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1.青嵐の少女

時を止めた少女

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「せ、席に着いて下さ―――いっ!」

 小早川由美が教壇に立って、すでに2分以上経っているものの、生徒達の着席率は未だに80パーセント程度に留まり遅々として進んでいなかった。
 残念ながら、彼女には全く以て教師としての威厳が皆無である。
 だが、それには幾つかの明確な理由があった。

 まずは何と言っても、その容姿。
 今年で25歳になるというのに、どう見ても10代後半、下手をすると高校生に見えなくも無い程の童顔っぷりなのだ。
 それに加えて、メガネっ娘と言う装備まで身に付けている。
 発する声も舌っ足らずな所があり、生徒達からは良く言えばフレンドリーに接せられ、悪く言えば舐められているのが現状であった。
 また、小柄の割にスタイルが良いと言うおまけまで付いている為、特に男子生徒からは良く言えばフレンドリーに、悪く言えば馴れ馴れしく接せられているのだ。
 これでは、彼女の努力でどうにかしようとするには難易度が高過ぎると言うものである。
 更に彼女の性格からそう言った生徒達の態度を改める様に強く言えない為、一向に改善される兆しは見えないのだった。

「もう―――っ! 早く―――っ! 着席しなさ―――いっ!」

 彼女の奮闘は続き、そして漸くその苦労が報われ全ての生徒が着席した。
 それは小早川由美が教壇に立って、実に8分以上経過しての後だった。
 短いホームルームの時間、1限目開始まで更に時間が無くなった彼女は少し焦りの色をその可愛らしい顔に浮かべていた。
 まだ出欠確認すら終えていない上に、先に済ませなければならない連絡事項が彼女にはあったのだ。
 頻繁にホームルームを長引かせる彼女は、1限目の授業を受け持つ教師に度々小言を言われていたのだった。

(私って、教師に向いてないのかしら……)

 トホホ……と呟きでもしそうな表情に涙を浮かべ、彼女は小さな撫肩を更に落として脱力していた。
 しかしそれも残念ながらいつもの事であり、由美の立ち直りスキルも相当に鍛えられている。
 彼女は自身の体格と比較して明らかに大きな胸を張り、コホンッと一つ咳払いをして仕切り直し生徒達に向かい声を張った。

「ほ、本日は、皆さんにお知らせがありまぁす」

 そもそも語尾を伸ばす癖から直さないと威厳など得られようも無いのだが、その事に由美自身は気付いておらず、またそれが妙に似合っており誰も注意する者が居ないのも彼女にとっては忌々しき問題である。

「えぇっと……。今日からこのクラスにぃ、転校生が編入されまぁす」

 彼女がやや緊張気味に告げたのは、には非常に珍しい転校生の話だったからだ。
 教室中が当然の如く騒めきだし、ほぼ全ての生徒が隣や後ろの友人知人クラスメートと話し出した。

 ―――ただ一人を除いて……。

 そのただ一人である「武藤むとう沙耶さや」にとって、転校生などどうでも良い事だった。

 クラスに一人生徒が増える……それは当たり前の事だが、彼女にすればそれ以上でも以下でもない。
 彼女にとって転校生が男性か女性か、可愛いのかそうでないのか、格好良いのか悪いのか、性格は外向的か内向的か、そして友好的か好戦的か、その他諸々の情報に意味は無いものだったのだ。
 勿論彼女とて、全く興味が無いと言う訳では無い。
 この学校「私立真砂角高等学校」に転校生が来る事自体、非常に珍しい事なのだ。
 珍事を全く無関心で通せる程、沙耶も世間から意識を逸らしている訳では無かった。

 この私立真砂角高等学校は、それがどういった経緯であれ、途中編入するのが非常に難しい事で有名であった。
 だが、だからと言って特別偏差値の高い高校という訳では無い。
 この学校は進学校として成立しているので、一流の進学校と言っても過言でないのは確かである。
 しかし、超一流と言う訳でも無い。
 学力だけで言えば、そこそこ優秀な生徒ならばボーダーラインの確保は容易であろう。
 授業内容にしても、到底レベルが高過ぎて脱落者が続出すると言う程でも無かった。

 では編入に当たり、財力やコネ等のが必要なのかと言うとそうでも無い。
 この学校に在籍する生徒が比較的裕福な家庭の者である事は確かだが、それも全校生徒の5割程度でしかなかった。
 残り半分の内、大半は一般的な家庭の生徒であり、特に裕福と言える家庭とは言い難い。
 そして残りの生徒は皆、所謂貧しい家庭環境で暮らす生徒だった。
 そして彼等は正式に受験して入学して来たか、もしくは〝もう一つの方法〟で入学を許された、いわば生徒なのである。

