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くしゃみ
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「はっくしゅん!」
くぐもった大きな声がへやに響き渡った。
彼女はティッシュで鼻を抑えた目の前の後輩を、気の毒そうに見やった。
「結構酷いね。風邪なの?」
白い業務用マスクを付けた今日の打ち合わせ相手は、しぱしぱと瞬きしながら答えた。
「いえ、熱はないみたいなんですが…すみません、不快な思いさせて」
「私は大丈夫よ。花粉症にしては時期が遅いよねえ…薬は飲んだの?」
「昼休みにドラッグストアに行ったんですが、社員研修のためだとかで休みで」
「あーそれはついてない。帰りにどこかで買うしかないわね」
頬杖をつきながら申し訳なさそうな彼を眺める。
次いで部屋の中を見回しながら、
「新しい建物だから、特有の臭いとかあるのかしら。くしゃみの原因になりそうな」
「つい一週間前までは平気だったんですが…」
「どうしても辛いなら休憩とるから。何とか全部終わらせられるといいわね」
ティッシュ箱の横に置かれた本日の資料を捲り出した。
生産拡大のため新設した工場が、本格的に始動しておよそ1ヶ月。
別の支社から異動してきた内藤係長と大石は、おそらく他の者もそうであろうが、新しいもの尽くしの職場の雰囲気にまだ慣れないところがあった。
彼らがいる部屋には広い間隔を空けて机が何台かあり、他にも何人かミーティングをしているグループが見られる。
ここは多目的用に作られた部屋で、一般的な使い道は会議であるが、自動販売機や流し、業務用資料も備えてあるため、休憩や調べ物にも利用されることがある。
本日の話し合いも、会議に適した部屋があるらしいので使ってみようということで、ここに決まった次第だ。
「せめて連絡だけでも取れるといいんだけどね、課長」
堪えられないくしゃみをしつつ必死に説明を続ける大石に、内藤は話し掛けた。
「同じ課でもやっぱり困るでしょ、こういう時いないと。あなたは本当に頑張ってると思うけど」
「…課長の奥さんも心当たりがないって戸惑ってた感じです。行方不明者届を出すって言ってました…くしょん!」
「そう…」
本来なら今日の打ち合わせに来るのは彼ではなかった。同じ課の課長が出席するはずだったのだ。
その課長は約一週間前から行方不明で連絡もつかない。
課長が不在の間も滞ることを許されない業務は、部下の大石及び周辺の者の担うところとなっている。
ただでさえ役職が上の者の仕事を担当するのは気後れするのに、今現在の彼のように、連発するくしゃみに悩まされるような事態になれば、なおのこと労力気力を削られる。
「…で、このグループは5番目のラインを担当してもらってます。…っくしゅ! これで増員した作業員の現作業内容は全てです」
「ありがとう。良く把握してて分かりやすかったわ。10分休憩しましょうか」
内藤は席を立って自動販売機で飲み物を買った。
大石は飲んでいる途中で吹き出すのが怖いのか、流しでコップに水を汲んだ。
「人気者は辛いわね」
内藤が捻りもない冗談を言った。
「人の噂って悪い事が多いじゃないですか。何言われてるのかと思うと、いい気はしないです」
大石が鼻をグズグズとさせながら答えた。
「ふふ。どんなに良い人でも悪く言う人はいるものよ」
ジュースを飲んで一息つきながら、
「この工場自体良く思ってない人もいるくらいだから」
「ここがですか? これだけ地域の雇用創出に貢献してるのにですか。環境保全面でまだ不満が出てるんですかね」
言い終わると同時にまた彼がマスクの下でくしゃみをした。
「そうじゃないのよ。この工場を建てる前、土地の建造物を撤去する時に住民と揉めた事があってね」
「ふーん…建造物ってどんなのだったんですか?」
彼女はそれがね、と言いながら、吹き出すのを我慢するように少し顔を俯かせた。
「建造物って言っても、自治体所有の土地の隅に、岩を並べて積み重ねただけの石塚なのよ。通りがかっても岩の塊にしか見えないんだって」
