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椅子と小鳥
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生い茂る樹々の枝葉が空を隙間なく覆い、昼間でも涼しく薄暗い森。
一羽の小鳥が空から飛んできた。
樹に留まって周囲を見渡し、また別の樹に飛び移っては…を繰り返すうち、地面の叢に不思議な物を見つけた。
真っ直ぐな木材を繋ぎ合わせたそれは、明らかに森のものではない。
数日前に巣立ったばかりの小鳥にもそれが分かった。
黒く円らな瞳でその形状を眺めるうち、似たものの記憶を蘇らせる。
「…うーん、これとそっくりなの、確か…」
「儂が気になるか」
異質な物が小鳥に声を掛けてきた。
「動物が来ることはあるが、儂を気に掛ける奴はいなかったな」
異質なものが老齢であることが、その声からは推測できた。
「僕、おじいちゃんと同じの見たことあるんだ。…椅子ってやつだよね」
小鳥が自分の名を言い当てたことに、異質な物は感心したようだった。
「よく名前を知っておるな。その通り、儂は椅子として人間に作られた。これでも結構昔に出来たんだが、無駄に年を取ってしまった感があるな」
小鳥はくるんと小首を傾げながら尋ねた。
「…どうしてここにいるの?美味しいものを探しに来たの?」
「儂は椅子じゃから、物を食べたりせん。自分で動くこともできん。ここにおるのは、人間に運ばれてきたからじゃよ」
椅子は小鳥を座面に留まらせながら、己の経緯を聞かせた。
人間の都合により、元居たところから引っ越すことになったこと。
運ばれる途中に車が崖から森へ落ちたこと。
椅子も他の積み荷と共に、森の中に散乱してしまったこと。
「おじいちゃんがボロボロになっちゃったのはそのせいなの?」
「まあな。それで使用不能にはならんかったが、結構傷がついた。ここで雨風に晒されておったのもあるな」
木製の椅子はところどころニスが剥げて木材の内部が露出しており、表面が緑色に変色している個所もあった。
「人間はおじいちゃんを探しに来ないの?」
「…儂もしばらくは持ち主が探しに来るのを待っておった。今この時も儂が必要とされているかもしれない、このような人の住処から離れたところでも、必ず見つけに来てくれると。しかし」
椅子は言葉を切って、間を置いた。
「儂を見つけられなんだか、それとも探すのを諦めたか。結局儂は森の住人となって、今も此処におる」
椅子が佇む場所の付近には山道も小屋もなく、およそ人間のものらしい足音さえ聞かなかった。
小鳥はぱちぱちと瞬きをした後、椅子に向かってチュルルルと鳴いた。
「おじいちゃんのところに人間は来ないんだよね?それなら僕、これからもここに来ていい?」
「…駄目だとは言わんが、しょっちゅう来るのは危険だぞ。この近くで大きい獣が狩りをするのを見たことがある。お前さんも狙われるかもしれん」
「大丈夫だよ。僕だって危ないと思ったら来ないから」
自分で言ったとおり、小鳥はたまに空を飛んでやって来た。
その時は椅子に人間の話をせがんだり、自分が見つけた珍しいものを見てもらったりした。
「お前さんがわざわざ仲間のいないところまで来るのは、偏に旺盛な冒険心の賜物じゃな」
「僕新しいものを探すの大好き。そのおかげでおじいちゃんに会えたもんね」
ひじ掛けや背もたれの部分を忙しなく飛び回る小鳥と、朽ちかけた古い椅子を、僅かな木漏れ日が照らしていた。
小鳥がねぐらへ行ってしまうと太陽も山の向こうに沈んでいく。
草木や動物を闇が覆い尽くし、時折夜行性の動物の鳴き声や物音が、森の彼方此方から囁き声のように響いてきた。
突然、樹の上方で枝が折れる音がした。
枝の折れる音は上から下に移動し、続けて、地面あたりにドサッと重いものが落ちた音が木霊した。
椅子は音のした方を見渡した。
「あれは…」
叢の間に光を放つものがある。
