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参、幽囚深宮

四、

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 御帳台は狭く、薄い紗幕が周囲にめぐらされ、人目を遮ってはいる。

 ただ、寝室内には寝ずの番の宦官が控え、紫玲の罪を余すところなく見ていた。
 それは女にとって屈辱以外の何物でもないが、無防備な閨の時を狙っての皇帝暗殺を防ぐため。同時に、寵愛を盾に法外なねだり事をする女への抑止策でもある。

 領地、金、宝石、あるいは、親兄弟の栄達。皇帝の寵は女の生まれも身分も、すべてを凌駕し、一夜の房事が歴史を変えることもあるからだ。

 男が、満足のため息を零した。御帳台の内部の空気は熱く、湿っている。
 皇帝の寵を得、紫玲の胎内に子種を放ったのを、外の宦官も確認しているだろう。


 すべては、紫玲の腹の子を守るため――
 



「名は、なんと申したかな?」

 今さら尋ねられて、紫玲は内心、苦笑する。
 ――古来、女は姓を名乗り、自身の名を知るのは家族の外は夫ぐらいのもの。男が名を問い、女が名を告げて、ようやく二人の関係が始める。

 息子の妻を奪って我がものとしたことで、男は何がしか、ほの暗い充足感を覚えているらしかった。

「蔡紫玲と申します」

 皇帝の胸に顔を寄せ、紫玲は囁くような声で告げた。

「何か、望みはあるか? 申してみよ」
「……正直に、申し上げても?」
「偽りの望みなど叶えても意味はあるまい」
「では……」

 紫玲は男の心を襞などわからない。次の言葉が男の怒りを呼ぶかもしれないと思いながらも、震える声でねだった。

「夫を……伯祥さまをお救いください!」

 紫玲は上体を起こし、胸の上で男の顔を見上げた。じっと、黒い瞳を潤ませて見つめる。
 男はしばし沈黙し、紫玲の長い髪を指で梳いた。

「閨で、他の男の名を口にするか?」
「ねだれば、助けてくださると仰ったのは陛下です」

 胸に両手をつき、体を少し逸らすようにして、正面から男の顔を見る。若い自らの身体をことさらに彼の目に晒し、誘惑するようにその手で男の髭に触れる。男の唇が弧を描いた。

「身も心も朕のものになるなら、命ばかりは救おう」

 男が、夫によく似た彫の深い顔を歪める。

「わたくしはもう、陛下のものですわ。今さら、どの面下げて夫の元に戻れと? ……ここであの方が殺されては、わたくしが陛下の寵を得るために、夫を売ったかのように言われましょう。そんな汚名を青史に留めたくはございません」
「なるほど?」
「陛下とて――」

 紫玲は目を伏せ、それから上目遣いに男を見た。

「女のために我が子を殺したとの誹りは、避けるべきではございませんの」
「それは、そうよの……」

 紫玲の長い髪を指に巻き付け、それからついっと滑らせて、男は囁く。

「ならばこうしよう。伯祥とそなたは婚姻は無効。婚礼の後に朕に拝謁しておらぬ故な。そなたには改めて妃嬪の位階を授け、伯祥には改めて別の女を嫁がせる」

 皇帝の言葉に、紫玲は一瞬、頭に血が上った。

 ――そもそも、あなたが挨拶に来る必要はないって言ったのに! 

 だが、それをおくびにも出さず、紫玲は嫣然と微笑んでみせた。

「伯祥さまにほかの方を? でも――また、そちらの方をお気に召したら?」
「そんなことはない。そちは特別ぞ。そちほど美しい女を朕は見たことがない」

 男の大きな手が紫玲のうなじにかかり、引き上げるようにして唇を塞がれる。なすがままに貪られ、屈辱に苛まれる。

 それでも――

「ならば、あの方をお救いくださませ。わたくしを、可愛いと思ってくださるなら。――それとも、結局、陛下のお心はその程度ですの?」

 少し拗ねた風を見せれば、皇帝は慌てたように笑い、相好を崩す。

「まあそう拗ねるな……わかった、約束する」
「今すぐに、命令を出してくださいまし」
「疑り深いな。朕を信じぬか?」
「女は疑り深いものでございますよ?」

 皇帝は笑い、紗幕をめくると、外にいる宦官に呼びかけた。

「誰ぞ。……徐を呼べ」
「は」

 すぐに、徐公公が身を縮めるようにして寝室に入り、御帳台の脇に膝をついた。

「緊急の要件ゆえ、口頭で構わぬであろう。――御史の獄に参り、伯祥の拘束を解け。他の沙汰は明日」
「は。仰せの通りに」

 徐公公が下がるのも待たず、皇帝は再び、紫玲に向き直る。

「これでよかろう?」
「はい、ありがとうございます!」

 紫玲の表情がほぐれ、大輪の花が零れるように笑った。輝く笑顔に皇帝はますます女への情欲を煽られ、その白い頬を撫で、抱き寄せて囁く。

「ならば……もう一度相手をせよ」
「あ……」

 紫玲の身体が反転させられ、皇帝が真上に圧し掛かる。
 紫玲は観念して、目を閉じた――
  
  



