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第一話
8.凄む狐と嗤う少年
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冷えた空気を存分に浴びてすっかり引いていた筈の汗が、身体中から一気に噴き出した。心臓がどくどくと早鐘を打つ。体温が急上昇して額が燃えるように熱い。
目を固く閉じ、身を竦ませること十数秒。一向に変化は訪れない。いや、少しだけ変わったことがあるとすれば、瞼を透過してくる光の量が減ったような気がした。
暴れ狂っていた心臓が落ち着いてきたころを見計らって、恐る恐る目を開けてみる。
「なんだこれ……」
愕然とした。
なんだこの状況は。そう叫びたくなるほどにありえない状況だった。
地面から空から、何から何まで黒一色の世界。頭上には燭台に乗った蝋燭が浮いており、それがぐるりと円を描くように配置されている。
蝋燭の灯火は闇を幾分か和らげてくれているが、中途半端な明るさが逆に不安を煽った。
半径二十メートルくらいの円の中心点には、白玲が薄ぼんやりとした輪郭を纏って立っていて、円の端に立つ彰たちを楽しげに見つめていた。
白玲はその顔に冷たい笑みを張り付かせ、瞳は獲物を狙う狐のようにぎらぎらとした光を放っている。
「ある程度以上の力をもつ妖怪は、狙った獲物を自分の作り出した空間に引きずり込むことが出来るのさ。ここから出るにはあいつを倒すか、力が薄い部分を探して破るしかない」
二宮はさっきまでの、どこか緊張感にかけた眠たげな目付きではなく、力強さを秘めた眼で白玲を見据えて言った。
「逃がしはせぬ。小僧よ、あれだけ生意気な口を利いたのだ。よもや命乞いなどはすまいな?」
「そんなものしないよ。自分より弱い相手に命乞いなんて、したくても出来ないだろ?」
口の端を軽く持ち上げて、不遜な言葉を返す二宮。その横顔には闘いに望む直前の者が持つ微かな高揚感と、水面下で張り詰めた戦意の一片が感じられた。
ぎりりと奥歯を噛み締め、白玲は視線の圧力を一層強めた。憤怒に染まった全身から膨れ上がる殺気が、目に見えない小さな針となって二人を突き刺す。
「……口の減らぬ餓鬼よの。口先だけで終わらぬよう、精々気張るがよい」
抑えた声で吐き捨てた直後、白玲の周りの空気が揺らめいた。火種も何も無い場所からバスケットボール大の炎が六つ生まれ、一列に並ぶ。
「池永、僕から離れて」
抑えた声音には微かに緊張が混じっていた。たとえ相手が自分より弱いといっても、油断は許されないのだろう。邪魔になりたくはないので、彰は蝋燭の円の外へと避難した。
白玲も凡人の彰など興味の外なのか、こちらには目もくれず、気の弱い者ならば射殺せそうなほどの視線を二宮に叩きつけている。二宮はそれを真っ向から受け止める。痺れるような緊迫感が場を包んでいた。
このまま睨み合いが続くのかと思った矢先、白玲の前でゆらゆらと揺れていた火の玉が、みるみるうちに形を変えていった。
ものの数秒で六つの火の玉は六匹の獣に変貌する。胴体に前足と顔が付いた、上半身だけの狐だった。まるで生きているかのように身じろぎし、鳴き声さえ上げている。
白玲が敵を指差すと、六匹の狐は甲高い声で一鳴きし、一斉に二宮に向かって飛び掛った。それぞれがバラバラの軌道を描き、重力を無視した動きで獲物を仕留めんと迫る。
だが、鋭い牙を二宮の身体に食い込ませる直前、風が鳴る音が聞こえたかと思うと狐たちは一匹残らず掻き消されてしまった。
とん、と二宮を守るように立ち塞がったのは見覚えのある二匹の動物。鎌鼬の与一と小次郎太。残る一匹、三男坊の勘九郎の姿は見えない。どうやら彼は戦闘には参加しないらしい。
舌打ちが聞こえた。先ほどの攻撃で手傷くらいは負わせられると考えていたのだろう。白玲は面白くないといった表情でさっと腕を一振りした。