辺りを照らしつける光のすぐ傍に、鹿ほどの大きさの布包みが横たわっていた。
やがて人間の息遣いと足音が聞こえてきた。
先程の光を目印にやってきたらしい。
大人の男性と思しき人間の手には細長く先の広い道具が握られている。
男は自分が投げた布包みとライトを前にして思った。
ーーーーあとはこいつを消せば。
死体さえ見つからなければ行方不明扱いに出来るはずだ。
男は持ってきたスコップを雑草の生える地面に突き刺し、最も重要な作業を始めた。
相当の労力を要してどうにか背丈ほどの深さの穴を掘ると、包みの中の死体を引っ張り出した。
死骸となり果てた女の顔は、生きていたらこんな締まらない表情はしないだろうと思うほど、力の抜けた悲しみの色を浮かべていた。
ーーーー化けて出るなよ。
男は脳内でつぶやきながら、女の死体を穴に入れ、掘った土を埋め戻した。
別に殺すつもりなどなかった。
全く物の弾みだったのだ。
女は上司である男にとって何かと鼻につく存在だった。
不相応なくらい仕事が出来、男に対しても臆することなく意見を述べる。
多忙な業務の合間にコソコソ何をしているのかと思えば、男の外部業者との癒着を調査していたのだ。
男と部下の女は言い争いになったが、男が強く詰め寄ったせいで、女が死んでしまったのは想定外だった。
これが表沙汰になれば自分の人生はおしまいだ。
身の破滅を恐れた男は事態を隠蔽することにした。
森林道から離れたところに、崖の上から死体とライトを投げ、ライトを頼りに落下地点を見つける。
死体を担いで森の中を彷徨う労力を省くためだ。
あとは死体を深く埋めてしまえば、およそ人の立ち入らないこの密林では発見されないだろう。
死体を包んだ布は何処かで焼却処分すればいい。
残るは自身のアリバイだが、愚鈍な妻には出張と言ってある。
全くあのくらいの愚図だったら死に急ぐこともなかっただろうに。
実に可愛げのない女だった。
死体を埋め終わった時、男は汗と泥まみれになっていた。
誰か来る気配もないし、少し休憩をとっても問題ないだろう。
背を預ける樹を探してライトをかざすと、明かりの中に予期せぬものが見えた。
「…椅子……?」
飾り気のない木製の椅子が草の中に佇立している。
人が来ない場所を選んだつもりだが、ここには誰か来ることもあるのか。
死体の埋め場所を変えようにも時間的・体力的に無理そうだ。
見た目から察するに随分放置されているらしい。
とはいえ、こんな道もない森の奥にくるのはどんな人間か、確認しておいた方が良さそうだ。
椅子を調べてみようと、男は椅子に近付いた。
「………!?」
男が思わず硬直した。
椅子の肘掛に絡みつく、細くて見えなかった革紐を見つめる。
男は正面の背もたれに顔を向けた。
横向きの木の背板を並べただけの簡素な背もたれには、普通の椅子には見慣れない照明のようなものが下がっている。
ーーこれは照明ではなく、電極だ。
「………!!」
男は後ずさった。
この椅子がどんな目的を持って作られたか理解したのだ。
ーー電気椅子。
電気椅子は高圧電流を用いた処刑用の道具だ。
よく見ると雑草に隠れた椅子の脚には、足首を固定する電極が手前に突き出ている。
男の胸中で疑念が渦を巻き始めた。
「どうして……」
なぜ電気椅子がここにあるのか。
一体誰が置いたのか。
渦巻く疑念は得体のしれないものへの恐怖心に変わっていく。
疲れていたことも忘れて、この不気味な椅子から離れようと一目散に走り出した。
突如男の正面から暴風が吹きつけたような衝撃があり、後方へ吹っ飛んだ。
後ろの椅子の肘掛けの間にそのまま収まり、強制的に座らされる形になった。
立ち上がろうとするより先に肘掛の革紐がくるくると腕に巻き付き、椅子に縛り付けた。
更に足元の電極が勝手に開いて男の足首を挟みこんだ。
「なっ……!何だ!一体!!」
何が自分に起きているというのか。
とにかくこの椅子からは逃れたくて、男は力一杯暴れた。
