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四 白翠繡
しおりを挟む武当派の修行は、まず内功と軽功から始まる。日々、峻厳な山を上り下りして基礎的な肉体を作り、それから一門伝統の拳法と剣法を学ぶのだ。
また、修行は武術の鍛錬だけに留まらない。書物を読み、一門の戒律をそらんじ、長老から聖賢の道を指導してもらう。武当派の弟子が武林で尊敬を集めているのは、その義侠の行いゆえだ。道義を守り、無闇に人と争わず、弱きを助け強きをくじく。武術の強さだけでなく、人格的な完成も求められていた。
修行が始まってからも、紅鴛と翆繍は常に一緒に過ごした。剣術や拳法の型稽古、本の素読、いつも二人でやった。見習い時代と変わらず、菜園の仕事もあったが、厳しい武術修行に比べれば、野菜を育てるのはとても楽で、姉妹には修練の合間のささやかな息抜きになった。
紅鴛は武術にかけて天賦の才があったので、早くから師匠や長老に目をかけてもらった。同世代の弟子は三十人近くいたが、何をやらせても紅鴛が一番だった。
一方、翆繍の方は平凡で、時には基礎的な技を会得するのにも苦労した。紅鴛はつきっきりで義妹の修行の手伝ったが、三年もすると両者の力量には相当な開きが生まれた。翆繍では、とても紅鴛の練習相手は務まらなくなった。
さらに数年後。紅鴛は掌門に呼ばれ、武当派の奥義「子母双剣両儀」を直々に教えてもらえることになった。奥義の修行は、武当山の裏にある洞窟で、指導者と弟子が二人きりになって行う決まりだ。かくして半年あまり、紅鴛は翠繡と離れ離れになり、一度も顔を合わせなかった。
その後、技を完成させて洞窟を出ると、今度は掌門継承候補として、選ばれた数名の弟子たちと一緒に様々な課題をこなすよう命じられた。武当山を下り、各地の武術門派をまわって試合を行い、時々悪事に出くわせばそれを解決する。結局また一年ほど、翠繡とは会えなかった。
ようやく帰山が叶った日、翠繡は他の弟子達と一緒に出迎えてくれた。
「おめでとう、姉さん。あなたが武当の次期掌門に決まったのよ」
その声は明るかったが、笑みはどこか寂しげだった。次期掌門と、一介の弟子。随分立場が離れてしまった。紅鴛には新しい部屋が用意され、翠繡と寝食を共にすることは叶わなくなった。
最後に義妹と二人きりで過ごしたのは一年半前、河北で英雄豪傑を殺しまわっている蜈蚣尊者という恐るべき毒使いを退治すべく、数名の弟子達と下山した時だ。激闘の末、蜈蚣尊者を見事に討ち取った帰り、姉妹は宿で一晩中語り合った。いざ二人きりになると、どちらも子供時代と変わっていない。無邪気に笑い、泣き、思う存分気持ちを吐き出した。離れ離れになっていた間のこと、これから先のこと、立場が変わっても何が起きても、姉妹なのは変わらないこと……。確かに、絆を確認したはずだった。
それなのに――。
半年前、翠繡は武当山から失踪した。
あろうことか、紅鴛の婚約者である柯士慧を連れて。
弟子の一人が、二人が一緒だったのを目にしていたのだ。柯士慧は、婚礼前の準備で武当山を訪れていたところだった。武当派と柯家は急ぎ人を出して追わせたが、彼らはそのまま行方知れずになった。
武当の弟子は、師の許し無く下山してはならない。それだけでも掟破りなのに、あろうことか男と逃げ出した。これはまた別の戒律――師の許しなく異性と深く交際してはならず、また勝手に伴侶を定めてはならない――に触れる。そのうえ姉弟子の、しかも次期掌門の婚約者を連れて行ったのだ。既に武当派は、紅鴛と士慧の結婚について各地に知らせを出していた。それが直前になってこんな事件を起こしたのでは、武林における一門の面子を大きく傷つけることになる。
武当の弟子達は困惑し、そして怒りに燃えた。柯家も同様だった。
生憎、江湖は悪い噂ほど広まりやすい。事態が収拾する前に、あちこちで「武当の次期掌門が、婚約者を妹弟子に奪われた」「江南の柯六侠が、平凡な武当の女弟子を見初めて駆け落ちした」と、真偽も定かでない話が聞かれるようになった。実際、武当派も柯家も、翠繡と士慧が本当に想い合う仲だったのかわからなかったのだ。しかし、二人が一緒に失踪し、足取りも掴めなくなったのは事実だ。
ここに至っては、掌門の慕容武究も世間に示しをつけるよりほかなかった。紅鴛を呼び出し、直々に命じた。
「一門の裏切り者である白翠繡、そして彼女と共に逃げた柯士慧を討ち取り、武当派と柯家の恥をそそげ」と。
この命には、自分だけでなく一門の名誉がかかっている。それは頭で理解したが、即座に返答は出来なかった。
紅鴛は最初、ただただ困惑した。二人が自分を裏切るなんて信じたくはなかった。よしんば想いあうほどの仲だったとしても、こんな仕打ちをされるいわれはないはずだ……。一緒に逃げ出したのも、やむにやまれぬ事情があったか、仇敵の陰謀にでもかかったのではないか。
けれども、日に日に悪い噂が江湖を流れ、誹謗中傷が絶えず耳に入ってくるようになると、もう師の命じる通りにするしかないように思われた。兄弟弟子達は、しきりに紅鴛をそそのかした。
――お前のことをねたんでたのさ。武芸で差をつけられて、師匠にも可愛がられてたから。
――翠繡のやつ、この数年いつもこそこそしてたわ。ずっと何か企んでいたのよ。
――もとから不真面目な弟子だったよ。菜園に引きこもって、ろくに武芸の稽古もしないでさ。
紅鴛はとうとう腰を上げた。彼らの言葉を信じたわけではない。自分で真相を確かめるしかないと思ったのだ。
まずは翠繡と士慧の二人を探し出す。話はそれからだ。
師匠には、裏切り者を討伐すると誓いを立てて、出立した。けれど山を下りた後も、決心はついていなかった。
もし二人が、悪意を以て自分と武当派を裏切ったのだとしたら……武林の名誉のため、師命に従って彼らを斬れるだろうか?
もし二人が、やむを得ぬ事情で逃げたのだとしたら……これまでの情を重んじて師に背き、彼らを助けるだろうか?
宿の外は雪が降り続いている。
紅鴛は眠れなかった。
もう半年が過ぎた。こんなにかかってもあの二人が見つからないのは、自分が未だ彼らと会ってどうすべきか、決断出来ていないせいではないか。
そのくせ、鈍い怒りは腹の底へたまっていく。よからぬ噂を流し、笑い、自分や武当を貶める人々への。この頃はそちらに我慢が出来なくなっていた。
紅鴛は、衝動に駆られて掃把星の手を斬ったことを、再び後悔した。怒りのはけ口に剣を用いたりすれば、また別のよからぬ噂を流される羽目になる。あの掃把星のような男なら、尚更だろう。逃げおおせたあの男が、どこかの宿場で面白そうに語っている光景が浮かんだ。
武当の次期掌門に気をつけな……。男の話をすると、腕を切り落とされるぜ……。
紅鴛は微かに身震いして、気持ちを引き締めた。
――私は武当の次期掌門。行動の全てが一門の名を左右する。それを忘れちゃいけない。今後は、しっかり自分を抑えなくては。
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