金陵群芳傳

春秋梅菊

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四、故事に倣い、志を扶ける

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 張継善はどっかりと椅子に腰を下ろした。周雪友は下女に命じて酒を果物を持ってこさせ、淡々ともてなす。この男は無教養だから、詩歌や学問の話が出来るはずもない。ただ適当に飲み食いにつき合って、さっさと帰って貰おうと思った。
 早くも三杯目になる酒を注ぎつつ、雪友は尋ねた。
「それで? どこから遊ぶお金を借りてきたんです?」
「借りたんじゃねえ。こいつは仕事の正当な報酬さ」
「その仕事とやら、どうせまともなものじゃないんでしょう」
 張継善は全く心外だと言わんばかりに顔をしかめた。
「まったくお前ってやつは……まだ二日前のこと根に持ってるのか。宴席じゃあのくらいの騒ぎはつきものだろうが。俺はとっくに水に流してやるつもりなんだぜ」
「水に流すかどうかは、あなたじゃなくて私が決めることでしょう」
「ははは、それもそうだ」張継善がぐいと身を乗り出した。「それよりな、今日は遊びに来たついでに、頼みごとがあるんだ」
「頼み事? 何です?」
 雪友は及び腰になった。どうせろくなことでは無いに決まっている。
「ほら、お前。あの花盛開って若造のことを覚えてるか?」
 覚えているも何も、新しいお得意になってくれた方だ。もっとも、あれからまだ店に顔を出してはくれないけれど。雪友は、素知らぬ体で聞き返した。
「あの方がどうかなさいました?」
「お前もあの日、宴席にいたから知ってるだろう。あの若造と余宝生が今日、例の本を取引することになってる。余の兄貴は若造から聞いた話が気になって、この二日、知り合いの書店にその本の価値を訪ねてまわったんだ。ところが、どの書店の店主も、大した値打ちは無いというじゃないか。何でもその内容は、昔の商取引を記録しただけの代物なんだそうだ。そんなに価値が無いなら、どうしてあの花の若造はこれを欲しがる? 余の兄貴は不審がって、きっと大層なお宝に間違いないと思い至ったのさ。何か隠された秘密があるに違いない。本当の値打ちを調べるには、もう少し時間が要るんだ。だから本が盗まれたか見つからないことにして、しばらく取引を先延ばしにするつもりなのさ。俺は兄貴から、その大任を預かってきたわけだ」
「つまり……私にどうして欲しいんです」
 張継善は得意げに、着物の胸のあたりをぱんぱん叩いた。
「例の本はな、この中にある。お前、しばらく預かっておいてくれ」
「私が? どうして?」
「お前の部屋はこんなに本があるじゃないか。隠すにはうってつけだろう。兄貴は書店に預けるのを嫌がってるんだよ。もともとそういう方面の商売人とつき合いが浅いし、うっかり売られたりでもしたら困るしな。その点、お前のところなら安心だ」
 そういうことか。ようするに、悪事の片棒を担げという話だ。
「あなたね、いったんあの方に売ると約束したんだから、売ればいいでしょ。どうしてそんなこそこそと企み事をするの。私のところへ持ち込むのも間違いよ。あなたは悪い友達が沢山いるんだから、彼らに頼めばいいでしょう」
「これは他ならぬ余兄貴の依頼だ。いい加減には出来ねえ」
「あなたも余先生も勘繰りすぎだわ。他人にとって価値の無いものを欲しがる物好きなんて、世の中にいくらでもいるじゃない。あの若様がそうだったとしてもおかしくないでしょう? 書店で安値しかつけられないって言われたなら、それだけの本だったのよ」