藻掻く男のすぐ背後で声がした。
「ーーーー刑を執行する」
老人の声だった。
頭上の電極が男の頭に下りてきたと同時に、焼けるような激痛が全身を襲った。
「っがっ……!!……!!!」
数秒の苦痛のあと、男の意識は無くなった。
それからしばしの間椅子の上でガタガタと男の体が動いていたが、やがて止まった。
力なく前のめりになった男の頭上からは煙が立ち上り、辺りにはわずかに肉の焼ける臭いが漂っていた。
周囲の樹々の間の暗闇から、数匹の狼が姿を現した。
椅子と距離を保ちながら、低い唸り声をあげ、こちらを窺うように睨んでいる。
「生焼けだが持っていくがいい」
椅子が呼びかけると、それが合図のようにぱっと飛びかかってきた。
狼達は亡骸となった男を椅子から引き倒して、数匹がかりで茂みの向こうへと引きずって行った。
狼たちの気配が無くなると、森に再び静寂が訪れた。
今や主の無くなった懐中電灯だけが暗闇に光を投げかけている。
「……お前の役割はここで終わりかの」
土の上に横たわる懐中電灯に向かって椅子は呼びかけた。
あらゆる道具は目的を持ってこの世に生み出される。
処刑用に製造された世界で一脚の椅子は、一度もその座面に犯罪者を座らせることなく打ち棄てられた。
森に息づく動物たちと昼夜を繰り返す森を眺めながら、煮え切らない思いをずっと燻ぶらせてきた。
自分を作った人間たちから必要とされたいわけではない。
古ぼけたこの身を新品同様に若返らせたくも、色々な土地に行ってまだ見ぬ景色を見たくもない。
生存本能すらあるかどうかも怪しいのだ。
罪人を葬る、ただそれだけが処刑道具たる儂の喜びだ。
人工物の自身の内を大蛇のようにうねる、人工ならざる力を感じながら、椅子はかつてない充足感に満ち溢れていることを自覚していた。
その日夜明け前から空はどんよりとした雲に覆われていた。
微風がさわさわと樹々を揺らす音を椅子がじっと聞いていると、小さな扇のような羽を羽ばたかせて、小鳥が再びやってきた。
「おじいちゃん、おはよう」
「おはよう。今日は随分と早いな」
「うん、いいこと思いついたんだ」
小鳥が胸を張ってチュルルと水笛のような鳴き声を立てた。
「元々おじいちゃんって、人間と一緒にいたんだよね。もっと人間がこの辺に来てくれたらいいと思わない?」
「人間がか?どうしてそう思うんだ?」
小鳥の考えはひどく無邪気で楽天的だった。
何らかの方法で小鳥が人間の注意を引き付けて、人間を森の中まで呼んで来ようというのだ。
「しかしこの見てくれじゃぞ。人間が見ても座りたいとは思わんじゃろう」
「でも、おじいちゃんもこのまま古くなるより、拾って貰って新しくなる方がいいでしょ?」
椅子は唸って考え込んだ。
「…確かにそういう、再利用が好きな人間もいると聞いたことがある。しかし発見されて即廃棄になる可能性が大きい以上、余計なことはせんでくれ。気持ちだけ有り難く頂いとくよ」
「ええーっ、いい考えだと思ったんだけどなあ」
男を処刑したあの夜から、椅子は考えた。
何故男は椅子のところまで死体を埋めにやってきたのか。
ーーこの辺りが人間が寄りつかないところだからだ。
人間は人目につかないところで悪事を働く。
椅子の居るところに罪人を呼び込むには、普段誰も立ち寄らない今のままの方が都合がよい。
たとえそれが空頼みであっても、枯れ木に花咲く位に起こり得ないことであっても。
己が使命を果たすにふさわしい次の人間が現れるまで、自分はこの打ち捨てられた薄暗い場所で待ち続ける。
「…儂は椅子じゃからな、動かずに待っているのが分相応なんじゃ」
「おじいちゃん、僕達人間の町ではどこに座ってると思う?」
「さあな。屋根の上とかか?」
「屋根もそうなんだけど、電線の上が一番便利なんだ。寒い時もあったかいからね」
「そうか。あれが何故人間の手の届かんところにあるか考えたことはあるか?」
「んー……。そういえば何でだろう?」