すると今度は倍の数の火の玉が現れ、不完全な狐を形作る。一手目が様子見のためのものだとすれば、これは恐らく本腰を入れて二宮を仕留めるためのもの。
十二匹の狐に、二十四もの瞳に狙われる気分がどういうものかは分からないが、もし自分が二宮の立場だったなら、とても平静ではいられないと思う。
ましてやそれらが自分を目がけて一斉に飛び掛ってきたら、みっともなく取り乱して一目散に逃げ出すことは間違いない。
白玲の指先が二宮を捉えた。十二匹の赤き獣が標的を食いちぎるという命令のもとに放たれる。空中を縦横無尽に、滑るように飛び回るそれら全ての動きを把握することは、限りなく不可能に近い。
「与一、小次郎太」
しかし、二宮は動じなかった。
「蹴散らせ」
慌てず、騒がず、ただ一言のみを静かに紡ぐ。
「合点!」
「承知」
答えると同時、与一と小次郎太の姿が消えた。
そして彰が瞠目する一瞬の間に、薄闇の中を疾風が駆け巡る。二匹が主人の元へ戻るのと、十二の狐が形を失うのもまた同時であった。
「芸が無いね。数ばかり増やしたところで何の意味も無いよ。ま、でもこれで分かったろう? 君じゃ僕には掠り傷ひとつ付けられない」
「…………。おのれ、一度や二度防いだくらいでつけあがりおって……!」
話にならないとでも言いたげな態度を取る二宮に、白玲が声を荒げた。
腹立ちを表に出していても、あくまで沈着な態度や言動を取っていた白玲だったが、自分の思い通りに事が進まないせいか、焦れて落ち着きがなくなってきているようだ。
乱暴に腕を一薙ぎすると、またも十二の火の玉が現れた。火の玉は今までと違って一列に並ぶのではなく、白玲の周囲を漂っている。
ふらふらと動く炎同士が近づいたとき、二つの火の玉が合わさってほぼ二倍の大きさに膨らんだ。もはや火の玉などという頼りないものではなく、炎の塊と表わすのが相応しいほどの火勢である。六つの炎塊に照らされ、辺りの闇が薄れる。
炎の塊が地面に降りると、例のごとく形を変え、大型犬ほどの大きさの狐が生まれた。後ろ足も尻尾もある、毛の一本一本に至るまで忠実に再現された、完全な形の狐だ。炎で構成されているとは思えないほどリアルに出来ていて、確かな存在感を感じさせる。
「一息に殺してしまっては面白みがないと思うて手加減しておったが、やめだ。その生意気な口を二度と利けなくしてくれようぞ」
白玲の怒気に呼応するように、狐たちは二宮を威嚇し始める。歯を剥き出して低い唸り声を上げる狐たちを警戒して、与一と小次郎太が身構えた。
「そうかい? じゃあやってみるといいよ。出来るものなら、ね」
一触即発の空気の中に、二宮は挑戦的な言葉を投げかけた。
「ほざいたな!
怒声を合図に狐たちが高く飛び上がった。彰や二宮の頭上を越え、二匹を残して蝋燭の円の外へと出て行く。
蝋燭の明かりが届かないところは真っ暗闇である。狐たち自身が光源になる筈なのに、なぜか輪郭さえ見えない。何か不思議な力でも働いているのか、完全に闇に紛れてしまった。
時折、狐たちの通った後に火の粉が舞うので、四方に散って跳ね回りながらこちらを狙っているのが分かるのみだ。
事情を知らない人間の目には幻想的な光景に映るだろうが、当事者である彰にはそんなことを考える余裕はなかった。なにせいつ自分に飛び掛ってくるか分からないのだ。
動きが見えていれば何かしらの対処は出来るかもしれない。しかし、姿を捉えられないことにはいつ、どこから攻撃が来るかも予想できない。与一と小次郎太も闇に潜った狐たちの動きを追えないらしく、主人を守るように前後を固めて攻撃に備えていた。
白玲のそばで睨みを利かせている二匹に注意を向けていると、視界の隅で火の粉が舞い、己を狙うものの存在を知らしめる。一ヶ所に意識を集中させることを許さない厄介な布陣だ。
狐たちはなかなか仕掛けてはこなかった。全方位に神経を集中し続けるなどいつまでも出来ることではない。疲労で二宮たちの警戒が緩む瞬間を突く腹積もりのようだ。