 張継善は鼻を鳴らした。
「おい、兄貴は商売の道を生きてもう三十年になるんだぜ。その方が言ってることを疑おうってのか」
「言っておきますけど、その本はね——」
 雪友は言い返そうとして……ふと思い直した。私はこの本が大したものじゃないことを知ってる。でも、わざわざこの悪党に教えるまでも無いし、話したところで聞く耳を持たないだろう。
 それより、これを上手く利用できないだろうか。何か、お金を稼ぐために。李能や黄湘君、王鳴鳳と話したことを実践すべきだ。少し頭を巡らせると、思いがけず色んな案が浮かんできた。
 雪友は咳払いし、一呼吸おいてから言った。 
「じゃあ、こうしましょう。預かってもいいですけど、そんなに価値のある物なら、ただではお受けできません。手間賃をいくらかください。そうですね、七日で銅銭一差し、半月なら銀一両。前金でいただけないなら、お預かりしません」
「はあ!? お前、いつから阿漕あこぎな商売をするようになったんだ?」
「うちは廓なんです。もともと物を預かる場所じゃありません。それに、これはあなたと私だけの、秘密の話でしょう。女将は二日に一度、私達がお客から貰い物や祝儀を隠してないか部屋を見回りに来ますから、見慣れない本があればきっと詰問されます」
 張継善も廓の決まりごとについてはそこそこ詳しいから、雪友の言い分が出まかせでないことは理解しているはずだ。どこの廓の女将も、妓女達の売上を八割近く吸い上げる。客から金目の貰い物があれば、それも容赦なく奪い取ってしまうのだ。
 幇間はしばらく腕を組み、頭を右へ傾けたり、左へ傾けたりしていたが、ついにこう言った。
「わかった。仕方ねえ。とりあえず半月だ」
 懐から、油紙に包まれた本と、小粒銀を幾つか取り出した。どれも余宝生から引き受けた仕事の小遣いだろう。
「秤にかけりゃ、一両にはなるだろ」
 雪友は思いのほかうまくいったので、内心ほくそ笑んだ。たかだか一両ぽっちだし、欲を張ったことにもならないだろう。大体、あんまり吹っ掛けたところで、この幇間がそんなに金を持っているわけでもないのだし。
 張継善はその後、大いに飲み食らいした。彼としては、雪友が依頼を引き受けたので、親密な関係を取り戻したと思い込んだらしい。調子にのって接吻してきたので、その時ばかりは大人しい彼女も我慢出来ず、頬をはたいてやった。それでも、彼は満足げな様子で帰っていった。
「それじゃ雪友、頼んだぜ。半月後、また来てやるからな。がはは!」

 雪友は本と小粒銀を、隠し棚へしまった。それから下女の小環を呼び、散らかった卓を片づけさせる。小環はくすくす笑って言った。
「今日の張継善ったらどうかしてますわ。出迎えの下女や門番にまで心づけをやったりしてたんですから。一体、どこであれだけのお金を"無心"してきたんでしょう」
 瑞烟楼の人間は、上から下まで日頃の張継善を知っている。幇間というのは他人の金で食べていくのが生業で、彼らを乞食と揶揄する者は多い。そんな人間が自分の財布を緩めたのだから、可笑しいと思うのも道理だ。
 小環にそう言われて、雪友も改めて疑念が沸いた。確かに今日の張継善は金離れが良すぎる。小骨の引っかかったような気持ち悪さがあった。もしかすると、さっきのあの取引には、何か裏があるのだろうか。
 悶々としていたところに、下女の臙児が入ってきた。
「六姉さん、お部屋空いてますか?」
「ええ。どうしたの?」
