破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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伍、紫微炎上

五、

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 伯祥は、十年前のあの夜を思い出す。
 御史の獄に収監された伯祥の元を徐公公が訪れ、皇帝の口詔だとして釈放を伝えた。
 そのまま、徐公公に送られて魏王府に連れ戻される。
 自分の家だと言うのに、そこはあまりに空虚だった。――妻が、ただ一人の愛する女がそこにいないから。

『紫玲は……? 紫玲はどうなった?』

 証拠物品を押収すると言って、物が持ちさられ、踏み荒らされた書斎で、伯祥は呆然と呟く。

『掖庭宮に』

 徐公公の言葉から、紫玲の置かれた状況を知った。皇帝は紫玲を手に入れるために、伯祥に罪をきせた。
 だが紫玲は彼を愛していて、比翼連理を誓ったはず。紫玲は、皇帝を拒んでくれるはず――

『妃殿下は皇上の御寝に侍り、殿下の命乞いをなさった。それゆえに今宵、殿下は釈放されたのです』
『父上の……』

 吐き気がこみ上げ、脳が沸騰した。紫玲が……父と……!     

『ほかに、方法はなかったのです。拒めば殿下と妃殿下だけでなく、ご実家の蔡家にも累が及びましょう』 

 言われてみればその通りで、紫玲一人で、拒めるものではない。紫玲が死を選べば、蔡氏の家族がどんな咎めを受けるか。何より、彼女は伯祥の命乞いのために彼の父に身を任せたのだ。
 ――命のために、誓いを破って?
 どす黒い思いが胸に溢れ、肺腑を灼いていく。腸が引きちぎられ、腐って溶け堕ちていく。

『私なら……到底生きてなどいられない! 私は……ッ』

 いっそ死んだ方がマシと思った伯祥を止めたのは、徐公公だった。

『死んではなりません!……あなたが自ら死を選ぶことは、妃殿下の裏切りを責めることです。妃殿下はあなたの命のために――』
『だがっ……!』
『今は堪えてください! 妃殿下とて、死より辛い選択だったのです! どうか……』

 皇帝は気まぐれだ。息子の妻を奪ってはみたものの、一晩抱けば気が済んで紫玲を解放してくれるかもしれない。もしかしたら――

『そんな……こと……』
『いいですか、くれぐれも! お命を自ら捨てることはなりません! それでは何のために妃殿下が自分を犠牲にしたのかわかりません!』

 重々、言い置いて去っていく徐公公を見送り、伯祥は両手で顔を覆う。……苦しい。苦しい。苦しい――
 紫玲は、彼の命だった。片腕を引きちぎられ、半身を断ち切られるような痛み。
 紫玲もまた、この同じ痛みに耐えているのだろうか?

 


 自ら死ぬなとは言われたが、それからの伯祥は食事も喉を通らず、ただ割れた鏡を握りしめて過ごした。
 使用人たちも遠ざけ、髪も乱れ無精ひげも伸び、普段の端正さは嘘のよう。幽鬼のようになった二日目の深夜。
 破鏡を握りしめて、揺れる火影を眺めていた時。
 ふと、隙間風に髪を撫でられ、ハッとする。火影が大きく揺らいで暗闇に影が蠢いた。
 カタリ……
 侵入者の気配に伯祥は心臓を掴まれる。
 ――父上が、私の命まで奪おうと?
 だが今さら、紫玲を奪われた伯祥は命などいらなかった。刺客の足音を聞きながら逃げもせず動かずにいた、その時。

 別の気配が風のように近づき、目の前に差し出されたぎらつく白刃を何かが弾き飛ばす。

 ガキーン! 刃と刃がぶつかり、青白い火花が散る。

 黒づくめの男の凶刃を弾いたのは、徐公公だった。

『慮外者! 魏王殿下と知っての狼藉か!?』   
『徐公公! いいんだ、私はもう……』
『おぬし東宮の手の者だな! 妃殿下を生贄にするばかりか殿下のお命まで狙うとは!』

 徐公公の言葉で、伯祥の中で何かとストンと落ちた。

 ――すべて、異母弟・孟祥の差し金か! 

