7 / 44
壱、比翼連理
六、
しおりを挟む
今度こそ、と書画骨董を商う一角に向かう。
「あんな綺麗な髪の人がいるんですね」
胡人を見るのも生まれて初めての紫玲が言い、伯祥が微笑んだ。
「ああ、西の方にはもっと赤い髪や、青や緑の瞳をした人間がいる。……たまに、市で見かけるな」
西域との交易が盛んになり、絹を求めた商人が大勢、西の砂漠を越えてやってくるようになった。大陸の富が集まる帝国の都には、その富を目当てに、甘い蜜に群がる蟻のごとく、さまざまな国の商人や、芸人や踊り子も集まってくる。
「あんなキラキラした髪や青い目をしていたら、世の中も変わって見えるのかしら……」
うっとりと言う紫玲の、垂れ布の隙間から覗く黒髪を見ながら伯祥が言う。
「私には紫玲の黒髪の方が美しく見えるよ」
書画骨董の店が並ぶ一角は、やや人も少ない。骨董商は、市ではなく富豪の得意先に商品を担いで回る方が、実入りがいい。それでも、都の市に店を出すのは伯祥のような好事家や、あるいは短期滞在の地方出身者や異国人の客を目当てにしているのだ。
ある店では小柄な男たちが数人、店主を囲んであれこれと商談していた。通りすぎてから伯祥が小声で言う。
「あれも異国人だよ」
そう言われてさりげなく振り返って見たが、黒髪に黒い瞳、顔立ちも服装も、都人と変わらない。
「よく聞けば訛がある。……たぶん、東の海を越えてきた使節団の随行員だ。もしかしたら留学生かもしれないな。故郷へのお土産を買いに来たのだろう」
「海を……」
この広大な国の西には砂漠が、東には大海があると話には聞くが、その海の向こうにも人が住んでいたとは。紫玲は単純に驚く。
「遠い国から、この国の文化や教えを学びに来て、帰りにはたくさんの書籍を船に積んで帰るんだ。航海は危険で、辿りつけるのは半分くらいで、多くの船が沈むと聞く」
「船というのは水の上に浮かぶものですよね……沈んだらどうなるのですか?」
「水に落ちたら死ぬだろうね。遠い南に漂流して九死に一生を得て助かる場合もあると言うが……」
陸地についても、野蛮人に殺されてしまったりと、不幸なこともある、そんな話を聞いて、紫玲は震えあがる。
都から出たことがない紫玲は、船に乗ったことはない。一度だけ、城外に出た時に、遠く、大河に浮かぶ船を見たことがあるだけだ。
「恐ろしい……」
怯える紫玲に、伯祥が笑った。
「皇宮内の庭の池に、船を浮かべることもある。私も乗ったことがある。あれはあれで不思議な感覚だ。……機会があれば乗ってみようか?」
「少し怖いわ」
「怖がりだな、紫玲は」
そんなたわいない話をしながら、伯祥は目当ての店につき、そっと中を覗く。小さな小屋の中にびっしりと書籍が積み上げられ、書画の軸が所狭しと掛けられている。揉み手をしながら出てきた初老の店主は、伯祥が女連れのことに少し驚いたようだが、愛想よく頭を下げる。
「これはこれは、よくいらっしゃいました」
「妻、なんだ」
「ご結婚おめでとうございます」
垂れ幕を少しだけ掲げて頭を下げる紫玲を見て、店主が目を丸くした。
「これはお美しい太太ですな……」
それからしばし商談して、伯祥はあれこれ眺めた末に、ある山水画の軸に決めた。名のある画家の筆によるが、破格の値で出ていた。それを包んでもらっている間、紫玲が物珍しそうに周囲を見回していると、主人が店の奥から小さな匣を出してきた。
「太太にいかがでございますかね」
匣の中に入っていたのは、八稜鏡(八枚の花型の鏡)であった。
