路地裏の目撃者

えんげる

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路地裏の目撃者

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「じゃあねー。今晩も楽しみにしてるわ」
窓から化粧前の女が顔を出し、俺に向かって笑いかけた。
眩しい朝日が屋根に道路に人に車に、惜しみなく降り注いでいる。
女が細長いネイルの手をひらひらと振るのを背に、俺は歩き出した。

レンガで舗装された歩道を、俺が触ったら皺だらけになりそうな堅苦しいスーツ姿の男や女が忙しく歩いていく。
毎朝見慣れた光景だ。
この現代社会の典型的風景の中で俺みたいな毛並なのは異質に映るだろう。
すれ違う男が建物の陰を歩く俺を見下して、露骨に眉間にしわを寄せて過ぎ去っていく。
俺もこの人目に付く通りは長いこと歩きたくないから、早々にビルの間の小道に入り込んだ。

この隘路を行くと俺みたいな奴らが屯する広場がある。
いつも誰かいるわけではないが、美味いネタについて情報を得たり、だらだらとしたり、いい女を引っかける時もある。
今朝出た部屋の女はまた別で、何日か前に道をぶらついていた時に向こうから声を掛けてきた。
俺のどこが気に入ったのか分からないが、時々部屋に連れ込まれてはメシや風呂を世話してもらい、そのまま一晩過ごす事もある。
定住していない身としては有り難いが、かと言ってネイル女に飼われる気もない。
好きなときに行きたいところへ行き、会いたい時に会いたい奴らと会う。
今日もそのつもりで足を向けたが、そこにいたのはいつもの連中ではなかった。

数人の人間が、しかも子供が、壁に向かって集まっていた。
どうやら男だけでなく女もいるようだ。
奴らの頭は茶色にもっと明るい色に、人間ではあり得ない色に染まってるのもいた。
履いているズボンは穴だらけで、上着には細々とした模様が書かれているが、鹿爪らしい感じは全くない。
そいつらが何かを取り囲んで、ゲラゲラと笑ったり、挑発めいたことをぬかしたりしている。
――やばい奴らだ。
俺はそう判断して、陰に身を潜めて様子を伺った。
どちらかと言えば俺ら寄りの集団ではあるが、それだけに関わればこっちは酷い目にあうのが目に見えている。
立ち去るべきと理解しているにも関わらず、奴らから漂う血の匂いが、俺をその場に縛り付けてしまった。
ガキどもから、ガキの足の間から見えるものから視線が逸らせない。

壁に凭れて座っている奴がいる。
足を前に伸ばし、頭は力無く項垂れて、手はだらんと垂れ下がっている。
下向いた顔からはぽたぽたと血が滴っている。
服の所々は汚れ、鋭く裂かれた所や、血が滲んでいる部分もある。
他のガキどもはそいつを取り囲んで囃し立てているのだ。
誰か一人が何か喚きながら、壁に凭れている奴の横から蹴りを入れた。
壁の奴は抵抗もせず、そのまま此方に顔を向けて倒れた。
倒れたそいつの顔は痣や出血が酷く、あちこち腫れ上がって目は半開きで、意識がないのが分かる。
他の奴らは尚も嘲笑したり辺りをうろうろと歩き回ったり、ギャハハハッと下卑た笑い声を上げ、音と共に眩しい光を浴びせたりしていた。
何とかこっちに気付く前に足を動かさなければ。
目線を釘付けにしたままどうにか後ろに下がった時。

一人がこっちを向いた。
その目先が俺を捕らえ、顔色が変わった。
そいつが俺から目を逸らして近くの奴に話し掛けた瞬間、弾かれたように俺は走り出した。
逃げる俺の視界の端に、俺がいたところを指さしながら仲間と話す奴が見えた。
必死に走って反対側の建物の裏まで回り込んだ。
一息つく間もなく、ガキどもの足音が聞こえてくる。
追ってくるか。
この辺の地理はあんなガキより俺の方が明るい。
さっさと撒いてしまおうと、再び走り出した俺の背後から、カシッと何か軽い音がした。