 一般受験ではない方法で入学を許された生徒達は、この学校より「特別特待生制度」を提案されて入学……つまり学校から乞われて来た者達だった。
 事実、武藤沙耶もそうした制度の恩恵を受けて受験し、入学した過程を持っていた。
 その選考基準は謎に包まれており、ある程度の学力は当然必要なのだが、誰しもが申し込んで受け入れられるものではない事だけが分かっている。
 また、どれほど地位や名誉のある出自の者だろうとも、どれだけの富豪であっても入学を認められない者もいるのだ。
 少なくない良家の申し込みが一蹴されている事実はすでに広く知れ渡っており、お金やコネではないという証明がされていたのだった。
 そんな幾つかの不可思議な事柄があって、いつからか生徒間で囁かれる様になったある噂があった。それは……。

 この学校はある特殊機関に属し、特別な能力を有している生徒を優先的に入学させている。

 と言う、中高生の如何にも喜びそうなものだった。
 ただこの噂が立った理由も、前述の理由が起因しているだけでは無かったのだが。

 この学校を卒業する約3割の生徒は、親元の事業を引き継ぐ目的でその会社に就職したり、関連するスキルを向上させる為に専門知識を専攻した大学や職業専門学校に進学する。
 進学校にも拘らず、それでも卒業後に就職を見据えている生徒が入学するのは、この学校の卒業生がいる会社には大なり小なり公共事業を紹介されたり融資が受けやすいと言った優遇処置が施されている……と言う〝噂〟が途切れることなく囁かれているからである。
 実際に恩恵を受けているらしい会社の関係者がその事について口を開く事は無く、その真偽が定かであるかどうかを検証する術はない。
 だからこそ、余計にその恩恵を切望する人々には願っても無い事であるのだ。
 そうして無事入学を果たした子息女は、卒業後に就職なり専門学校へ進むのである。

 そして5割の学生は、普通大学へ進学する。
 進学校なので特に理由がない生徒は進学し、無事大学を卒業する生徒の殆どが公務員や官僚などの国家公務員に就職する。
 それも、特に本人が辞退しなければ殆ど……である。
 これらの事実だけを見ても、この噂が装飾されているとは言え、あながち外れていないのではと思わせるに十分な事実だった。
 そしてそれこそが、この学校の持つステータスである〝卒業した者には安定したエリート人生が約束されている〟に由来するのだった。
 そして、残りの2割と言うのが……。

 、消息不明になってしまう……と言うものだった。

 家族と言えども、その行方が掴めない。生きているのか、死んでいるのかさえ分からない状態になると言うのだ。
 2割と言うのは少ない人数では無いが、消息不明になる時期は全員バラバラで、必ずしもこの学校が関与しているとは言い難い。
 だが異常に高い進学率、その後の安定した国務機関への就職、そして……やはり異常に高い卒業生の消息不明率。
 とても〝普通〟とは言い難いこれらの背景がこの噂に真実味を色付け、まことしやかに囁かれる理由となっているのだ。

 とにかく、噂は別にするとして。

 この学校が、入学しようとしてそれが簡単に出来る学校では無いのは確かな事だった。
 そんな学校に転校生、しかもこのクラスに編入されると言うのだ。クラス中が騒然としても仕方のない事だった。
 そして、恐らく数時間後には学校中が同じ様に騒然としているだろう事も容易に想像出来る話であった。

 暫くの後、自然とクラス中の視線が壇上の小早川由美に、そして教室前方の扉に注がれていた。
 恐らくそこから現れるであろう、未だ姿の見えない転校生に。
 クラス中が期待の視線を向ける中、それとは違う思惑を抱いている生徒が約1名。

 ―――武藤沙耶である。


「……ふぅ……」

 期待でも不安でもない、他のクラスメートとは一風変わった雰囲気で、ただ新しいクラスメートの登場を溜息交じりに待っていた。
 クラスメート……と言っても彼女にとってその言葉は、ただ教室を同じにする生徒と言う意味を指す。
 決して、級友だとか仲間だとかを指す言葉では無い。
 しかしひょっとすれば、相手は沙耶と友達になろうと考え彼女に接して来るかも知れない。
 転校直後と言うのは誰でも心細いものであり、兎に角親しい級友を作ろうと考えている者も少なくはないのだ。

 ―――だがそれも、最初だけだと言う事を彼女は知っていた……。

 今、武藤沙耶が置かれている状況とそうなってしまった背景を知れば、いずれは誰だろうと近付いて来なくなる。
 そしてその後には、誰も彼もが彼女に嫌悪、恐怖、侮蔑の視線を向ける事になる。
 過去9年間、彼女にとってはその繰り返しだった。

 大よそ社会と言うものは、長い物に巻かれると言うのが正しい処世術である。
 しかもそれが、学校生活を問題なく過ごしたいと言うのであれば、かなり重要となるのは想像に難くないだろう。
 例えば、誰もが一目置く様な存在であり、誰の目も気にせず我が道を行くと言う様な人物ならば話は別である。
 そう言った人物は、むしろ孤独な方が益々憧憬の眼差しを向けられるものなのだ。
 しかし大多数の一般生徒にとって、周囲と歩調を合わせる事は必須である。
 皆が右を見れば、そちらを見なければならない。
 少し調子に乗ったり、冗談で左や上、下を向こうものなら、あっという間に弾かれる。
 下手をすると、イジメのターゲットになってしまうかも知れないのだ。
 誰も、自ら好んでそんな立ち位置に志願する者は居ないだろう。
 今日から同じ教室で過ごす転校生も、数時間後には見事に巻かれている筈だ。
 つまり、沙耶とは本当の意味で〝クラスメート〟になる事は無いのだ。