「花盛開様という方がお見えですけど、お通しします?」
「まぁ」雪友は意表を突かれた。「ええ、もちろん。通してちょうだい」
 雪友は慌てて奥間へ行き、鏡を見て身なりを整えた。程なく、臙児の案内で花盛開が姿を現す。雪友はにこやかに出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「どうも」盛開は軽く会釈した。「突然お邪魔してすみません。旧院の妓女ともなると、事前に日取りを決めてお約束しなければ会えないと聞いていましたが、廓の作法には疎いもので」
「一見さんならそうしていただきますけど、あなた様は違います。いつでも、好きな時にいらしてくださればいいんです」
 雪友は彼に椅子を勧め、臙脂に酒とつまみを運んでくるよう言った。花盛開は室内を見まわしていたが、ふと壁に掛けてある詩に目を留めた。
「春の風に酔い……秋の雨に憂う……。あなたの詩ですか?」
 雪友は微笑んだ。
「そうです。部屋を飾ろうにも物が無いので、仕方なく自分の拙い詩を置いてあるんです。春の風に酔い……なんて、いかにも俗っぽいでしょう? お笑いにならないでくださいね」
「とんでもない。詩に俗気の臭いが漂うのは、言葉自体ではなく、詩人の心がそうさせるのです。優れた詩人は、ありふれた言葉でも名詩を作ることが出来ます。徒に技巧を頼み、煌びやかな言葉で飾り立てても、心がこもっていなければ立派な詩とは呼べません」
「褒めるのが上手ですね」
 臙児が酒とつまみを運んできたので、二人は乾杯した。数杯も飲んだところで、盛開が言った。
「この前の話、覚えていますか。余宝生のところで、本を買い取るはずだったのですが……」
 雪友は、口元へ持っていきかけた杯を止めた。盛開が苦笑しながら続ける。
「どういうわけか、余宝生が本を無くしたと言い出しましてね。探しておくから、また後日来てくれというのです。見事に無駄足を踏まされました。まさか本当に無くなったわけではないとは思いますが。こちらは金をきちんと払うつもりだし、本自体が大した価値の無いものだということも伝えたのだが……」
 雪友は途中から聞いていなかった。盛開様が、張継善のすぐ後にここへやってきたのは、単なる偶然だろうか。
「そうだったんですか……。じゃあ、今夜はその憂さ晴らしに、私のところへ来てくれたんですか?」
 遠回しに尋ねてみる。盛開は肩をすくめた。
「ええ、そんなところです。あれだけ手間をかけたのに、振り出しですからね。早く余宝生が考えを変えてくれればいいですが……」
 雪友は、ちらっと奥間の化粧台を見やった。例の本はあそこの隠し棚にしまってある。花盛開の話しぶりからすると、張継善と彼女の繋がりを知っているわけでは無いようだ。
 どうしよう。ありのままを打ち明けて、彼に本を渡してしまおうか。いや、ただ渡すなんてもったいない。あれは商売の品だ。売った方がずっといい。またいくらか稼ぐことが出来る。けれど……。
 雪友はためらった。盛開はこう言うかもしれない。あなたはあんな男と手を組んで、私の邪魔をしていたんですか、と。もちろん、言い繕うことはいくらでも出来る。邪魔なんて致しません。最初からあなたをお助けすることになると思って、本を預かったんです……。とはいえ、まだ盛開とはつき合い初めて日が浅いし、必ずしも信じて貰えるとは限らない。
 張継善の依頼にしても、金まで受け取って引き受けたのだ。あの男はいけ好かないが、約束は約束だ。ここで本を出したら、両方からの信頼を損ねることになりはしないだろうか? 