「それはな。人間はあの上に座ることは出来んからじゃよ」
小鳥は椅子の電極に停まりながら、チチチッと鳴き声を立てた。
一羽の小鳥が空から飛んできた。
樹に留まって周囲を見渡し、また別の樹に飛び移っては…を繰り返すうち、地面の叢に不思議な物を見つけた。
真っ直ぐな木材を繋ぎ合わせたそれは、明らかに森のものではない。
数日前に巣立ったばかりの小鳥にもそれが分かった。
黒く円らな瞳でその形状を眺めるうち、似たものの記憶を蘇らせる。
「…うーん、これとそっくりなの、確か…」
「儂が気になるか」
異質な物が小鳥に声を掛けてきた。
「動物が来ることはあるが、儂を気に掛ける奴はいなかったな」
異質なものが老齢であることが、その声からは推測できた。
「僕、おじいちゃんと同じの見たことあるんだ。…椅子ってやつだよね」
小鳥が自分の名を言い当てたことに、異質な物は感心したようだった。
「よく名前を知っておるな。その通り、儂は椅子として人間に作られた。これでも結構昔に出来たんだが、無駄に年を取ってしまった感があるな」
小鳥はくるんと小首を傾げながら尋ねた。
「…どうしてここにいるの?美味しいものを探しに来たの?」
「儂は椅子じゃから、物を食べたりせん。自分で動くこともできん。ここにおるのは、人間に運ばれてきたからじゃよ」
椅子は小鳥を座面に留まらせながら、己の経緯を聞かせた。
人間の都合により、元居たところから引っ越すことになったこと。
運ばれる途中に車が崖から森へ落ちたこと。
椅子も他の積み荷と共に、森の中に散乱してしまったこと。
「おじいちゃんがボロボロになっちゃったのはそのせいなの?」
「まあな。それで使用不能にはならんかったが、結構傷がついた。ここで雨風に晒されておったのもあるな」
木製の椅子はところどころニスが剥げて木材の内部が露出しており、表面が緑色に変色している個所もあった。
「人間はおじいちゃんを探しに来ないの?」
「…儂もしばらくは持ち主が探しに来るのを待っておった。今この時も儂が必要とされているかもしれない、このような人の住処から離れたところでも、必ず見つけに来てくれると。しかし」
椅子は言葉を切って、間を置いた。
「儂を見つけられなんだか、それとも探すのを諦めたか。結局儂は森の住人となって、今も此処におる」
椅子が佇む場所の付近には山道も小屋もなく、およそ人間のものらしい足音さえ聞かなかった。
小鳥はぱちぱちと瞬きをした後、椅子に向かってチュルルルと鳴いた。
「おじいちゃんのところに人間は来ないんだよね?それなら僕、これからもここに来ていい?」
「…駄目だとは言わんが、しょっちゅう来るのは危険だぞ。この近くで大きい獣が狩りをするのを見たことがある。お前さんも狙われるかもしれん」
「大丈夫だよ。僕だって危ないと思ったら来ないから」
自分で言ったとおり、小鳥はたまに空を飛んでやって来た。
その時は椅子に人間の話をせがんだり、自分が見つけた珍しいものを見てもらったりした。
「お前さんがわざわざ仲間のいないところまで来るのは、偏に旺盛な冒険心の賜物じゃな」
「僕新しいものを探すの大好き。そのおかげでおじいちゃんに会えたもんね」
ひじ掛けや背もたれの部分を忙しなく飛び回る小鳥と、朽ちかけた古い椅子を、僅かな木漏れ日が照らしていた。
小鳥がねぐらへ行ってしまうと太陽も山の向こうに沈んでいく。
草木や動物を闇が覆い尽くし、時折夜行性の動物の鳴き声や物音が、森の彼方此方から囁き声のように響いてきた。
突然、樹の上方で枝が折れる音がした。
枝の折れる音は上から下に移動し、続けて、地面あたりにドサッと重いものが落ちた音が木霊した。
椅子は音のした方を見渡した。
「あれは…」
叢の間に光を放つものがある。
辺りを照らしつける光のすぐ傍に、鹿ほどの大きさの布包みが横たわっていた。
やがて人間の息遣いと足音が聞こえてきた。
先程の光を目印にやってきたらしい。
大人の男性と思しき人間の手には細長く先の広い道具が握られている。