生理現象に苦しむ大石の気を少しでも紛らわせようと、内藤は社内の者から聞いた話を思い出してみた。
「何時からあるのかとか、何を祀ってあるのかとか、由来らしいものも無いみたいだから、只の岩だろうって退かしてしまう方向で話してたら、その近くに住んでるお婆さんから会社に猛抗議があったらしいのよ」
「へっくしん! …そのお婆さんって、何か知ってたんですか?」
「この石塚は古くから土地の人間に悪い物が寄り付かないよう守ってくれるものだから、動かしてはいけないんだって。さっき言った通り、何処を調べても由来が分からなかったのに、その人は知ってたのって変よねえ」
大石はくしゃみが来ないよう、慎重に水を飲みながら言った。
「しかし自治体所有の土地だったら、そのお婆さんには何の権利もないわけですよね」
「そうなのよ。それでも頑固に主張し続けるものだから、役所内の土地にその石塚を移動させたんだって」
大石が顔を背けて一回くしゃみをした。
「結局動かしたんですね。そのお婆さんの家に移せば良かったのに」
「そりゃあね。お婆さんの庭に収まる大きさじゃなかったのよ。位置的に残しておくとここの建設に支障が出る所だったから、動かさざるを得なかったみたい。その後お婆さんからはネチネチと嫌味を言われたらしいけど」
「へえ。祟りとか気になって来るけれど、壊されなかっただけましかもしれないですね」
「本当に石塚だったら気にもなるけどね。さっき言った通り岩を積み重ねただけのものかもしれないし。会社としては地元住民とのトラブルは出来るだけ避けたつもりだろうけど」
内藤はジュースを飲みながら、ちらりと時計を見た。
そろそろ10分か。
「えっくし! …何か起こそうとすると、色々言われるのは避けられないんですね」
「そういうことよね。あなたも課長の代理で至らないって周りから言われるかもしれないけど、あまり気にしない方が良いわよ」
「ありがとうございます」
二人は言いながら、元の席に戻っていった。
「っくしょん! …ああ、くっそ」
席に戻る途中、彼女は何気に自分の言った話の一部を反芻していた。
『土地の人間に悪いものが寄り付かないよう守ってくれるーーーー』
内藤はくしゃみについての迷信でもう一つ思い当たる所があった。
『くしゃみをすると魂が抜ける』ーーーー
鼻から魂が出ていってしまうので、後から呪いを唱えたりする風習。
彼のくしゃみを聞きながら、ふと思いつく。
例えば悪霊や、自分に害を為そうとするものが取り憑いていた時、『魂が抜ける』ことをするとどうなるんだろう。
「じゃあ、本部への報告事項について、っくしん! 纏めましょうか」
くしゃみには異物を体の外に出す働きがある。
もしこの働きが、自分に入って来た悪霊を異物と見做して機能したらーーーー。
部屋中に特大のくしゃみの声が響き渡った。
「…はあ、ふう……」
大石はまるで短距離走を走り切ったかのように息継ぎした。
「すみません、ちょっと気分が良くなったかもしれません。…?」
彼の方を見たまま、内藤は驚愕の表情で凍り付いている。
「あ、ちょっとでかいのが出ちゃいました。僕大丈夫なんで」
内藤はパクパクと口を動かし、ゆっくりと指さした。
「……大石君、それ……」
「え?」
彼は言われて自分のマスクを摘まんで見た。
大石のマスクには手形が付いていた。
それも真っ赤な血の手形が。
反射的に嫌悪感が湧いて彼はマスクを外した。
血の手形はマスクの外側でなく、内側に多く付いていた。
「うえっ…! 何だこれ!?」
思わずマスクを放り投げ、床の上に落とした。
その手の跡は、まるで内側からマスクを鷲掴みにしたかのような跡だった。
大石が逮捕されることとなるのは、これより2ヶ月程先の話である。
容疑は課長の殺害と死体遺棄。
動機は彼曰く「入社した時から目の上のたんこぶだった」かららしい。
正に青天の霹靂の事態に、社内は一時騒然となった。
内藤はあの時見たものを誰にも話さないことにした。
まず信じて貰えないだろうから。