 楓娘や湘君なら、こんなことでいちいち馬鹿真面目に悩んだりしないのだろう、雪友はそう思った。上手いことやって金を稼ぎ、のらりくらりと逃げてしまうに違いない。でも妓女としてやっていくには、彼女達の方がずっと正しいのだ。もう考えたってしょうがないことだ。自分には出来ない。雪友は、それきり本のことは頭の隅へ追いやった。
 花盛開と過ごす時間は穏やかだった。二人は思うまま、詩や書や歴史の話題で語り続けた。盛開は頭でっかちな読書人ではなく、洒落っ気も持ち合わせている。何より、雪友の話にきちんと耳を傾け、彼女の学んできたことを重んじてくれた。弟も将来、こんな男性になってくれたら……。そんなことを思った。
 もう何杯目になるかわからないほど杯を重ねた時、一筋の光が窓辺に差し込んだ。盛開が驚いたように外を見やった。
「おっと……もう朝でしたか。随分長居してしまったな」
「お疲れになったでしょ。よろしかったら、奥で横になっていっても構いませんのよ」
 雪友が袖を振り、寝床を示す。盛開は微笑した。
「嬉しいが、今日は帰らなければ。また今度、ゆっくりさせていただきます」
 彼は席を一礼して席を立った。雪友が下女を呼び、門まで送らせる。
 夜明けと鶏鳴が、妓女の一日の幕引きだ。雪友は寝床に倒れ込み、そのまま寝入ってしまった。

 半月が何事も無く過ぎた。雪友は宴会に呼ばれていったり、いつも通ってくれるお得意の相手をして日々を送った。張継善はまだ余生宝と共に粘るつもりらしく、書物の預かり金である一両を寄越してきた。一体いつまで続けるつもりなのやら、雪友は可笑しくてならなかった。
 さらに十日が経った。そろそろ、弟に与えた薬が切れる頃だ。買い足して届けるついでに、家の様子も見に行こうと思い立った。母に会うのは気が進まないが、何の消息も来ないのは、まあ無事に過ごしている証拠だろう。
 雪友は馬車を雇うと、街へ出た。薬の他に、甘栗を沢山買い込む。弟の好物なのだ。早く元気になって、勉強に沢山励んで欲しい。
 家に着くと、弟がにこやかに出迎えた。
「お帰り、姉さん」
 見れば顔色もよく、身なりも綺麗に整っている。雪友は驚いたが、また安堵もした。
「具合はいいの?」
「うん。お母さんのおかげで、薬も飲んでるし、ご飯も一杯食べてるから」
「お母さんが……?」
 雪友は怪訝に思った。親の役目なんてはなから放棄していたあの人が、どういう風の吹き回しだろう。微かに、拳を握り締める。胸の中には、疑念と別に、何かどす黒い感情が渦巻いていた。お母さんのおかげ、ですって? 私以上に、あの人が弟へ何を与えてやれるというのだろう。ご飯も薬も、雪友の稼いだ金で買っているに違いないのだ。それなのに、弟は母のおかげなどと口にする。不愉快な思いがこみ上げてくるのを、彼女は無理やり抑え込んだ。
 居間に向かうと、ちょうど昼時だったこともあり、卓上に料理の皿が並んでいた。それを見て、雪友は呆気にとられた。鶏の塩焼き、七色の野菜炒め、湯豆腐、それから麺と焼餅、果物まで並んでいる。こんな豪勢な料理、月に一度だって食べられるかわからない。彼女は、弟を振り返った。
「あんた、毎日こんなもの食べてるわけじゃないでしょう?」
「ここのところは、いつもこんな感じだよ」
 雪友は言葉も無かった。そこへ、鍋を手にした母親がのそのそと入ってきた。娘の姿を見つけ、口端を皮肉そうに持ち上げる。雪友が目の前の光景に圧倒されているのを、あざ笑うかのようだった。
「おやあんた、来てたんだね」
「お母さん……こんなに沢山の料理、どうしたの……」
