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お母さんの魔法のカレーライス

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 とうとう今日は彼が家にやって来る日。


 初めて食べてもらう手料理は、大好きだった母が作ってくれたカレーライス。

 ありきたりな料理だけれど、「これしかない」ってずっと心に決めていた。


 母が残してくれた手書きのレシピに眼を通す。

 懐かしい字で必要な材料、料理の仕方やポイントが書き込まれている。


 牛肉、タマネギ、ニンジン、ニンニク、ショウガ……

 メモを手に買い物したので、材料はすべて揃っている。


 ルーは市販品だが、母のレシピには「2種類混ぜると味わいUP!」と勢いよく書かれたうえに赤ペンでチェックまでついているので、有名メーカー2社の中辛タイプを2箱準備した。


 ただ、レシピにあるけれど、どうしても用意できなかったものがある。

 それは、材料の欄の一番最後に書かれていた。


「隠し味」


 これって一体なんなの?

 一番大事なところっぽいんだけど、

 肝心なことを隠さないでよ……


 母に聞き出したいが、すでにそれは適かなわない。


 小学生だった私が最後の姿として覚えているのは、やせ細ってカサカサになった手をした病室の母の姿。その後はもう……思い出したくもない。


 あれから十年以上経った。

 台所の戸棚を整理していると、料理本にひっそり挟まれた母のレシピが見つかったはつい最近のことだった。


 母と父と私。

 三人、仲良く食卓を囲んで食べたあのカレー。

 数少ない、家族の優しい時間の記憶。

 もう戻ってこない、あの日々……


 少し湿っぽくなってしまった。

 右手に包丁を構え、過去の悲しみを振り払うかのように、ざくざくとタマネギを刻みはじめた。


 ああ、涙がとまらない。

 せっかく、前へ進もうとしたのに、私って……

 タイミングの悪さに苦笑した。

 
 結局、「隠し味」って何だったんだろう?


 鍋に多目の油を引き、焦がさぬように弱火でニンニクとショウガを炒める。

 ふわりと華やかな香りが立ち込める。

 あわてて、換気扇をオンにした。

 ジンワリ油が回って香りが引き出されたら、薄く切ったタマネギを投入する。

 弱火で、ゆっくり時間を掛けて、飴あめ色になるまで炒め続ける。


 薄いキツネ色になったタマネギを、木べらでかき回しながら、母がカレーを作っていた頃の記憶をたどる。

 呟くようにジュウジュウと小さな音を立てる鍋から広がる、ふくよかな香気が、私の胸を満たした。

 その香りが奥底の記憶を覆っていた靄もやを、わずかながら取り除いた。


 そう、あれは私がまだ幼かったころ……



 ガスコンロの下の収納空間。

 コショウやオレガノなどスパイス系調味料が収納された白いプラスチック製のカゴがあった。

 母は雑然と詰め込まれた香辛料の一群から、小さな赤い小箱を引き抜いた。

 その箱の中には、同じような赤い色をした円柱型の金属製の缶が入っていた。缶の蓋はねじ込み式ではなく、ぎゅっと押し込んで密封するタイプだった。


 母は何かを探しているのか、きょろきょろしながら居間へと向かった。

 興味津々の私は、テーブルにぽつんと置き去りにされた赤い缶にそっと手を伸ばし、その蓋をつまんでみた。が、幼き女子の指先くらいでは、まったくびくともしなかった。


 十円玉を手に母が戻ってきた。

「私と同い年の十円玉よ。これを使わないと開けられないのよ」

 そういって、母は缶の縁に十円玉を置いて蓋に引っ掛け、テコの原理を利用して蓋を押し上げた。


 くわんっ、
 と金属が擦こすれ合い、小気味のいい音をたてて蓋が開き、同時に、心が浮き立つような刺激的で峻烈なカレー粉の香りが、母と私に柔らかな笑顔を運んでくれた。



 そうだ。思い出した。

 母のカレー。

 市販のルーにはない、懐かしいあの味。

 そうか、きっとそうだ。
 あの赤い缶が「隠し味」だったんだ。


 私は勢いよく、ガスコンロの下の扉を開き、収納スペースを覗のぞき込む。

 七味、スターアニス、ガラムマサラ。

 コンソメ、五香粉、バジル、フェンネル、ターメリック。


 ない、ないっ……


 ローリエ、花椒、燻製塩、吉野葛なんてものもある。


 やっぱり、もうなくなっちゃったんだ……

 意気消沈し、扉を閉じかけたその瞬間、収納スペースの奥がきらりと輝いた。


 えっ?