男は自分が投げた布包みとライトを前にして思った。
ーーーーあとはこいつを消せば。
死体さえ見つからなければ行方不明扱いに出来るはずだ。
男は持ってきたスコップを雑草の生える地面に突き刺し、最も重要な作業を始めた。
相当の労力を要してどうにか背丈ほどの深さの穴を掘ると、包みの中の死体を引っ張り出した。
死骸となり果てた女の顔は、生きていたらこんな締まらない表情はしないだろうと思うほど、力の抜けた悲しみの色を浮かべていた。
ーーーー化けて出るなよ。
男は脳内でつぶやきながら、女の死体を穴に入れ、掘った土を埋め戻した。
別に殺すつもりなどなかった。
全く物の弾みだったのだ。
女は上司である男にとって何かと鼻につく存在だった。
不相応なくらい仕事が出来、男に対しても臆することなく意見を述べる。
多忙な業務の合間にコソコソ何をしているのかと思えば、男の外部業者との癒着を調査していたのだ。
男と部下の女は言い争いになったが、男が強く詰め寄ったせいで、女が死んでしまったのは想定外だった。
これが表沙汰になれば自分の人生はおしまいだ。
身の破滅を恐れた男は事態を隠蔽することにした。
森林道から離れたところに、崖の上から死体とライトを投げ、ライトを頼りに落下地点を見つける。
死体を担いで森の中を彷徨う労力を省くためだ。
あとは死体を深く埋めてしまえば、およそ人の立ち入らないこの密林では発見されないだろう。
死体を包んだ布は何処かで焼却処分すればいい。
残るは自身のアリバイだが、愚鈍な妻には出張と言ってある。
全くあのくらいの愚図だったら死に急ぐこともなかっただろうに。
実に可愛げのない女だった。
死体を埋め終わった時、男は汗と泥まみれになっていた。
誰か来る気配もないし、少し休憩をとっても問題ないだろう。
背を預ける樹を探してライトをかざすと、明かりの中に予期せぬものが見えた。
「…椅子……?」
飾り気のない木製の椅子が草の中に佇立している。
人が来ない場所を選んだつもりだが、ここには誰か来ることもあるのか。
死体の埋め場所を変えようにも時間的・体力的に無理そうだ。
見た目から察するに随分放置されているらしい。
とはいえ、こんな道もない森の奥にくるのはどんな人間か、確認しておいた方が良さそうだ。
椅子を調べてみようと、男は椅子に近付いた。
「………!?」
男が思わず硬直した。
椅子の肘掛に絡みつく、細くて見えなかった革紐を見つめる。
男は正面の背もたれに顔を向けた。
横向きの木の背板を並べただけの簡素な背もたれには、普通の椅子には見慣れない照明のようなものが下がっている。
ーーこれは照明ではなく、電極だ。
「………!!」
男は後ずさった。
この椅子がどんな目的を持って作られたか理解したのだ。
ーー電気椅子。
電気椅子は高圧電流を用いた処刑用の道具だ。
よく見ると雑草に隠れた椅子の脚には、足首を固定する電極が手前に突き出ている。
男の胸中で疑念が渦を巻き始めた。
「どうして……」
なぜ電気椅子がここにあるのか。
一体誰が置いたのか。
渦巻く疑念は得体のしれないものへの恐怖心に変わっていく。
疲れていたことも忘れて、この不気味な椅子から離れようと一目散に走り出した。
突如男の正面から暴風が吹きつけたような衝撃があり、後方へ吹っ飛んだ。
後ろの椅子の肘掛けの間にそのまま収まり、強制的に座らされる形になった。
立ち上がろうとするより先に肘掛の革紐がくるくると腕に巻き付き、椅子に縛り付けた。
更に足元の電極が勝手に開いて男の足首を挟みこんだ。
「なっ……!何だ!一体!!」
何が自分に起きているというのか。
とにかくこの椅子からは逃れたくて、男は力一杯暴れた。
藻掻く男のすぐ背後で声がした。
「ーーーー刑を執行する」
老人の声だった。
頭上の電極が男の頭に下りてきたと同時に、焼けるような激痛が全身を襲った。
「っがっ……!!……!!!」