「フン、お前は、私が息子を満足に食べさせられない母親だと思ってるんだろう。でもお生憎だね。私だって、ちゃんとやれるんだよ。ま……いい時に来たね。お前も座ってお食べよ」
「……いい。ここに来る前、食べてきたから」
 低い、うつろな声で答える。嘘だった。お腹は空いていた。けれど、母の好意へ屈することに心が激しく反発していた。
「そうかい」母は弟を振りむき、満面の笑みを浮かべてねんごろに言った。「さあ秀格。お座り。お前の好きな鶏肉がたっぷりあるからね」
 弟は嬉しそうに頷き、それから雪友それからの袖を引いた。
「せっかく来たんだし、姉さんも一緒に食べようよ。ちょっとでいいから」
 立ち尽くしていた雪友は、言われるまま席についた。目の前で起きていることに、説明がつかない。頭が混乱して、眩暈すら覚える。母が近寄ってきて、彼女の持っていたお土産包みを奪い取った。
「何だい、これは。いつもの薬と……ははあ、秀格、姉さんがお前のために甘栗を買ってきたみたいだよ。要るかい?」
 弟は首を振った。
「今はいいよ。二日前、沢山食べたから」
「そうだったねえ。ま、甘栗くらい、いつでも買ってあげるよ。雪友、これは持ち帰っとくれ。廓で姉妹達とおやつ代わりに食べたらいいさ」
 優越たっぷりの物言いで、包みを娘の胸に押しつける。またとない侮辱に、雪友の体がわなないた。こんな目に遭いたくて来たわけじゃない。何もかもが間違っている気がした。沸々と湧き上がってくる怒りに、彼女は料理へ箸もつけず言った。
「お金……どうしたんですか」
「はぁ?」
「こんなに沢山の料理、毎日食べるだけのお金を、どこで用意したんです」
「ふん。お前がうるさく言うことじゃないよ。黙ってお食べ」
 母が素っ気なく答えて、焼餅にむしゃぶりつく。その態度を見た雪友は、何か後ろ暗いところがあるのではと勘繰った。
「まさか……借金でもしてるんですか」
 舌打ちした母が、唾を飛ばして怒鳴る。
「まったく! お前って子は、どうしてそう親を侮辱することしか言えないんだい! 借金なんかしないよ。これはね、あたしが稼いできたんだ」
「稼ぐですって? 一体、何で——」面食らった雪友だが、すぐに思い当たった。母が持っている稼ぎの手段なんて、はなから一つしかない。「もしかして、賭博ですか?」
「そうさ。有難いことに、大勝ちしたんだよ」
 得意げに答える母を見て、雪友はすっかり軽蔑した。同時に、どこか安堵もしていた。母が本当にまっとうな手段で生活を支えていたら、自分の立つ瀬が無くなるところだった。やっぱり、こんな人に家計を任せておけはしない。この場で、それをわからせてやらなければ。
「何かと思えばそんなやり方だったんですね。道理で、おかしいと思ってました」
「おかしいって? ちゃんと秀格に食わせて、薬も飲ませてるじゃないか。それのどこがいけない!」
「負けたらどうなってたか、考えないんですか」
「勝てたんだからいいだろ! ごちゃごちゃ喚くんじゃない!」
「よくありません。賭博がまっとうなお金稼ぎの手段と言えますか!」
 母はせせら笑った。
「ハッ。だったらお前の商売はまともだってのかい? 妓女なんて男と飲み騒ぎして、そうでもなけりゃ股を開いてるんだろうが。世間の連中から見たら、賭場で荒稼ぎするのも、妓女が体を売るのも、さしたる違いは無いよ。どっちも汚い商いさ!」
 雪友は真っ赤になった。
「弟の前で、なんてこと言うんです!」
「馬鹿だね! 本当のことを言っただけじゃないか」
「でたらめです! 一緒になんかしないで!」