 未だ騒めく生徒達を鎮める事に見切りをつけた由美は、開いている扉に向かい歩き出した。

「さぁ、入って来てぇ」

 そして、廊下で待たせていた転校生に声を掛けたのだった。
 そのまま彼女はクルリと踵を返し、再び教壇に向かう。
 その僅かな後、扉を潜り入って来た転校生がそれに続いた。

 ―――その瞬間、教室中の空気が凝固する。

 一瞬で、静けさが教室を支配したのだ。
 、転校生を見た生徒達の時間は静止した。……いや、させられたのだ。

 ―――今まで見た事も無い程の、美し過ぎる彼女の出現によって。

 生徒達全員の時間を奪った少女は唯一人、何者の静止も受ける事無く、そして何も起こっていないかの様に歩を進め、教壇に立つ由美の隣までやって来た。
 そして、クルッと居並ぶ生徒達に向き直った。

 フワリッ……と、ひざ丈のスカートが、そして長く美しい黒髪が舞う。
 正面を向いた彼女は、非の打ち所がない完璧な美少女だった。
 まるで漫画かアニメから飛び出して来たと思う程小さな顔立ちに、細過ぎず太過ぎない絶妙のラインを形成している輪郭。
 潤んだ小さな唇、スッと筋の通った美しい鼻、細く綺麗な眉。
 そして、切れ長で鋭さすら感じさせる目に湛える、宝石のような瞳。
 腰よりも長い漆黒の髪は、窓から射し込む五月の少し強い日差しを浴びてキラキラと煌めいていた。
 長袖ブラウスより覗く、美しい所作で鞄を持つ綺麗に揃えられた小さな手の肌は抜ける様に白く美しい。
 まるでお手本ででもあるかのように、スカートからスラリと伸びつま先までピッタリと揃えられた長い美脚。
 彼女を構成する全てが、見る者を惹き付けて離さない威力を持っていた。

 沙耶は、彼女から目が離せないでいた。
 いや、目を奪われたまま凝固しているのだから離し様がなかった。
 そしてそれは沙耶だけでは無く、クラス全員が同様であったのだ。

 ―――永遠にその時間が続くと思われた……。

「初めまして、一之宮いちのみや詩依良しいら……と申します。皆さん、宜しくお願いします」

 しかしその静寂を破ったのは他の誰でも無い、転校生の少女自身であった。
 聞く者の魂さえも奪ってしまうのではないかと思う程の美しく涼やかな声でそう挨拶した少女、一之宮詩依良は深々と頭を下げた。
 キラキラと乱反射しながら、その黒髪が彼女の前方に流れる。

 ほぅ……。

 誰かが溜息をついた。
 それが由美に掛かっていた呪縛を解き、彼女を放つ事に成功したのだ。
 今の今まで、担任教師である彼女でさえ一之宮詩依良のに囚われていたのだった。

「み、皆さぁん……。宜しいです……ねぇ……?」

 漸く我に返った由美が声を出し、そしてその一言でクラス中の生徒達も時間を取り戻す事に成功した。

 ―――ザワザワ……。

 過ぎ去った時間を取り戻すかの様に、騒めきが急激に教室全体へと広がった。
 生徒達の間で囁かれているその全てが、例外なく一之宮詩依良に関しての内容だった。
 明らかに自身が話題となっているにも関わらず、しかし一之宮詩依良にそれを気にした様子は微塵も感じられなかった。

「そ、それでは一之宮さんの席ですけどぉ。……窓際の一番奥が空いてますねぇ」

 つま先立ちとなり遠くを見る仕草で空いている席を探した由美が、窓際最後方にそれを見つけて一之宮詩依良に伝える。
 教壇は一段高くなっており更には生徒全員が今は座っているのだから、そんな事をしなくともいくら身長が低い由美であっても探す事は難しくなかった筈だろう。
 しかしその仕草も彼女には妙に似合っていて微笑ましい、と大半の生徒は納得した。
 もっともそう思われる時点で、やはり教師としての威厳には程遠いという事に本人は全く気付いていないのだから仕方のない事だった。

「はい、先生。ありがとうございます」

 詩依良はわざわざ由美に向き直り、浅く頭を下げた。
 そして流れる動作で教室後方に視線をやると、迷う事も無く指定された席へ向かい歩き出したのだった。
 ゆったりとした、しかしまるで滑るような動きで進む彼女に、再び教室の生徒全員が視線を奪われる。
 それは彼女が着席しても変わらず、生徒達の視線は正しく一之宮詩依良と言う少女に釘付けとなっていた。

「そ、それでは本日の出席を取りますからねぇ」

 教壇上にいる由美の、この声が聞こえるまで。
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