危うさを孕んだ沈黙がひりひりと肌を焼く。限界まで引き絞られた弦のような、この上ない緊張感の中で、彰の精神力は少しずつ削られていった。
目を固く閉じ、身を竦ませること十数秒。一向に変化は訪れない。いや、少しだけ変わったことがあるとすれば、瞼を透過してくる光の量が減ったような気がした。
暴れ狂っていた心臓が落ち着いてきたころを見計らって、恐る恐る目を開けてみる。
「なんだこれ……」
愕然とした。
なんだこの状況は。そう叫びたくなるほどにありえない状況だった。
地面から空から、何から何まで黒一色の世界。頭上には燭台に乗った蝋燭が浮いており、それがぐるりと円を描くように配置されている。
蝋燭の灯火は闇を幾分か和らげてくれているが、中途半端な明るさが逆に不安を煽った。
半径二十メートルくらいの円の中心点には、白玲が薄ぼんやりとした輪郭を纏って立っていて、円の端に立つ彰たちを楽しげに見つめていた。
白玲はその顔に冷たい笑みを張り付かせ、瞳は獲物を狙う狐のようにぎらぎらとした光を放っている。
「ある程度以上の力をもつ妖怪は、狙った獲物を自分の作り出した空間に引きずり込むことが出来るのさ。ここから出るにはあいつを倒すか、力が薄い部分を探して破るしかない」
二宮はさっきまでの、どこか緊張感にかけた眠たげな目付きではなく、力強さを秘めた眼で白玲を見据えて言った。
「逃がしはせぬ。小僧よ、あれだけ生意気な口を利いたのだ。よもや命乞いなどはすまいな?」
「そんなものしないよ。自分より弱い相手に命乞いなんて、したくても出来ないだろ?」
口の端を軽く持ち上げて、不遜な言葉を返す二宮。その横顔には闘いに望む直前の者が持つ微かな高揚感と、水面下で張り詰めた戦意の一片が感じられた。
ぎりりと奥歯を噛み締め、白玲は視線の圧力を一層強めた。憤怒に染まった全身から膨れ上がる殺気が、目に見えない小さな針となって二人を突き刺す。
「……口の減らぬ餓鬼よの。口先だけで終わらぬよう、精々気張るがよい」
抑えた声で吐き捨てた直後、白玲の周りの空気が揺らめいた。火種も何も無い場所からバスケットボール大の炎が六つ生まれ、一列に並ぶ。
「池永、僕から離れて」
抑えた声音には微かに緊張が混じっていた。たとえ相手が自分より弱いといっても、油断は許されないのだろう。邪魔になりたくはないので、彰は蝋燭の円の外へと避難した。
白玲も凡人の彰など興味の外なのか、こちらには目もくれず、気の弱い者ならば射殺せそうなほどの視線を二宮に叩きつけている。二宮はそれを真っ向から受け止める。痺れるような緊迫感が場を包んでいた。
このまま睨み合いが続くのかと思った矢先、白玲の前でゆらゆらと揺れていた火の玉が、みるみるうちに形を変えていった。
ものの数秒で六つの火の玉は六匹の獣に変貌する。胴体に前足と顔が付いた、上半身だけの狐だった。まるで生きているかのように身じろぎし、鳴き声さえ上げている。
白玲が敵を指差すと、六匹の狐は甲高い声で一鳴きし、一斉に二宮に向かって飛び掛った。それぞれがバラバラの軌道を描き、重力を無視した動きで獲物を仕留めんと迫る。
だが、鋭い牙を二宮の身体に食い込ませる直前、風が鳴る音が聞こえたかと思うと狐たちは一匹残らず掻き消されてしまった。
とん、と二宮を守るように立ち塞がったのは見覚えのある二匹の動物。鎌鼬の与一と小次郎太。残る一匹、三男坊の勘九郎の姿は見えない。どうやら彼は戦闘には参加しないらしい。
舌打ちが聞こえた。先ほどの攻撃で手傷くらいは負わせられると考えていたのだろう。白玲は面白くないといった表情でさっと腕を一振りした。
すると今度は倍の数の火の玉が現れ、不完全な狐を形作る。一手目が様子見のためのものだとすれば、これは恐らく本腰を入れて二宮を仕留めるためのもの。
十二匹の狐に、二十四もの瞳に狙われる気分がどういうものかは分からないが、もし自分が二宮の立場だったなら、とても平静ではいられないと思う。