 雪友は声を荒げた。怒りもしたし、恥ずかしくもあった。母の言い分は、あながち間違いではない。妓女商売も賭博も、世間の人々からすれば一様に軽蔑の対象だ。雪友も頭ではわかっている。それでも、母と同列にされるのは耐えられなかった。日々苦しんでお金を稼いでいる自分と、遊び半分で金を得ている母が同じだなんて。そんなことは許せない。
 母と娘の間でおろおろしていた弟が、ためらいがちに口を挟んだ。
「姉さん、もうやめてよ。お金はお金でしょう。僕も母さんも安心して暮らせているんだから、それでいいじゃないか。どうして変なことにこだわるの?」
 母が勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ほら、ごらん! 秀格はなんて物分かりがいいんだろ! 物事の現実をきちんとわかってるんだね。お前みたいに、綺麗ごとばかり並べて、実利を無視する人間とは違うんだよ!」
 雪友は愕然として、弟を見つめた。
「秀格。まさか本当に、お母さんが正しいと思ってるの……?」
「正しいとか間違ってるとか、僕にはわからないけど……姉さんの言い方はあんまりだよ。帰ってきたら、いつも母さんと喧嘩して。どうして仲良く出来ないの。お母さんは歳だし、働き口が無いのも仕方ないでしょう。家にずっと籠ってたって、楽しいことがあるわけじゃないんだよ。それなのに、ちょっと賭け事をするのも、いけないことなの? 姉さんは廓に立派なお部屋があるし、ご飯もいっぱい食べてるんでしょう。大好きな本だって沢山持ってる。毎日楽しんでるのに、母さんの生活にはあれこれ口出しするなんて、やっぱりおかしいよ」
 じわりと、瞳のふちに涙が浮かぶ。母がすかさず抱き寄せて、優しく言葉をかけた。
「おお、よしよし。泣くんじゃないよ。お前のためなら、あたしはいくら悪く言われたって平気さ。雪友のことなんて気にする必要は無いよ。さあ、もういいから沢山お食べ」
 雪友はすっかり打ちのめされた気分だった。弟と母には深い絆がある。同じ家族なのに、雪友はそこから切り離されていた。弟は、日々一緒に過ごす母の苦労が見えても、離れた廓にいる姉の苦労は見えないのだ。廓の商売がどれほど大変かもわかっていない。弟からすれば、雪友はお金を落とす代わりに母を虐める疫病神なのかもしれなかった。
 食欲はとうに失せている。彼女は席を立った。母も弟も引き留めない。弟の部屋へ行くと、椅子へ座り込んでぼうっとしていた。
 やがて、食事を終えた弟がやってきた。雪友を見て、おずおずと声をかける。
「姉さん、大丈夫?」
 雪友は曖昧に頷いた。
「怒ってるの?」
「いいえ。まさか」
 彼女は微笑んだが、自分でもそれがぎこちない笑みなのは分かった。弟も気まずげな表情になり、それ以上は何も言わない。寝床に腰を下ろし、本を読み始める。
「何を読んでるの?」
「李娃伝だよ」
 なんだ、小説か。世の学識ある文人達は、こういう物語を暇潰しの書物として軽蔑している。体の具合がいいなら、四書五経のようにきちんと勉強になるものを読まないと駄目よ、雪友はそう言いかけて、口をつぐんだ。小言を言ったら、弟との心の溝がますます深くなってしまうと思った。
 李娃伝は、はるか唐代の話だ。さる名家の若者が、都の売れっ子妓女である李娃に惚れ込み、お金を使い果たして乞食に落ちぶれてしまう。ある日、李娃は若者と再会、彼を自分のもとへ匿って献身的に援助し、最後は科挙に合格させるという筋書きだ。
 現実には、李娃みたいな妓女なんてどこにもいない。殆どの妓女は金を無くした客に冷たいし、その男がどうなろうと知ったことでは無い。単なる夢物語だ。
 そんな本読んでないで、さっさと勉強した方がいいわ。そんなことを思っていた雪友の頭に、ふと閃きが走った。
 廓に匿って、学問を援助する……?