 それから三日間、皇帝は承仁宮に居続けした。

 皇帝は一夜で紫玲に夢中になり、片時も手放さずに溺れた。後宮から出てこない皇帝に高官たちが業を煮やし、重要議案への裁可を求めて、後宮と内廷との間を宦官が往復した。それは、新たな寵姫の出現。

 ――そして、魏王伯祥の妃であると知った時の衝撃たるや。

 この醜聞を糊塗し、事態を収拾しなければならないのだ。

 法や礼に詳しい儒者が集められ、蔡紫玲の新たな位号と、魏王伯祥の処置について、深夜まで協議が続く。
 まず、魏王と蔡紫玲の婚姻は未成立であるとした。

 皇族諸王の結婚は、婚儀の後、皇帝への拝謁をもって完了する。
 ――礼法において、結婚の翌朝に父母に挨拶する(父母がすでに故人である場合は、その廟に謁する)ことで儀式は完了することに準えたものだ。

 だが魏王夫妻は皇帝に正式に拝謁する機会がなかった。清明節で略式に挨拶した程度である。
 故に蔡紫玲は正式な魏王妃とは認められず、皇帝が彼女を後宮に納れるのに支障はないと結論した。
 その上で、蔡紫玲の新たな位号を定めることになる。

「彼女は親王妃であり、外命婦として一品の妃であった。内命婦(皇帝の妃嬪)ならば、正一品の妃の位を授けるのが妥当でありましょう」

 現在、四妃の内、埋まっているのは淑妃のみ。皇帝の強い意向もあって、徳妃に冊するよう詔が下された。

 当然ながら、後宮内に激震が走った。

 後宮佳麗三千人というが、妃嬪の位号は正一品から正八品まで百二十人。寵愛の度合いと年功により、少しずつ階梯を上っていくものである。

 紫玲の父、蔡方直けいほうちょくは県令を務めた後、数年、待命のまま。要は無官である。
 この階級の官人の娘が後宮入りした場合、たいていは正八品の采女か、せいぜい正六品の宝林に初任される程度。
 いきなり正一品、皇后に次ぐ三妃の一人に抜擢された。そもそも、魏王との婚姻が成立していないというなら、蔡紫玲を親王妃として扱うのは矛盾している。

 後宮の秩序が狂うと、皇后の王氏が大反対した。

 だが、妃嬪の冊命は皇帝の専断事項である。
 皇帝は溺愛する寵姫のために、皇后の反論を黙殺した。

 
 三日後、さすがに大臣たちの批判が殺到し、皇帝が重い腰を上げて内廷に帰った。
 数日ぶりに解放され、紫玲はようやく一息つく。

「伯祥さまは、どうなったの?」

 正式に承仁宮太監となった徐公公に、紫玲が取りすがらんばかりに尋ねる。
 ――ずっと気にかかっていたのに、皇帝が片時も離してくれないので、聞くことができなかったのだ。

 釈放されて魏王府に戻っているはずだが、その後、どうしているのか。
 徐公公が紫玲の前に跪き、頭を下げる。

「あの夜の内に御史の獄に参りまして、奴才が口頭にて釈放を告げ、殿下は魏王府に戻られました」
「では――」

 伯祥は無事なのだ。紫玲がホッと胸を撫でおろす。――もう二度と会えないかもしれない。それでも、生きてさえいれば、いつかは――

 紫玲は、徐公公が手配してくれた鏡匣に入った、割れた鏡を撫でる。
 だが、徐公公は表情を沈痛に曇らせる。

「それが……」
「徐公公? ……何か、あったの?」

 徐公公はしばしためらった後に、意を決したように話始めた。

「あの後、魏王殿下は蟄居を命じられて、自宅で謹慎なさっておいででした」

 証拠はないといえ、謀叛の密告があった。数日内に新たな沙汰が下りる予定で――  

「今朝のことです。魏王府より火が出て――火は間もなく消し止められましたが、西房の書斎が全焼でした。執事も使用人も無事でしたが、ただ、殿下のお姿だけがなく、焼け跡から死体が――」
「何ですって?」

 紫玲が悲鳴のような声を上げた。

「落ち着いてください! まだ、殿下とは確認できていないのです。黒焦げで相貌もわからず――」
「そんな……」

 紫玲の周囲から音が消える。脳が理解を拒み、身体が冷えていく。

「嘘よ……だって、それならわたしは何のために……?」 

 紫玲は、その場に崩れ落ちた。


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