ましてやそれらが自分を目がけて一斉に飛び掛ってきたら、みっともなく取り乱して一目散に逃げ出すことは間違いない。
白玲の指先が二宮を捉えた。十二匹の赤き獣が標的を食いちぎるという命令のもとに放たれる。空中を縦横無尽に、滑るように飛び回るそれら全ての動きを把握することは、限りなく不可能に近い。
「与一、小次郎太」
しかし、二宮は動じなかった。
「蹴散らせ」
慌てず、騒がず、ただ一言のみを静かに紡ぐ。
「合点!」
「承知」
答えると同時、与一と小次郎太の姿が消えた。
そして彰が瞠目する一瞬の間に、薄闇の中を疾風が駆け巡る。二匹が主人の元へ戻るのと、十二の狐が形を失うのもまた同時であった。
「芸が無いね。数ばかり増やしたところで何の意味も無いよ。ま、でもこれで分かったろう? 君じゃ僕には掠り傷ひとつ付けられない」
「…………。おのれ、一度や二度防いだくらいでつけあがりおって……!」
話にならないとでも言いたげな態度を取る二宮に、白玲が声を荒げた。
腹立ちを表に出していても、あくまで沈着な態度や言動を取っていた白玲だったが、自分の思い通りに事が進まないせいか、焦れて落ち着きがなくなってきているようだ。
乱暴に腕を一薙ぎすると、またも十二の火の玉が現れた。火の玉は今までと違って一列に並ぶのではなく、白玲の周囲を漂っている。
ふらふらと動く炎同士が近づいたとき、二つの火の玉が合わさってほぼ二倍の大きさに膨らんだ。もはや火の玉などという頼りないものではなく、炎の塊と表わすのが相応しいほどの火勢である。六つの炎塊に照らされ、辺りの闇が薄れる。
炎の塊が地面に降りると、例のごとく形を変え、大型犬ほどの大きさの狐が生まれた。後ろ足も尻尾もある、毛の一本一本に至るまで忠実に再現された、完全な形の狐だ。炎で構成されているとは思えないほどリアルに出来ていて、確かな存在感を感じさせる。
「一息に殺してしまっては面白みがないと思うて手加減しておったが、やめだ。その生意気な口を二度と利けなくしてくれようぞ」
白玲の怒気に呼応するように、狐たちは二宮を威嚇し始める。歯を剥き出して低い唸り声を上げる狐たちを警戒して、与一と小次郎太が身構えた。
「そうかい? じゃあやってみるといいよ。出来るものなら、ね」
一触即発の空気の中に、二宮は挑戦的な言葉を投げかけた。
「ほざいたな!
怒声を合図に狐たちが高く飛び上がった。彰や二宮の頭上を越え、二匹を残して蝋燭の円の外へと出て行く。
蝋燭の明かりが届かないところは真っ暗闇である。狐たち自身が光源になる筈なのに、なぜか輪郭さえ見えない。何か不思議な力でも働いているのか、完全に闇に紛れてしまった。
時折、狐たちの通った後に火の粉が舞うので、四方に散って跳ね回りながらこちらを狙っているのが分かるのみだ。
事情を知らない人間の目には幻想的な光景に映るだろうが、当事者である彰にはそんなことを考える余裕はなかった。なにせいつ自分に飛び掛ってくるか分からないのだ。
動きが見えていれば何かしらの対処は出来るかもしれない。しかし、姿を捉えられないことにはいつ、どこから攻撃が来るかも予想できない。与一と小次郎太も闇に潜った狐たちの動きを追えないらしく、主人を守るように前後を固めて攻撃に備えていた。
白玲のそばで睨みを利かせている二匹に注意を向けていると、視界の隅で火の粉が舞い、己を狙うものの存在を知らしめる。一ヶ所に意識を集中させることを許さない厄介な布陣だ。
狐たちはなかなか仕掛けてはこなかった。全方位に神経を集中し続けるなどいつまでも出来ることではない。疲労で二宮たちの警戒が緩む瞬間を突く腹積もりのようだ。
危うさを孕んだ沈黙がひりひりと肌を焼く。限界まで引き絞られた弦のような、この上ない緊張感の中で、彰の精神力は少しずつ削られていった。
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