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陸、一懐愁緒

一、

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 その夜、麟徳殿に詰めている宦官の薛宝が、偉祥の直筆の手紙を持ってきた。

「偉祥は無事なのね?」

 取りすがらんばかりの紫玲に、薛宝は頷いた。

「最初は戸惑って、母君を恋しがる風でしたが、もともと聞き分けのよい方でございますので、今は状況を理解し、我慢しておられます」
「わたくしもあの子に会いたいのに、許しが出ない……」

 ため息をつく紫玲は、薛宝の差し出した偉祥の手紙を慌てて開く。まだ拙い、子供らしい文字。

《母上様、私は元気です。母上様はどう、お過ごしですか? 今日はちちうえにお会いして、母上様に手紙を書くお許しをいただきました。》

 その内容に紫玲がハッと息を呑む。
 薛宝が、声を落とした。

「叛乱軍の、先の魏王である伯祥殿下がいらっしゃいました」
「……!」

 紫玲の心臓がバクバクと跳ねる。――伯祥さまが、偉祥のことを知った? 
 表向き偉祥は先帝の子で、伯祥からすれば腹違いの弟ということになっている。

「何か、仰っていて?」

 だが、薛宝は首を振る。

「特には、何も。……じっと、見つめておられましたが」

 ならばなぜ、偉祥は伯祥が父だと知ったのか? 

「奉霊殿で、娘娘が仰った。……本当のお父様の伯祥さまの御位牌だ、と」

 ゴクリと、紫玲が喉を鳴らす。
 そんなこと、言っただろうか? あの日のことを細部まで覚えているわけではない。
 なにしろ、もう死ぬつもりだったし――
 だがその不用意な母の言葉で、偉祥は真実を悟ってしまったのだ。

「……薛宝……偉祥に直接会わせてもらうわけには……」

 薛宝が首を振る。

「皇上も娘娘に会いたいと、伯祥殿下に頼んでおられたようです。伯祥殿下の返事待ちではございませんか」

 紫玲はいったん諦めて、手早く息子に手紙をしたため、それを薛宝に託した。

「あちらの、見張り役の検閲は入りますが」

 それは覚悟の上であった。




 薛宝が下がってしまうと、紫玲は寝室の窓辺に座り物思いに耽った。
 偉祥は元気でいるようだが、それにしても数日も会わないなんて初めてのこと。
 母として気が揉めてしかたがなかった。
 と、その時、キイと木扉の開く音がした。

 徐公公が就寝を促しに来たのかと顔を入口に向ければ、徐公公の背後から背の高い男が入ってきた。
 着流しの道袍に、黒い髪。左の目を覆う黒い眼帯。紫玲は悲鳴を上げそうになった。

「しい、お静かに。……娘娘、伯祥殿下でございます」

 徐公公に窘められるが、紫玲は前触れもなくやってきた死んだはずの夫の姿に恐慌をきたし、座っていた椅子から慌てて立ち上がり、椅子を蹴倒して逃げようとする。

「娘娘、落ち着いてください」
「いや、来ないで……!」

 だが、男はすっと長い脚で数歩、紫玲へと歩みよると、長い腕を伸ばしてやすやすと紫玲の腕を掴み、強引に引き寄せてしまう。

「紫玲!」

 力強い腕に背後から抱きしめられ、紫玲の息が止まる。
 ドク、ドクと心臓の鼓動が頭の中に響き、予想外の事態に手足が硬直し、逃げることもできない。

「幽鬼に会ったような顔だな」

 男の黒い髪がバサリと落ちて、帳のように紫玲の顔を覆う。以前より痩せて精悍さを増した秀麗な右半面と、眼帯に隠された左半面。――左の眼帯の下から頬に、傷が伸びている。
 声は掠れ、唯一の黒い目が鋭く光る。大きな節くれだった手が紫玲の華奢な顎を捕え、無理に顔の向きを変えられて、至近距離から見つめられる。

 右半面は確かに伯祥なのに、醸し出す雰囲気が昔とは違い過ぎて、別人のように思えて紫玲は怯え、全身を震わせる。

「私が、怖いか?」  
「あ……」 

 伯祥の右目が胡乱に眇められる。

「……片目になったのが恐ろしいか? 死んだはずの夫が現れたから? それとも――誓いを、違えたから?」
「殿下!」

 室内に立ち尽くしていた徐公公が、伯祥を咎める。

「娘娘が自ら望まれたことではございません! あの場で、皇上を拒める者などおりませぬ! どうか――」
「下がれ」

 冷たい声で伯祥が徐公公に言う。

「殿下、どうか乱暴なことは――」
「同じことを二度言わせるのか」

 昔の穏やかさの欠片もない冷たい声に、徐公公が頭を下げ、後ろ向きに下がっていく。顎を掴まれたままの紫玲は動くこともできず、ただ、キイと木扉の閉まる音だけを聞く。

 伯祥の顔が下りて、唇を塞がれる。舌がねじ込まれ、荒々しく貪られて――

 がくりと力が抜けた身体を逞しい腕が支え、そのまま抱き上げられる。
 御帳台まで運ばれ、臥床に投げ下ろされたところで、紫玲が我に返る。

「いや! やめてッ……」

 だが次の瞬間には大きな身体が壁のように紫玲の上に圧し掛かり、細い手首を掴んで顔の両側に縫い留められてしまった。真上から見下ろす冷たい顔。

「紫玲。……私は帰ってきたんだ。なぜ、拒む」
「待っ……」

 今度は噛みつくような口づけが降ってくる。両脚を膝で押さえ付けられて抵抗を封じられてしまう。        
 圧倒的な力の前に、紫玲はあまりに無力だった。  
 細い頸筋に男の顔が埋められて、唇が這う。

「やめて、いや……」      

 涙が溢れ、目尻から零れ落ちた。

「泣くほど嫌か? 父上に抱かれて、私が嫌いになったか?」
「待って……いや……違うの……」

 紫玲が首を振る。涙が次から次へと溢れ、頬を伝っていく。

 ――もう、自分は昔の自分と違う。抱かれたらきっと伯祥にはわかるだろう。

 だが、そんな紫玲の想いを汲むこともせず、伯祥は冷酷に言い放った。

「紫玲。お前は、私の妻だ。私は、お前を取り返すために戻ってきたんだ」

 伯祥の一つだけの目が紫玲を見下ろし、射抜いて――紫玲は、その闇に飲み込まれた。
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