【完結】覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい

伊藤あまね

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 コウノトリプロジェクトの治療を始めたとはいえ、やっていることは薬を飲むことだけなので、いまのところ生活にも体調にも大きな変化はない。毎食後に投薬すること以外、俺の生活にも取り巻く景色にも変わったところは見当たらない。
 基本的に、自宅で歌の録音をしたり曲作りをしたりしている日々なので、人に会わないとなるととことん会わない生活だ。ちょうど朋拓の仕事も繁忙期に入ったとかで連絡がメッセージアプリ経由ばかりだ。
 なんだ、思っていたよりはたいしたことないな――そう、思い始めて五回目の診察日を控えた前日の夜だった。

「……ごめん、ちょっと、今日無理かも」

 久々に、いつものように朋拓の部屋に遊びに行って、デリバリーの食事をとって映画を見ながらじゃれ始めたのだけれど、妙に胸やけがして気持ちが悪くて、俺はキスをしてくる朋拓をそっと押しとどめる。
 吐きそうだけれど、そこまで込み上げていない中途半端な気持ち悪さで、とてもセックスできそうになく、俺は押し倒されて横たわったまま寝返りを打つ。
 朋拓は心配そうに俺の額を撫でていて、「大丈夫? 救急とか行く?」と、スマホを手のひらに起動させておろおろしている。

「大丈夫、そこまでないから……」
「顔色悪いな……水分取った方がいいんじゃない?」
「じゃあ、水ちょうだい」

 オッケー、と言いながら朋拓がいそいそとキッチンの方に向かった隙に、俺は服のポケットからいつもの薬を取り出し、口に含む。おそらくこれのせいで具合が悪い気がして、やっぱり治療のことを言えないと思った。
 朋拓が水入りのグラスと何かを持って戻ってきて差し出してくる。

「なにこれ?」
「痛み止め。頭とか痛かったら飲んだらどうかなって思って」
「頭は痛くない。平気だよ」

 そう言ってひったくるようにグラスを受け取り、一気に半分ほど飲み干す。ごくりと喉を薬が通っていくのを確認できると、俺はホッとする。
 そうして気遣いのお礼の意味を込めて朋拓の頬に口付けてやると、朋拓は子どもみたいに嬉しそうに笑った。


 だけど、それ以外にも仕事の合間を縫って投薬することは、思っていたよりも面倒であることにすぐに気付かされる。自宅での作業のときはいいのだけれど、ごくまれにリアルにスタジオに入ってバンドと合わせてレコーディングだ、リハだ、ってなると、なかなかひとりきりになれる時間がないからだ。
 現場で俺は正体を隠すために他のメンバーとは別室扱いなんだけれど、それでも一部のスタッフがうろうろしている時もあるから、見計らって投薬している感じだ。

「唯人、もう一か所ね」

 ディーヴァとして、レコーディングとライブのリハーサルが重なる日が時たまある。三ヶ月連続リリースなんてしているいまは、特にほぼ毎日がレコーディングとリハーサルで、朝から晩まで唄っているようなもんだ。
 そして今日は、そのダブルブッキングの中でも一番神経を使う現場が重なっている。一緒に仕事をするアレンジャーがなかなかのクセものなのだ。

「……うん。でもちょっと休憩したい」
「いいけど、もう三十分押してるから、車の中で寝てくれる?」

 悪いけど、と平川さんから言われながら急かされるように立ち上がらせられ、よろよろと俺はマスクとサングラスとニット帽を身に着け、スタジオを出て行く。窓のない閉鎖的な建物の外は、いつのもの変わらない陽射しが降り注いでいる。

「平川さん、いまって昼?」
「正確には午後の四時。ほら行くよ、アレンジャーさん達お待ちかねらしいから」

 車に押し込められるように乗り込み、ついでにコンビニのパンとジュースを渡されて食事をいま取れと言われたけれど、なんだか食欲がない。
 食欲がないというか、こんな安くてパサパサの人工栽培もののパンと甘いだけのジュースより、もっとさっぱりしたものが食べたい。アイス……シャーベットの様なようなひんやりしてすぅっとするものがいいな、と俺は思いつつとりあえずジュースを飲む。
 移動の車の中で食事と休憩と睡眠、そして、パンと一緒に渡された楽譜の映し出されたタブレットを見ながら、リハの予習もする。勿論イヤホンでは音源も同時再生をし、唄いもする。
 普段ならどうってことのないスケジュールで、俺はそのすべてをこなせる。それなのに……今日は何故か手許の楽譜を見るだけで目が回ってしまう。

「なんかね、二曲目をバラードのあれにしようって言ってるんだけど、どうする?」
「……ちょ、っと待って……なんか、気持ち悪い……」
「そんなに? ……唯人? 大丈夫? 顔真っ青だけど」

 俺は口元を抑えて首を横に振り、どうにか腹の中をぶちまけないように堪えることしかできない。
 平川さんは手際よく車を路肩に停めて俺を外に連れ出し、すぐそばの植え込みの陰に連れて行ってくれた。連れていかれた途端、限界だった口の中が地面にぶちまけられ、手や服が汚れていく。
 車からウェットティッシュとかを持ってきてくれた平川さんに、口許や汚れた服を拭ってもらいながらも、俺はその場から立ち上がることができなかった。目眩めまいがしていたのだ。

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