タタタタタッーーーー
俺の足元でバチバチと何かが弾かれて転がって行った。
小さな球が周囲にばら撒かれて広がっていく。
ーーガキどもめ、物騒なもん持ち出しやがった。
俺を捕まえるのに、あいつら生死は問わないつもりだ。
自分の小柄な体を活かして、奴らが入ってこれない狭い植え込みの陰に逃げ込む。
後ろで球の飛んでくる連続音が聞こえてくる。
足を止めたら最後、俺も奴らが囲んでいた人間のようにボロボロにされる。
木を掻き分けて一直線に走る俺の足に衝撃と激痛が走った。
ーー畜生、当たりやがった。
痛みに一瞬止まりそうになったが、それでも止まるわけにはいかない。
続いて2発目、3発目が体に命中した。
思わず「グアッ」と呻き声が漏れ、つい足が動きを止めてしまった。
無遠慮に近付いてくるガキどもの足音と罵声が俺に焦燥感を湧き上がらせる。
ーーーー俺を捕まえられると思うか? お前らが。
くいっと空を見上げると、渾身の力で塀の上まで飛び上がって登った。
塀の上を駆ける俺を追い縋るように球が掠めていった。
民家の塀と塀の狭い間に飛び込み、ガキ達の声が聞こえなくなるまでがむしゃらに走った。
体の疲労と痛みが激しいが、どうやら振り切れたようだ。
薄暗く湿った地面に腰を下ろして休息をとることにした。
ーーしばらくあいつの家に行けないかもな……。
やがて俺の意識は泥の中に沈んでいった。


「……動画はここまでです」
数人の警官の中から年配の男が言った。
皆が見つめていた画面に一番近く座っている女性は、真っ赤な目元をハンカチで抑えていた。
「…海智……ううっ……」
女性の年齢は50代といったところで、他のこの部屋にいる者は全て警察関係者だ。
「見ていただいて有難うございました。辛い映像でしょうが、海智くんだったかご確認いただけたでしょうか? ご希望であればもう一度再生しますが…」
「……確かに息子でした。途中映った顔で分かりました。あんな…傷だらけに……」
女性は涙声で答えた。
年輩の男が背後の関係者に目で合図すると、何人かが慌ただしく部屋を出ていった。

ある日匿名で警察署宛に記録メディアが送られてきた。
それを再生したところ、とある地域の不良グループと、未成年者殺害遺棄事件の被害者が映っていたのだ。
数週間前に発生したこの未成年者殺害遺棄事件について、同じ地域の不良グループが容疑者として上がっていたが、それまで決定的な証拠が見つかっていなかった。
「あの、これ…本当に猫が撮影したものなんでしょうか……?」
泣き腫らした少年の母親が年配の警官に尋ねた。
「『猫カメラ』などと呼ばれている、テレビや動画投稿サイトで時々やってるものだと思われます。後半すごい速さで移動している時があったでしょう? あれは犯人達にエアガンで狙われていたんですよ。小型カメラを見つけられたんでしょう」
「カメラを……誰がそんなことを…?」
年配の警官は困り顔になった。
「それが、この動画は送り主の特定につながる部分はカットされているんですよ。動画の中に肖像権やプライバシー権の侵害に関わる部分があるのを恐れたのかもしれないですが」
少年の母親は膝の上でハンカチを握りしめた。
「犯人が逮捕されるなら、証拠が違法とか…どうでも……どうか、お願いします……」
すすり泣く母親を見つめ、年配の警官は動画の一場面が表示されたままの画面に再び視線を戻した。
「…先程署の者が向かいましたので、近いうちに必ず補導できます」
ーーーープライバシー権に抵触するから? 
果たしてそれだけの理由だろうか。


タワーマンションの一室。
女が膝の上の黒い猫をゆっくりと撫でている。
「まだ痛いところある? また元気にお散歩したいものね。怖かったでしょう?」
猫は目を閉じて丸くなり、じっとしている。
「大丈夫よ。すぐに犯人は見つかるから……」
道端で出会ってからというもの、クロは女にとって運命の猫だった。
なのに体の傷と共に猫が持ち帰ってきた動画を観て、女は全身の血液が沸騰しそうな怒りを覚えた。
数人で一人に対して暴力を加えるクズの集まり。
それだけでなく、クロにもあんな酷い真似を……。
「警察は奴等を探してくれるだけでいいの。私は直接、この手で、クロの痛みを思い知らせてやらなくちゃ」


この女はどう思ってるか知らないが、俺はこれに懲りて飼い猫になろうなんて思っちゃいないぜ。
多少の危険を覚悟してなきゃ自由は楽しめないもんだ。
それにしても俺を撃ってきた道具と似たやつを、同じ部屋に置くのは止めてもらいたいんだが。
何とも嫌な気分だ。


黒猫を撫でる女の手には、先の鋭く尖ったネイルが妖しく光っていた。
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