 私は導かれるようにして、調味料が詰め込まれた白いカゴごと外に取り出した。

 するとその奥に、小さな赤い箱がちょこんと置かれていた。


 まるで私を、ずっと待っていたかのように収納スペースの奥に、静かに座っていた。


 手を伸ばして、小箱をそっと取り出した。

 小箱の中には、あの赤い缶が眠っていた。

 そして、缶の蓋には十円玉がひっそりと横たわっていた。


 昭和XX年。

 母の生まれた年を刻んだ十円玉。

 母の時間は永遠に失われてしまった。

 しかし、鈍い銅色をした彼の時間は再び動き出した。


 幼き私が見たように、母の十円玉に力を込め、赤い缶の蓋を開けた。


 くわんっ

 台所に、小気味のいい音が響いた。



 お母さんの姿が目の前にあった。


 使い古された緑色のエプロンを着た姿。

 お玉を右手に持って鍋の前に立つ姿。

 微笑みながら鍋をくるくるかき混ぜる姿。


  お母さんがいて、それが当たり前だった毎日。

  お母さんがいて、それに疑問を持つことがなかった日々。


 ただ、もう一度、会いたかった。

 ただ、もう一度だけ、言葉を交わしたかった。


 お母さん、

 お母さん、わたしだよ。

 あいたかったよ、

 おかあさん……


 堪こらえ切れず、私は自然と話掛けていた。

 最後は、心が崩れそうになるのを必死に耐えて、言葉をつなげた。


 お母さんは不思議そうな顔をして、こちらに顔を向けた。


 茶色い、透き通った瞳がまっすぐ、私に向けられる。

 あの頃の優しさが私を包み込む。


 だけど、お母さんの目には私の姿が映っていないようだった。

 少し小首を傾かしげてから、再びカレーの鍋に視線を戻してしまった。


 どこにでもある台所の風景。

 けれど、もう、二度と戻ってはこない風景。


 お母さん、お母さん……


 どれだけ大声をあげても届かない。

 どれだけ両手を伸ばしても届かない。


 ああ……


 思わず、私の眼から涙が流れ落ちた。


 決して、悲しみの涙ではない。
 けれども、喜びの涙でもない。


 ただ、ただ私は涙した。


 そして、その一滴ひとしずくが、私のカレーの鍋に落ちた。


 突如として、圧倒的な火力にさらされたかのように、鍋は激しく、ぐつぐつと煮えあがった。

 驚いた私は、瞳に涙を溜めたまま、思わず仰け反った。

 しばらくすると、沸き立つ音は徐々に穏やかさを増し、一定のリズムを刻みだした。


 どこからともなく歌が聞こえてくる。


  なぜだかとっても懐かしい旋律。

  心地よいゆったりとしたリズム。


 私は耳を澄ました。

 すると、鍋の中の食材たちが静かに歌っていることに気がついた。



  コトコトコットンコットコト

   りょうりをしましょう、おなべさん

  コトコトコットンコットコト

   げ~んきいっぱい、おいしくなあれ

  コトコトコットンコットコト

   え~がおいっぱい、おいしくなあれ

  コトコトコットンコットコト……



 食材たちが楽しげに口ずさむメロディーに、胸の奥底がぎゅっとうずいた。


 ああ、この歌は……


 十年以上も記憶の片隅にしまわれていた光景が、

 いままさに、鮮明に蘇った。



「おかあさん、なにつくってるの?」

「ふふ、まだな~いしょだよ」

「なんか、いいにおいがするよ」

「さて何でしょうね。みんな大好き、お父さんも大好きなものだよ」

「え~おしえてよ」

「だーめ。それはできてからのお楽しみ。

 その代わり、お料理の歌を歌ってあげるわね」


 母はそういって、口ずさみ始めたのだった。

 右手でお玉をかき混ぜながら……


 確かその後、私がルーを入れるところを目撃したので、答えがカレーってバレちゃったんだっけ。

 え~カレーじゃないよ、と口を尖らせ強がって否定していた、まるでイタズラっ子のような母の顔が脳裏にスローモーションのように再生され、心に焼き付けられ、そして消え去った。


 お母さん、おいしかったよ、あのカレー。

 あのカレーに、私も父さんも元気をもらったんだよ。

 もう二度と食べられないけれど……


 そうだね。今度は私がみんなに元気をあげる番なんだね。

 私は涙を拭いた。



 もう大丈夫だよ。お母さん、見ていてね。

 心の中でそうつぶやき、右手にお玉を持ち、そして、お母さんの歌を口ずさんだ。


  コトコトコットンコットコト

   りょうりをしましょう、おなべさん

  コトコトコットンコットコト

   げ~んきいっぱい、おいしくなあれ……


 突然、カレーの鍋が輝きを放った。

 まばゆいくらいの白色の閃光に続いて、虹色とでもいうべき色とりどりの光がオーロラのように台所を満たしてゆく。


 それは、食材たちが放つ光だった。


  玉ねぎは黄金色の輝きを。

  にんじんは山吹色の鮮やかさを。

  しょうがは黄土色の煌きを。

  にんにくは乳白色の放射を。

  牛肉は褐色の深さを。


 歌のメロディーに合わせて、それぞれの光が軽やかに跳ねる。

 きらきらと輝き、回転し、絡み合い、まるでダンスを踊っているかのようだった。

 やがてそれらの光は一つに収束し、ゆっくりと、静かにカレーの鍋の中に溶け込んでいった。




 何十年も使い込まれたであろう緑色のエプロンをした若い女性。

 右手にお玉を持ち、褐色の液体が満たされた鍋を混ぜていた。

 芳かぐわしく、刺激的な匂いが広がる。

 それにも増して、温かさを優しさと懐かしさを湛たたえた香りが台所を包み込む。




「おかあさん、なに作っているの?」

「それはまだ、な~いしょ」

「あっ、おとうさんのすきなカレーでしょう?」

「バレちゃったか。ふふ。お母さんはね、これでお父さんと結ばれたんだよ」

「むずばれる、ってなに? どういういみ?」

「ふふ、まだ分からなくてもいいわ。代わりにお料理の歌を教えてあげる」

「ほんとに? はやく歌ってよ、はやく!」



「この歌はね、お母さんのお母さんから教えてもらったんだよ」



  コトコトコットンコットコト……




 母から娘へ。

 娘から孫へ。



 大切なひとの想いを背に。

 大切なひとへの想いを胸に。



 ガラス越しに柔らかな夕陽が差し込む台所に、

 きょうも優しさのメロディーが紡がれてゆく。
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