数秒の苦痛のあと、男の意識は無くなった。
それからしばしの間椅子の上でガタガタと男の体が動いていたが、やがて止まった。
力なく前のめりになった男の頭上からは煙が立ち上り、辺りにはわずかに肉の焼ける臭いが漂っていた。
周囲の樹々の間の暗闇から、数匹の狼が姿を現した。
椅子と距離を保ちながら、低い唸り声をあげ、こちらを窺うように睨んでいる。
「生焼けだが持っていくがいい」
椅子が呼びかけると、それが合図のようにぱっと飛びかかってきた。
狼達は亡骸となった男を椅子から引き倒して、数匹がかりで茂みの向こうへと引きずって行った。
狼たちの気配が無くなると、森に再び静寂が訪れた。
今や主の無くなった懐中電灯だけが暗闇に光を投げかけている。
「……お前の役割はここで終わりかの」
土の上に横たわる懐中電灯に向かって椅子は呼びかけた。
あらゆる道具は目的を持ってこの世に生み出される。
処刑用に製造された世界で一脚の椅子は、一度もその座面に犯罪者を座らせることなく打ち棄てられた。
森に息づく動物たちと昼夜を繰り返す森を眺めながら、煮え切らない思いをずっと燻ぶらせてきた。
自分を作った人間たちから必要とされたいわけではない。
古ぼけたこの身を新品同様に若返らせたくも、色々な土地に行ってまだ見ぬ景色を見たくもない。
生存本能すらあるかどうかも怪しいのだ。
罪人を葬る、ただそれだけが処刑道具たる儂の喜びだ。
人工物の自身の内を大蛇のようにうねる、人工ならざる力を感じながら、椅子はかつてない充足感に満ち溢れていることを自覚していた。
その日夜明け前から空はどんよりとした雲に覆われていた。
微風がさわさわと樹々を揺らす音を椅子がじっと聞いていると、小さな扇のような羽を羽ばたかせて、小鳥が再びやってきた。
「おじいちゃん、おはよう」
「おはよう。今日は随分と早いな」
「うん、いいこと思いついたんだ」
小鳥が胸を張ってチュルルと水笛のような鳴き声を立てた。
「元々おじいちゃんって、人間と一緒にいたんだよね。もっと人間がこの辺に来てくれたらいいと思わない?」
「人間がか?どうしてそう思うんだ?」
小鳥の考えはひどく無邪気で楽天的だった。
何らかの方法で小鳥が人間の注意を引き付けて、人間を森の中まで呼んで来ようというのだ。
「しかしこの見てくれじゃぞ。人間が見ても座りたいとは思わんじゃろう」
「でも、おじいちゃんもこのまま古くなるより、拾って貰って新しくなる方がいいでしょ?」
椅子は唸って考え込んだ。
「…確かにそういう、再利用が好きな人間もいると聞いたことがある。しかし発見されて即廃棄になる可能性が大きい以上、余計なことはせんでくれ。気持ちだけ有り難く頂いとくよ」
「ええーっ、いい考えだと思ったんだけどなあ」
男を処刑したあの夜から、椅子は考えた。
何故男は椅子のところまで死体を埋めにやってきたのか。
ーーこの辺りが人間が寄りつかないところだからだ。
人間は人目につかないところで悪事を働く。
椅子の居るところに罪人を呼び込むには、普段誰も立ち寄らない今のままの方が都合がよい。
たとえそれが空頼みであっても、枯れ木に花咲く位に起こり得ないことであっても。
己が使命を果たすにふさわしい次の人間が現れるまで、自分はこの打ち捨てられた薄暗い場所で待ち続ける。
「…儂は椅子じゃからな、動かずに待っているのが分相応なんじゃ」
「おじいちゃん、僕達人間の町ではどこに座ってると思う?」
「さあな。屋根の上とかか?」
「屋根もそうなんだけど、電線の上が一番便利なんだ。寒い時もあったかいからね」
「そうか。あれが何故人間の手の届かんところにあるか考えたことはあるか?」
「んー……。そういえば何でだろう?」
「それはな。人間はあの上に座ることは出来んからじゃよ」
小鳥は椅子の電極に停まりながら、チチチッと鳴き声を立てた。
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