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陸、一懐愁緒

六、

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 承仁宮に伯祥が泊まった翌朝、紫玲は起き上がることもできない。
 朝政は日の出とともに始まるから、朝会のある時、伯祥はまだ暗いうちに出て行く。

 先帝は晩年、紫玲に溺れて朝政を放棄することが増えた。その批判を回避するために、伯祥はそこだけは遅刻しない。

 だがそもそも、太輔摂政監国という身でありながら、皇太后の宮に入り浸って関係を持つなんて、許されるのか?
 日も高くなってからようやく起き上がり、身支度を済ませて朝餉の膳に臨み、紫玲は思う。

「この宮には外部の噂話が何も入ってこないけれど、評判は散々なのでは?」

 徐公公の差し出す塗りの椀には、湯気の立つ白い粥。やはり塗りの匙が添えられていて、紫玲はそれを手に尋ねた。

「何がでございますか? 伯祥殿下のおかげで、ここ数年の不正や政務の滞りが解消され、みなもてはやしておりますとか」

 紫玲が後宮に入ってから滞っていた問題が、伯祥や張敬源、そして新たに登用された実務官により、適切に処理されつつあるという。 

 紫玲自身が望んで先帝の政務を滞らせたわけではないが、結果的にはまさに傾国の女であった。
 先帝の死後は幼帝の母として垂簾聴政したが、御簾の後ろで蔡業の専横を眺めていただけである。やる気がなかったし、やる気があったとしても、そもそも政治のことなどわからない。

「さぞ、わたしは恨まれていることでしょうね……」

 粥を口に含み、飲み込む。紫玲の言葉に、徐公公が少しだけ眉尻を下げたが、何も言わなかった。
 否定しないということは、その通りなのだろう。
 紫玲はため息をつく。

「その諸悪の根源である傾国の皇太后の宮に、先帝の皇子とはいえ、太輔閣下が泊まるのはまずいのでは?」
「……諸手を挙げて歓迎すべき状態ではない、のは確かです」

 徐公公が熱いお茶を淹れ、紫玲の前に置く。

「そもそもが、伯祥殿下の即位を求める声も多いです」
「そりゃあ、そうよね」

 伯祥は庶子ながら先帝の長子。傾国の悪女の産んだ幼帝を廃し、伯祥が即位して何の問題もない。

 ――もともと、伯祥はそのつもりだったはずだ。

 だが、偉祥が実の子だと知った伯祥は、偉祥の廃立をやめ、自ら摂政の地位に甘んじている。
 紫玲が後宮に入った事情を知る者は、伯祥と偉祥の関係を勘ぐり、偉祥は先帝の種ではないと、疑う者も多いだろう。 

 偉祥は先帝が皇太子に立てて順当に帝位についた。故に正統性があると伯祥は言うが、先帝の種でなかったら簒奪である。確実に先帝の子である伯祥の方が正統なのではないか。

 ――まあ、でも、偉祥は伯祥の子だから先帝の孫ではあるのだけど。

「偉祥を廃して伯祥さまが即位すれば、わたしを皇太后として置いておく必要もなくなるわ。その方が――」

 言い差した紫玲に、徐公公が首を振る。

「どちらかと申せば、それこそが伯祥殿下が即位なさらない理由かと存じます」
「ええ?」

 粥の椀を片手に首を傾げる紫玲に、徐公公が眉尻を下げる。

「皇上が自分の子でなかったら、伯祥殿下は最悪弑し奉って、存在自体をなかったことにしたかもしれません」
「弑ッ……?」

 物騒な言葉に、紫玲が息を呑む。

「それくらい、殿下は娘娘に執着していらっしゃる。娘娘が皇太后であった事実も消しさり、皇帝に即位の上、後宮に入れる。そのおつもりだったのではと、拝察したします」

 紫玲は昨夜の、伯祥の寝物語を思い出す。
 皇后になった紫玲を忘れるために妓女を抱きまくったが結局忘れることができず、父帝に叛乱を起こして紫玲を取り戻すことを決意した、と。

 ――そこまでの価値が、自分にあるとは思えないのに。

「じゃあ、皇帝にならないのは――」
「娘娘と皇上の立場を守るために、即位しない方がいいと決断をくだされたのでは」

 徐公公が静かに言う。

「でもそれでは――」

 自分は伯祥の足を引っ張るだけの存在なのでは――
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