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2.詩依良の表裏

一之宮詩依良の一計

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 ―――ガラッ。

 沙耶が暗い想像に焦りを感じ出したその時、彼女の後ろにある扉が開かれる音が響き渡り、一歩……教室内に足を踏み入れる音が……気配がした。

「皆さん、おはようございます」

 沙耶に突き刺さっていた視線の全てが、彼女の後方に向けられる。明らかに沙耶の時とは違う視線だった。
 それは安堵、憧憬、羨望、喜び、嬉々、満足と言ったもので、彼女が登校して来た事を皆一様に喜び、ホッと胸を撫で下ろし、今日も彼女と共に過ごせる事を嬉しく感じているものだった。

 そして、ホッとしているのは沙耶も同様であった。

 ただし彼女の場合は、自分に向けられていた視線が全て詩依良へ向いてくれた事に対しての安堵だった。
 彼女の挨拶に、教室中の生徒がそれぞれに挨拶を返して行く。その言葉を全て聞き届けてから、詩依良は滑る様に床を歩き自分の席へと向かった。
 その後ろ姿を、沙耶は他の生徒と同様に、しかし他の生徒とは異なる視線で見届けていた。

 今朝の彼女は、昨日特別棟屋上で見せた一之宮詩依良の変貌ぶりが嘘の様に感じる雰囲気だった。
 それ程に今の詩依良は、昨日教室を出るまでの……いや屋上に達するまでの一之宮詩依良そのままであり、沙耶が憧れた彼女そのものだったのだ。
 詩依良には色々と聞かなければならない事がある沙耶だったが、その事とは別の疑問に心を占められており、即座に行動を取る事が出来ずにいた。
 自分の席へ優雅と言える仕草で着席する彼女が、本当に同一人物なのかここへ来て分からなくなりつつあったのだった。

「おはよう! 一之宮さん!」

 着席間もない詩依良に早速近づき声を掛けたのは木下グループリーダー、木下真綾だった。当然、両脇にお供の吉居美幸と石本佳奈を従えている。
 因みにそう見えるのは沙耶の主観であり、彼女達に上下関係は無いようなのだが。ただ、いつも先陣を切るのが真綾だったので、自然と見る目がそうなっているだけだったのだ。
 今日も詩依良に先陣切って声を掛けるのは、自らの考えなのか周囲からの誘導なのか真綾の役目だった。
 彼女に続いて、吉居美幸と石本佳奈も一之宮詩依良に挨拶をする。

「おはようございます。木下さん、吉居さん、石本さん」

 そう言って詩依良は席から立ち上がり、浅く腰を折り、美しい動作で挨拶を返した。
 ただ挨拶を返されただけにも拘らず、木下グループは自分達に向けられた彼女の声と視線に照れている。
 しかし昨日の様に、いつまでもそこから進まないという事は無かった。流石に2日目ともなれば、彼女の呪縛に対する耐性も上がっていたのだろう。

「い、一之宮さん。昨日は……大丈夫だった?」

 頬を赤らめながらも、真綾は心配そうに尋ねた。
 昨日の事とは当然、沙耶と帰った事を指している。
 木下グループを始め教室の生徒は皆、武藤沙耶と帰った事で何か良くない事が無かったのかと詩依良の身を案じていたのだ。

「大丈夫とは……何がでしょうか?」

 しかし詩依良はキョトンとした顔を作り、小首をかしげて真綾の質問に質問で返した。
 この時彼女が作り出した表情にも強力な破壊力があり、真綾の意識を僅かばかり失わせてしまう程だった。
 詩依良の、真綾が言った言葉の意味が良く分からないと言いたげな純真無垢な表情を向けられては、真綾が言おうとした次の言葉が出し難くなる。
 それは昨日同様、沙耶を誹謗していると取られても仕方のない言葉だからだ。

「いえ……あの……ほら、昨日は……む、武藤さんと一緒に帰ったから……その……」

 真綾の逡巡は言葉と表情に表れて言い淀み、最後の方はゴニョゴニョと聞き取れない程だった。
 そんな彼女の心境にも気付かないと言う様に、詩依良は溜息でも付きそうながっかりした顔をして呟いた。

「ああ、その事ですか。……それが……昨日は少し話してすぐに別れたんですよ? ……ね?」

 そう言って彼女は、沙耶に同意を求める視線を送った。
 いきなり話を振られた沙耶に、クラス中の視線が集中する。

「う……うん……」

 そんな中ではそう首肯するしか、沙耶に選択肢は無かった。
 沙耶がうなずいた途端に、安堵の溜息がクラス中のそこかしこから漏れ出た。

「それがね……」

 詩依良はその間隙を突くかのようにそのまま話を続け、再び彼女に視線が集まった。
 いつの間にか、沙耶に対する雰囲気は随分と柔らかいものとなっている。と言うよりも、詩依良の聞き手を誘導するかのようなテンポに、クラス中が翻弄されているかのようだ。