しかし一生忘れる事はできないだろう。
特大のくしゃみをしたその瞬間、大石の口から血に塗れた手が飛び出し、マスクを鷲掴みにしていったのだ。
くぐもった大きな声がへやに響き渡った。
彼女はティッシュで鼻を抑えた目の前の後輩を、気の毒そうに見やった。
「結構酷いね。風邪なの?」
白い業務用マスクを付けた今日の打ち合わせ相手は、しぱしぱと瞬きしながら答えた。
「いえ、熱はないみたいなんですが…すみません、不快な思いさせて」
「私は大丈夫よ。花粉症にしては時期が遅いよねえ…薬は飲んだの?」
「昼休みにドラッグストアに行ったんですが、社員研修のためだとかで休みで」
「あーそれはついてない。帰りにどこかで買うしかないわね」
頬杖をつきながら申し訳なさそうな彼を眺める。
次いで部屋の中を見回しながら、
「新しい建物だから、特有の臭いとかあるのかしら。くしゃみの原因になりそうな」
「つい一週間前までは平気だったんですが…」
「どうしても辛いなら休憩とるから。何とか全部終わらせられるといいわね」
ティッシュ箱の横に置かれた本日の資料を捲り出した。
生産拡大のため新設した工場が、本格的に始動しておよそ1ヶ月。
別の支社から異動してきた内藤係長と大石は、おそらく他の者もそうであろうが、新しいもの尽くしの職場の雰囲気にまだ慣れないところがあった。
彼らがいる部屋には広い間隔を空けて机が何台かあり、他にも何人かミーティングをしているグループが見られる。
ここは多目的用に作られた部屋で、一般的な使い道は会議であるが、自動販売機や流し、業務用資料も備えてあるため、休憩や調べ物にも利用されることがある。
本日の話し合いも、会議に適した部屋があるらしいので使ってみようということで、ここに決まった次第だ。
「せめて連絡だけでも取れるといいんだけどね、課長」
堪えられないくしゃみをしつつ必死に説明を続ける大石に、内藤は話し掛けた。
「同じ課でもやっぱり困るでしょ、こういう時いないと。あなたは本当に頑張ってると思うけど」
「…課長の奥さんも心当たりがないって戸惑ってた感じです。行方不明者届を出すって言ってました…くしょん!」
「そう…」
本来なら今日の打ち合わせに来るのは彼ではなかった。同じ課の課長が出席するはずだったのだ。
その課長は約一週間前から行方不明で連絡もつかない。
課長が不在の間も滞ることを許されない業務は、部下の大石及び周辺の者の担うところとなっている。
ただでさえ役職が上の者の仕事を担当するのは気後れするのに、今現在の彼のように、連発するくしゃみに悩まされるような事態になれば、なおのこと労力気力を削られる。
「…で、このグループは5番目のラインを担当してもらってます。…っくしゅ! これで増員した作業員の現作業内容は全てです」
「ありがとう。良く把握してて分かりやすかったわ。10分休憩しましょうか」
内藤は席を立って自動販売機で飲み物を買った。
大石は飲んでいる途中で吹き出すのが怖いのか、流しでコップに水を汲んだ。
「人気者は辛いわね」
内藤が捻りもない冗談を言った。
「人の噂って悪い事が多いじゃないですか。何言われてるのかと思うと、いい気はしないです」
大石が鼻をグズグズとさせながら答えた。
「ふふ。どんなに良い人でも悪く言う人はいるものよ」
ジュースを飲んで一息つきながら、
「この工場自体良く思ってない人もいるくらいだから」
「ここがですか? これだけ地域の雇用創出に貢献してるのにですか。環境保全面でまだ不満が出てるんですかね」
言い終わると同時にまた彼がマスクの下でくしゃみをした。
「そうじゃないのよ。この工場を建てる前、土地の建造物を撤去する時に住民と揉めた事があってね」
「ふーん…建造物ってどんなのだったんですか?」
彼女はそれがね、と言いながら、吹き出すのを我慢するように少し顔を俯かせた。
「建造物って言っても、自治体所有の土地の隅に、岩を並べて積み重ねただけの石塚なのよ。通りがかっても岩の塊にしか見えないんだって」