 あの清明節の宴、皇太子は二人に舟に乗るように誘導し、紫玲が皇帝の目に触れるようにしたのだ。
 紫玲を辱めるだけで飽き足らず、兄である伯祥の命まで狙うとは……!
 反射的に卓上の文鎮を掴み、振り回す。刺客の匕首あいくちが伯祥の左目から左頬を抉り、血飛沫が散る。
 だが次の瞬間、振り下ろした文鎮に確かな手ごたえが伝わる。

 ガツンッ

『う……』

 崩れ落ちた刺客にもう一度振り下ろせば、さらに血が飛んだ。

『はあっ、はあっ……はあっ……』
『殿下、お怪我が……』

 徐公公の差し出す手巾で半面を押さえれば、見る間に朱に染まっていく。

『こいつ、どうする……』

 痛みをこらえながら椅子に座り直し、徐公公が自身の下襲を破いて包帯代わりに巻いてくれた。

『いっそ、死んだ方がマシだった……』 

 徐公公が伝えた決定は絶望的なものだった。

『婚姻は無効になり、妃殿下は新たに後宮の位号を授けられることになります。殿下には加封と、新たな妃を――』

 皇帝は紫玲に飽きるどころか、手放すことなく溺れるように寵愛しているという。
 胃の腑がこみ上げてきたが、この二日、水以外口にすることができなかった伯祥は、胃液すら吐くことができなかった。

『いっそ殺してくれ……私は……もう……』
『殿下……憎くはないのですか? 死んだら、皇后と東宮が喜ぶだけです』

 息絶え、横たわる刺客の死体を見ながら徐公公が言う。
 懐に隠した割れた鏡を袍の上から握りしめ、伯祥は目を閉じた。
 彼の半身とも言うべき紫玲は奪われた。

『まずは治療を……その傷では』

 胸にとぐろをまく怒りの熱で、腸が焼け爛れていく。
 伯祥は足元に転がる刺客の死体を見下ろした。偶然なのか、その背丈や体格は伯祥に似ている。伯祥は血のりのついた文鎮をもう一度振り下ろし、刺客の顔を潰す。

『殿下?』

 一度、二度……完膚なきまでに潰してから、文鎮を投げ捨てる。

『こいつに、私の衣服を着せろ』
『殿下?』
『そして、ここに火をつける。――私が、死んだかのように見せかける』

 徐公公が放心したように伯祥を見つめる。

『……わかりました』

 徐公公が素早く動き、刺客の服を脱がし、伯祥は自身の道袍を死体に着せる。それから紙燭の油をまき、火をつけた。

『行きましょう、伯祥殿下。使用人たちはが火に気づいてやってくる前に』
『どこに……?』

 徐公公が言うには、近くに宮中を下がった宦官の家があると言う。

『奴才の師匠のような方で……医術の心得もあり、口も堅い方です』

 数年前、皇后の意に逆らったことで、宮中にいられなくなったというから、伯祥に味方してくれそうであった。
 煙に巻かれるようにして邸を出、伯祥を馬車に押し込める。深夜は坊門が閉じてしまうけれど、徐公公は宮中の威光と袖の下をばらまき、伯祥を目指す家に運び込んだ。


 左目の傷は浅かったが、おそらく見えなくなるだろうと、家主の戴可道たいかどうが包帯を巻きながら言った。

『北方の……雲州の節度使張某は漢気のある御仁で、少々の伝手がございます。身分を隠し、紹介状を書いておきます』

 戴可道は以前、先代の当主を助けたことがあるとかで、彼の紹介なら無下にはされないだろうと言う。      

『……徐公公、紫玲に、これを渡して欲しい』

 伯祥はその場で紙を筆を借りて、片目で何とか文字を書いた。 
 
 玉匣清光不復持、菱花散亂月輪虧。
 秦臺一照山鶏後、便是孤鸞罷舞時。
          
『紫玲には、私は死んだと伝えてくれ。だが、自殺ではないと』

 差し出された結び文を押し頂くようにして、徐公公が涙ながらに約束する。

『殿下……必ず……必ず……』

 数日後、伯祥は戴家から忽然と姿を消した――
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