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2.詩依良の表裏

あなた、一体だれ!?

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「……え?」

 そう呟いて沙耶は身動ぎ一つ出来なくなった。彼女には、一体何が起こったのか正確に理解出来なかったのだ。
 目の前で起こった事象は、彼女の思考と行動を完全にフリーズさせるだけの威力があった。

「まったく……猫を被るってのも楽じゃねぇな。どうにも性に合わねぇ……」

 詩依良は首に右手を当てて左右に傾けると、その首からコキコキと音を鳴らした。

「……え?」

 沙耶の目と耳に新たに齎された情報は状況を改善するものでは無く、むしろ混乱を増大させる事となった。
 結果、再びポツリと呟きが漏れるだけで、再起動するまでには至らなかったのだった。

「しかしどこの学校に行っても同じ反応で面白味がねぇな。ま、俺がそう振る舞ってるんだから仕方ないんだけどな。……そっちの方が何かと都合が良いし」

 恐らくは一之宮詩依良と思しき人物が、ふぅーっと溜息交じりに頭を掻きながら呟いた。
 そんな彼女の言葉で、沙耶の意識も徐々に稼働していった。

 少なくとも沙耶の瞳に映りこむ目の前の女性は、彼女がさっきまで一緒に居た一之宮詩依良と同じ容姿、服装をしている。だから沙耶も、彼女が同一人物だと認識した。
 だが、理性的にそう考えても感情の部分がそれを否定し、決して認めようとしなかった。
 それ程いま目の前に居る、恐らくは一之宮詩依良と思われる女性から、沙耶が知る「一之宮詩依良」を感じさせる雰囲気がまるで無かったのだ。

 沙耶の見た所、目の前の女性は言葉遣いから行動から全てが下品で粗野だった。
 目の前で目を丸くし口を半開きのまま動かない沙耶を尻目に、一之宮詩依良と思われる女性は首元のリボンを緩めながら手摺の方へと歩いて行く。
 自分の眼前を横切る彼女を、沙耶は視線で追う事しか出来ないでいる。
 そんな彼女には気にも留めずに、一之宮詩依良は手摺に手を掛け、気持ち良さそうに風を受けていた。

「しっかし、屋上が人気の少ない場所だってのは有難いよな。大抵は陰気な場所が多かったからなぁ……」

 どんな時でも、学校で人気が少ない場所と言うのは当然陰気な場所になる。
 定番としては校舎や体育館の裏、運動部の部室裏などもあるが、どこも普通に学校生活を送っていれば関係者や用事のある者以外は行く事など殆ど無い場所だ。だからこそ、如何わしい連中の溜まり場として使用されるのだが。
 屋上と言う比較的生徒から人気のありそうなスポットだが、解放されている学校自体が珍しいのだ。その様な場所は、やはり人目を盗んで溜まり場にする者も多く、陰気な場所となりやすいと言える。

「おい。いつまで固まってんだよ?」

 未だに動く気配を見せず、詩依良の話にも何の反応も示さない沙耶に、屋上に吹く心地よい風を受けながら彼女は少し苛立った様な声を掛けた。

「……は……はい?」

 その声に漸く反応を示した沙耶の声は、裏返った間抜けなものとなっていた。
 しかし彼女の言葉に反応した結果、漸く沙耶は彼女と会話出来る思考を取り戻しつつあった。
 焦点が合っていなかった目を改めて詩依良に向けると、彼女からは呆れた様な、蔑む様な視線が向けられている。
 そんな表情も、詩依良がこの学校に来てから沙耶が初めて見るものだった。

「お前な、いい加減現実を直視しろよ」

 ヤレヤレといった感じで、溜息交じりに彼女は呟いた。

(現……実? ……現実? ……現実って……なんだっけ?)