 これだ! 何で今まで思いつかなかったんだろう。
 この家にいる限り、弟はきっと雪友が望むような人間にはなってくれない。母から悪い影響を受けるばかりだ。お金に対する感覚はおかしくなるし、健康への気遣いも足りない。このままいけば、いずれ賭博に手を出してしまうだろう。
 まっとうに育つよう、私がそばで見守ってあげなければ。妓女として一人前になるまでは自分のことで精いっぱいだったけれど、今はもう違う。何か口実を見つけて、弟を廓へ引き取ってしまえばいい。焦る必要は無かった。賭博の稼ぎに頼った生活を、いつまでも続けられるはずがない。放っておいても、近いうちに母は大負けするだろう。弟を家から連れ出すとしたら、その時だ。
 心が決まると、さっきまでの鬱屈も大分晴れた。瑞烟楼に帰ったら、すぐ女将と相談しよう。雪友はそう思った。

「……話というのは、それだけなの?」
 瑞烟楼を束ねる女将、白氏は冷ややかな声で言った。とうに現役の妓女を引退し、歳は五十を過ぎているが、それでも往年の美しさの名残はそこかしこに感じられる。よくある二流の廓の女将と違って、白氏は言葉にも立ち振る舞いにも気品があった。度の過ぎた欲深さも無い。生真面目で、自分にも他人にも厳しい人だった。だからこそ、たった一人でこの瑞烟楼を十数年近く盛り立てることが出来たのだ。
 雪友は、育ての親にも等しい女将からの冷淡な態度に、思わず委縮した。白氏は、卓上に広げている帳簿へすらすら筆を走らせつつ、言葉を続けた。
「人間が一人増えるというのはね、お前が思っている以上に面倒なことなのよ。三食欠かさず与え、寝泊まりする場所も必要になる。そのお金を、お前の稼ぎでどうにか出来る?」
 雪友はがっかりした。情に訴えれば、少しは白氏が廓の稼ぎからお金を援助してくれると思ったのだ。なのに、全額を自分でどうにかしろ、ときた。かといって逆らえるわけもなく、愛想笑いを浮かべて答えた。
「そのことでしたら、これから頑張りますから……」
「私と交渉がしたいいのなら、まず稼げるようにおなり。でなければ、ちゃんと相談出来ないわ」
 口調こそ穏やかだが、交渉の余地はもはや無かった。雪友は肩を落とした。
 そこへ、侍女の小環がやってきた。
「おかあさん、草香寺の郭静かくせい様がお見えです」
「あら、本当に。すぐ行くわ」相好を崩した女将は、帳簿を畳んで雪友に言った。「お前悪いけど、五十両を奥間からとってきておくれ。お布施をするから」
 郭静は金陵郊外の小さな寺、草香寺そうこうじの尼僧だ。肌は水気の抜けた人参のよう、服も線香臭く、声はかん高くて耳障り。しょっちゅう瑞烟楼にやってきては、女将とくだらぬ世間話をするだけで帰っていく。何より気に入らないのは、お布施の名目で毎回何十両という金を持って行ってしまうことだった。廓の姉妹達は誰しもこの尼僧を嫌っていたが、生憎白氏が親しくしているので、何も文句を言えないのだった。
 雪友は不承不承に頷き、奥間へ向かった。白氏はいつ郭静が訪ねてきてもいいように、お布施用の銀をあらかじめ用意してある。寝床の下に、五十両分の銀が絹布にくるまれて入っていた。雪友はそれを引っ張り出すと、表の客間に戻った。ちょうど白氏と郭静が、卓で茶を飲みながらおしゃべりの真っ最中だ。尼僧はキーキー声で、今の時期にお布施をすれば大変なご利益がある、と熱心に口説いていた。白氏ときたら身を乗り出し、うんうん頷いている。
 うんざりした雪友は、わざと声を張り上げた。
「おかあさん、持ってきましたけど」
「あぁ、雪友。こっちに寄越してちょうだい」白氏が包みを受け取り、にこやかに郭静へ差し出す。「とりあえず、先にこれをおさめてくださいな。五十両ございます。また後日、こちらからご挨拶にうかがいますから」
 尼僧は瞳を強欲にぎらつかせ、口が裂けそうなほど大きい笑みを浮かべた。隙間だらけの歯から、今にも涎を垂らさんばかり。そそくさと包みを手元に抱き寄せ、ぺらぺらとまくし立てる。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。女将さん、まったく慈悲深いことで。御仏は必ずこの行いを称えることでしょうよ。きっと今年は商売繁盛、無病息災間違いなしです。何といってもね……」
 雪友は皆まで聞いていられず、大股にその場を立ち去っていた。
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