるかもしれないし。
 それなのに、その時の俺は滅多にない具合の悪さと、朋拓に隠し事をしている後ろめたさがあったからだろうか、つい、こう口をついていた。

「……ごめん、朋拓、来て」

 口走ってしまってからヤバい、と思ったけれどその時には既に朋拓が今から行くからと言いだしていたから後に引けない状態で、しかたなくそのまま来てもらう羽目になった。
 それから五分くらいしてインターホンが鳴り、這うような思いで応答すると平川さんよりも早く朋拓が到着する。どっちが先の方がいいだろうかと思ったけれど、いまはもはや具合が悪すぎてもうどうでもいい気もしていた。

「唯人、真っ青じゃん! 大丈夫……じゃないか。寝ときなよ」
「あーうん……」
「やっぱこの前から具合悪かったんだな……あれもやっぱサプリじゃなくて薬なんだろ?」

 朋拓は買ってきてくれたらしいスポーツドリンクやゼリー飲料、温めなくても食べられるレトルトのお粥やカップの麺類なんかをエコバックから取り出しながらそう訊ねてくるのだけれど、俺はどう答えるべきか迷って口をつぐんでしまう。それを朋拓は具合の悪さだと思っているのか、答えも聞かないで俺を寝室へと追い立てていく。
 俺をベッドに寝かせて、手際よく熱さましのジェルシートを貼り付けたりしながらさり気なく熱がないかを確認してくる。

「……手際いいんだね」
「まあねぇ。親が仕事でいないこと多かったからさ、弟や妹が熱出すと俺が面倒見てたんだよ。シッターロイドより上手くスープくらい作れるけど、食べる?」
「うん、食べたい」

 普段ならそんなこと言わないはずなのに、一人具合が悪くなって心細かったのかついそんな返事をしていた。
 朋拓も俺の返事が思いがけなかったのかびっくりしていたけれど、すぐに嬉しそうにうなずいて立ち上がり、「ちょっと待ってて!」と言ってスープ作りに取り掛かり始めた。
 やっぱりいまここで平川さんと鉢合わせしたら色々面倒になるかもな……と思ったので、メッセージアプリで平川さんに正直に朋拓が来てくれたことを告げてウチに寄らなくてもいいと言った。
 返事はすぐに来て、平川さんは怒ってはいなかった。むしろ、「いい機会だからちゃんと色々話をしたらいいんじゃない?」とまで言われ、かえって具合が悪くなりそうになりつつも、とりあえず朋拓が平川さんと鉢合わせして俺的に軽く気まずくなることは避けられたので、ゆっくりと俺はベッドに身を沈めることにした。


「唯人、スープ出来たけど食べられそ?」

 どれくらい寝ていたんだろう。さっきより気分がだいぶすっきりした頃、朋拓が顔を覗き込んで声をかけてきた。それと同時に鼻先にはあたたかでやわらかい良いにおい。
 俺は人が作ってくれた手料理なんて小さい頃に施設にいた時に少しだけ食べたことがあるくらいで、あとはほとんど出来合いのパックの食事とか、昔ならコンビニとかの残り物をもらってきていたような生活だったから、本当の手料理の良いにおいなんて随分久しぶりに嗅いだ。

「……いいにおい」
「有機野菜買えなかったけど、美味そうなのできたからさ、一緒に食べよう」

 そう言って朋拓はリビングのソファまで俺を連れて行き、出来立てのスープを運んできてくれた。それはカフェボウルにいっぱいの鶏肉や野菜が盛り付けられた具沢山のスープで、透き通る液体がふわふわと湯気と立てている。

「俺の実家ではね、具合悪い時はこの鶏肉のスープなんだよ。消化にも良いから、ゆっくり食べなよ」

 促されるままにひと掬い口に運ぶと、やさしくて体の中がホカホカとあたたかく明るくなっていくような味がした。
 こんなにやさしくてあたたかで美味しいものを食べた記憶なんてほとんどないのに、何故かすごく懐かしくて、俺はうっかり泣きそうになっていた。

「……おいし」
「マジで? やったー。俺も食おう」

「うん、美味いねぇ」満面の笑みでそう言いながら豪快にスープをかっ込んでいく朋拓の姿が、泣きそうになっている俺の胸に沁みていく。
 こうして彼と、彼と俺の血を受け継いだ小さな存在と、一緒に何かを分かち合っていきたい――あたたかなスープをひと掬いずつ飲み下しながら、俺はその想いを強くしていった。


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