 彼女の言う現実。
 沙耶の知る現実。
 いや、沙耶がこうあって欲しいと思う現実。
 頭の中で一生懸命に答えを探す沙耶だが、しかし明確な画像となって彼女に認識されなかった。
 そしてそれは、沙耶の表情となって表れた。
 彼女の面持ちには落ち着きが無く、視線もあちこちに泳いでいる動揺さえ失っていた。

「お前の目の前に居るのは、間違いなく今日転校して来た一之宮詩依良。教室の俺も、今の俺も同一人物だよ」

 そう言うと詩依良は、ニヤリと笑いながら親指で自分を指した。

「……同一……人物……?」

 沙耶の頭の中では、彼女の言う同一人物と言う言葉の意味を必死で探し出す作業が行われていた。
 しかし、どう考えても同じ人物像に当て嵌まらず、混乱に拍車が掛かるだけであった。

 一向に〝同一人物〟としての詩依良を見出せなかった沙耶が次に行った作業は、彼女がどうしてこうも違う人間に変貌したのかと言う事だった。

(……ひょっとして……二重人格!? この屋上に来た事で、もう一人の人格が目覚めたとか!? ……いえ、いっそ多重人格かもしれない。今の彼女はどう見ても男の子みたいだもん。……それとも……何か得体の知れない魔物に憑依されていて、目の前の彼女はその乗り移った魔物が現れ出ているのかもしれないわ! きっと本来の人格は抑え込まれて苦しんでいるのよ! ……あっ……ひょっとして……双子……とか!? 性格の違う双子が入れ替わるって話、マンガとかでよく見るし!)

 沙耶の中では定番と言うべきあらゆる妄想が、次々と浮かんでは流れて行った。

「……おい」

 更に自分を納得させる事が出来るシチュエーションを模索していた沙耶に、詩依良の冷めた声が投げ掛けられた。
 完全に自分の世界へと没頭していた沙耶は、その言葉にビクッと身を震わせて我に返った。

「言っとくけどな。俺は二重人格でも多重人格でもねぇ。更に言えば、何か得体の知れないものに取り憑かれてもいないし、ましてや双子でもないからな」

 つい先ほどまで沙耶が妄想していた事、その内容を殆どズバリと言い当てられ、沙耶は呆然として詩依良を見つめた。

(な、何で……考えてた事……分かったんだろ?)

 沙耶にしてみれば、まるで読心術を目の前で披露されたような気分だった。

「お前の考えなんて、だいたい分かるんだよ」

 そう言って、詩依良はニヤリと笑った。
 まるで自分の考えが程度の低いものだと言われている様で、沙耶は顔を赤くして縮こまってしまったのだった。

「さっきも言ったけど、今の俺も教室の俺も、どっちも本当の俺だよ。容姿がこれだからな。の方が周囲のウケも良いし、転校生としても受け入れられ易いんだ。何かと都合の良い事も多いしな」

 本当は嫌でしょうがないと言った様に、ウンザリとした表情で詩依良は言い捨てた。
 沙耶の目から見ても、確かにこちらの方が表情は豊かだし、自然に感じる部分が多かった。

 しかし、未だにその事実を受け入れられない沙耶が居た。
 それ程に先程までの一之宮詩依良は淑女然としており、万人が憧れる女性像だったのだ。
 それに今の一之宮詩依良は、どちらかと言うと……不良とかスケ番のそれだ。
 今まで人付き合いがなかった沙耶には、とのコンタクトは更に稀有であり、彼女の方も出来れば関わりたくないと思っていた人種でもある。
 自然、今の現実を否定したい部分が顔にも表れている。
 と、シュッと緩めていたリボンを締め直して、詩依良が沙耶に近づいた。

「貴女も……此方の方が良かったかしら?」

 そして小首を傾げて、ニッコリと微笑みながら沙耶に話しかける。
 沙耶の目の前には先程まで穏やかに、和やかに会話をしていた一之宮詩依良が出現したのだ。

「……あっ……」

 求め探していた者を漸く見つけた様に、沙耶は無意識の内に手を伸ばして近寄ろうとしていた。
 沙耶の思考には、先ほどまでの事が彼女の夢だったんだと上書きされそうになっていたのだが。

「ああ……ダメだ! やっぱこっちは耐えられねぇ。やってられっかよ」

 しかし、それは実行される事が無かった。
 即座に現れた暗黒面の一之宮詩依良が、それを許さなかったのだ。
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