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藍色の衣を纏った名を知らぬ君へ

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 水銀灯の明かりが漆黒の夜空をさらに黒く濃く染め上げている。

 深く暗き空。

 歩を進める。

 人工の明かりが遠ざかると、重い灰色の雲が浮かんでいるのがぼんやりと見える。

 縞模様にうねる雲の合間に頼りなく瞬またたくのはアークトゥルスか。

 確かにその右手には、うっすらと柄杓ひしゃくの柄が灯っている。



 都会ともいえぬ、郊外の川沿い。

 深夜、それも3時30分。

 あまりにも殺風景すぎて神秘的ですらあるコンクリートの護岸が囲む水の流れ。

 これもまた場違いなほどに穏やかなせせらぎの音を運んでいた。



 風が吹く。

 寒い。

 十重二十重に咲き誇った春の使いの影が揺れた。

 新聞配達のバイクがそばを通り抜けた。



「あなたは、なぜそんなに悲しい顔をしているの?」



 その声の主は藍色の衣装を纏まとっていた。

 優しさと悲しみを湛えるような柔らかな身体からだの曲線が、その存在の違和感をかき消した。



「ただ、ただ寒いだけ」



「もっと、自由になればいいのに」



 自由?

 その言葉を反芻はんすうする。

 不意にギターの音が頭に鳴り響いた。

 Love & Liberte。

 愛と自由、か。

 自由、それほど自身の心と存在を縛るものはないだろう。

 自由は「自由でないこと」の対義語でしかないのだから。



「君は自由なのかい?」



 皮肉を込めた言葉を返す。

 そよ風よりは強く、冷たい風が二人の間を走り抜けた。

 桜の花吹雪が水銀灯に照らしだされる。


「あなたは何でも知っているのね。
 けれど、あなたは何も知らないわ。
 私がここにいることも。
 そして、私が遠い異国の地から来たことも」


 二人は歩を進める。

 ふと、人の気配を感じた。

 視線を上げると前方で新聞配達の男が川を眺めていた。

 いや、違う。

 夜でもなく朝でもない、未だ明やらぬ街の川辺でその男は用を足していた。


「現実ってのは厳しく、そして悲しいものだ」


 手にしたビールを口につけ、誰とはなしにつぶやく。


「あなたは私を、誰も目に留めなかった私を見てくれた」

「だた、それだけさ」

「ええ、ただそれだけ。
 でも、信じて。
 あなたの眼差しが、私に鼓動を与えてくれた。
 そうして、私に存在を与えてくれた」

「いや、違う。そうじゃない。そうなるであろうことを考えて、君のことを見つめたのだから」


 藍色の衣が一層、深く濃く街の闇に溶け込んでゆく。


「あなたは、自由よ」


 また、風が吹いた。

 縞模様の雲はいまだ低く垂れ込め、その合間に普段なら雄大に輝く木星が寂しげに瞬いていた。

 金色の星が輝くビールを収め、一人、家路への一歩を右足から踏み出した。

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