生理現象に苦しむ大石の気を少しでも紛らわせようと、内藤は社内の者から聞いた話を思い出してみた。
「何時からあるのかとか、何を祀ってあるのかとか、由来らしいものも無いみたいだから、只の岩だろうって退かしてしまう方向で話してたら、その近くに住んでるお婆さんから会社に猛抗議があったらしいのよ」
「へっくしん! …そのお婆さんって、何か知ってたんですか?」
「この石塚は古くから土地の人間に悪い物が寄り付かないよう守ってくれるものだから、動かしてはいけないんだって。さっき言った通り、何処を調べても由来が分からなかったのに、その人は知ってたのって変よねえ」
大石はくしゃみが来ないよう、慎重に水を飲みながら言った。
「しかし自治体所有の土地だったら、そのお婆さんには何の権利もないわけですよね」
「そうなのよ。それでも頑固に主張し続けるものだから、役所内の土地にその石塚を移動させたんだって」
大石が顔を背けて一回くしゃみをした。
「結局動かしたんですね。そのお婆さんの家に移せば良かったのに」
「そりゃあね。お婆さんの庭に収まる大きさじゃなかったのよ。位置的に残しておくとここの建設に支障が出る所だったから、動かさざるを得なかったみたい。その後お婆さんからはネチネチと嫌味を言われたらしいけど」
「へえ。祟りとか気になって来るけれど、壊されなかっただけましかもしれないですね」
「本当に石塚だったら気にもなるけどね。さっき言った通り岩を積み重ねただけのものかもしれないし。会社としては地元住民とのトラブルは出来るだけ避けたつもりだろうけど」
内藤はジュースを飲みながら、ちらりと時計を見た。
そろそろ10分か。
「えっくし! …何か起こそうとすると、色々言われるのは避けられないんですね」
「そういうことよね。あなたも課長の代理で至らないって周りから言われるかもしれないけど、あまり気にしない方が良いわよ」
「ありがとうございます」
二人は言いながら、元の席に戻っていった。
「っくしょん! …ああ、くっそ」
席に戻る途中、彼女は何気に自分の言った話の一部を反芻していた。
『土地の人間に悪いものが寄り付かないよう守ってくれるーーーー』
内藤はくしゃみについての迷信でもう一つ思い当たる所があった。
『くしゃみをすると魂が抜ける』ーーーー
鼻から魂が出ていってしまうので、後から呪いを唱えたりする風習。
彼のくしゃみを聞きながら、ふと思いつく。
例えば悪霊や、自分に害を為そうとするものが取り憑いていた時、『魂が抜ける』ことをするとどうなるんだろう。
「じゃあ、本部への報告事項について、っくしん! 纏めましょうか」
くしゃみには異物を体の外に出す働きがある。
もしこの働きが、自分に入って来た悪霊を異物と見做して機能したらーーーー。
部屋中に特大のくしゃみの声が響き渡った。
「…はあ、ふう……」
大石はまるで短距離走を走り切ったかのように息継ぎした。
「すみません、ちょっと気分が良くなったかもしれません。…?」
彼の方を見たまま、内藤は驚愕の表情で凍り付いている。
「あ、ちょっとでかいのが出ちゃいました。僕大丈夫なんで」
内藤はパクパクと口を動かし、ゆっくりと指さした。
「……大石君、それ……」
「え?」
彼は言われて自分のマスクを摘まんで見た。
大石のマスクには手形が付いていた。
それも真っ赤な血の手形が。
反射的に嫌悪感が湧いて彼はマスクを外した。
血の手形はマスクの外側でなく、内側に多く付いていた。
「うえっ…! 何だこれ!?」
思わずマスクを放り投げ、床の上に落とした。
その手の跡は、まるで内側からマスクを鷲掴みにしたかのような跡だった。
大石が逮捕されることとなるのは、これより2ヶ月程先の話である。
容疑は課長の殺害と死体遺棄。
動機は彼曰く「入社した時から目の上のたんこぶだった」かららしい。
正に青天の霹靂の事態に、社内は一時騒然となった。
内藤はあの時見たものを誰にも話さないことにした。
まず信じて貰えないだろうから。
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