「昨日彼女から聞いたのですが……彼女が持っていたと言う不思議な力……霊を見たり感じたりする力は、もうずっと前に無くなっていたんですって」

 そして詩依良の、聞く者の心にまで染み込むような声音を以て昨日の顛末が語られた。
 これには、クラス中が驚いた。クラスの誰も、そんな情報は仕入れておらず、噂にも上っていなかったからだ。
 もっともそれも当然の事で、誰も沙耶と接触を持った事が無く会話すらしていないのだから、そんな情報が新たに誕生する訳も無かった。

 そして、詩依良の発言には沙耶も驚いていた。

 そんな話は、彼女にも初耳だったのだ。
 実際、今朝の通学途中にも「何人」か見かけたし、今も教室の隅に女の子の霊がうずくまっているのを視る事が出来たからだ。

「えっ! そうなの!?」

 そして、驚いたのは木下グループも当然同じだ。真綾は、詩依良と沙耶を交互に見比べて真偽を探っている。
 詩依良はとても残念と言った様な顔をしており、沙耶はオロオロとしているだけでその心情が読み取れない。

「だから昨日も、特に何もなかったの。力を無くしたと言う話ですし、それも仕方ない事ですよね?」

 そう言って、詩依良は真綾を見つめて微笑んだ。
 彼女にこの笑顔で同意を求められては、真綾の口にする事が出来る言葉は一種類だけだった。

「う、うん……。そう……かもねぇ……ね?」

 真綾は、左右に控える吉居美幸と石本佳奈に同意を求める。
 殆ど条件反射で左右に視線を送ったので、慌てた彼女達も同意を返すしか出来なかった。

「はぁ……。不思議な事って、そう簡単に体験出来ないものなのですねぇ……」

 詩依良は頬に手を当てて、溜息交じりに呟いた。
 この場合、真綾たちが認めたと言う事は、クラス全員が納得したと言う事にも繋がって行く。
 安堵の空気に包まれたクラスには笑いが起こり、雰囲気は更に柔らかいものへと塗り替えられていった。

「それで……お話と言うのはそれだけでしょうか?」

 そして更にタイミング良く、詩依良は真綾へと話を振った。

「えっ!? う……うん……。あっ、そうだ……」

 絶妙とも言える話題転換に、自然と昨日の事は皆の頭から薄れていったのだった。


 いずれはこの事が学校中に拡散して行き、噂自体がデマだったという事になって行くのかもしれない。
 そしてそれを、『一之宮詩依良』が成したのだ。
 少なくとも彼女が影響力を持つ今なら、そうなって行くのは間違いない。その事を、沙耶は漸く気付いた。
 詩依良が沙耶は無害であり、今流れている噂は噂でしかなかったとそう彼女の口から告げ、自身がそれを実証する事で信憑性を高めたのだ。
 これで彼女が言った様に、沙耶に対する風当たりがこれ以上酷くなる事は無いだろう。『一之宮詩依良』というキャラを見事に活かした対策法だった。
 更には沙耶の「陰の気」を助長させる黒蝶も今はもう居ない。

(ひょっとして……一之宮さんはこの事まで考えてたのかな?)

 沙耶はそう思わずにはいられなかった。
 もしそうなら沙耶を協力者として選んだのは、あらゆる事を考えた結果と言う事になる。

 ―――沙耶の現在置かれている立場……。

 ―――それによる秘密が拡散するリスクの低さ……。

 ―――彼女の悩みを改善させる手段……。

 詩依良がこれから行う事に対して協力を依頼する人物として、沙耶ほど打って付けの人物はいなかったのだ。
 そして沙耶には他に取れる選択肢が少なかったとはいえ、詩依良の提案は現在の彼女に刺激を与える切っ掛けに他ならなかった。
 だからもし詩依良が自分を利用しようと考えていたとしても、それについて何も思う事はなかったのだった。
 ただ純粋に、そこまで考える事の出来る詩依良と言う人物に、感嘆せずにはおれないと言うだけだ。




「そ、それでね、一之宮さん。き、今日のお昼なんだけど……」

 真綾は、モジモジしながら彼女にお昼の予定を切り出した。彼女にとってはもしかしたら、この話題こそが本命だったのかもしれない。

「ごめんなさい……。お昼は職員室に行かなければならなくて……」

 しかし申し訳なさそうに詩依良は断った。

「えぇ……」

 これには真綾とその仲間達だけでは無く、クラス全体から失望の溜息が漏れた。真綾の提案に、クラス中がちゃっかり便乗しようと考えていた様だったのだ。
 殆ど全員がガックリと肩を落としているその様子は、ある意味で壮観でもあった。
 その時、沙耶と詩依良の目線が合った。

 ―――何故だか……。

 詩依良が沙耶に伝えたいメッセージが、彼女には理解出来たのだった。

(今日の昼休み、特別棟屋上で)

 アイコンタクトでは無い。沙耶の脳裏には、間違いなくこのメッセージが浮かんでいたのだ。
 そしてそれは勘違いではないと言う事が、理由も無く理解出来たのだった。
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