「鏡は夫婦の象徴とも申しますし」
背面には精緻な双龍の彫刻が施され、表面はよく磨かれていた。
「まあ……綺麗……」
思わず手に取って裏返すと、鏡の中に紫玲と、横から覗き込んだ伯祥が映っていた。
「気に入ったのなら、求めて帰ろう」
代金を払おうと懐に手を入れた伯祥を、店主が止めた。
「これはわしからの結婚祝いということで」
「いや、それでは……」
「いいえ、老爺には日頃からお世話になっておりますので。ぜひお納めください」
店主に強いて言われ、二人は礼を言って鏡を受け取った。
その夜寝室で、貰った鏡に向かって夜の化粧をしている紫玲のもとに、伯祥がやってきた。
「紫玲は、本当に美しいな。市場でも街でも、幃帽の垂れの隙間から覗く顔に、皆が釘付けになっていた」
「まあ、そんなこと!」
目を丸くする紫玲に、伯祥が言う。
「正直、外に連れ出したのを後悔した。誰にも見せずに閉じ込めておけばよかった、と」
「そんなこと……でも、伯祥さまがそうお望みであれば、わたしは外出せずにすごします」
紫玲が答えれば、伯祥は少しだけ顔を俯け、眉間に皺を寄せる。
「私は、お前を縛りたいわけじゃない。ただ……不安なんだ」
「不安?」
伯祥が紫玲を正面から見つめる。
「父上が選んだ妻がお前だった。幸運が信じられなくて……」
「伯祥さま……」
「お前を外に連れ出して人の目に留まり、お前の美しさが人の口に上ったらと思うと……」
不安げに視線を彷徨わせる伯祥の手を、紫玲が両手で包む。
「心配はご無用です。わたしは死ぬまで……いえ、死んだって伯祥さまのお側を離れません」
「紫玲……」
まっすぐ見上げる紫玲の黒い瞳を、伯祥もまた、強い視線で見つめ返す。
「誓ってくれ。生涯、私だけだと」
「ええ、もちろんです。わたしが愛しているのは生涯、伯祥さまただ一人です。……この、双龍の鏡に誓います」
鏡は夫婦の象徴――そんな店主の話を思い出し、紫玲が言えば、伯祥もやっと納得したかのように頷く。
「ああ、私も誓う。生涯、妻は紫玲一人だ」
この国では、貴族の男は複数の妻妾を抱えるのが普通だ。だから、伯祥の誓いは破格ではあった。
「ありがとうございます。伯祥さま……」
紫玲が微笑む。
今は紫玲の美しさを誉めそやしてくれる伯祥だが、月日が経って紫玲の容色が衰えたら、こんな約束は反故にされるかもしれない。
でも――
今はこの誓いを口にした伯祥の気持ちが、とても嬉しかった。
伯祥の顔が下りてきて、口づけを落とされる。ふわりと抱き上げられて臥床に運ばれ、彼の逞しい腕に抱きしめられる。激しく求められ、幾度も愛を囁かれて、紫玲は愛される幸福に酔った。
――たとえこの先何が起きても、わたしにとって、愛する人はこの人だけ――
「あんな綺麗な髪の人がいるんですね」
胡人を見るのも生まれて初めての紫玲が言い、伯祥が微笑んだ。
「ああ、西の方にはもっと赤い髪や、青や緑の瞳をした人間がいる。……たまに、市で見かけるな」
西域との交易が盛んになり、絹を求めた商人が大勢、西の砂漠を越えてやってくるようになった。大陸の富が集まる帝国の都には、その富を目当てに、甘い蜜に群がる蟻のごとく、さまざまな国の商人や、芸人や踊り子も集まってくる。
「あんなキラキラした髪や青い目をしていたら、世の中も変わって見えるのかしら……」
うっとりと言う紫玲の、垂れ布の隙間から覗く黒髪を見ながら伯祥が言う。
「私には紫玲の黒髪の方が美しく見えるよ」
書画骨董の店が並ぶ一角は、やや人も少ない。骨董商は、市ではなく富豪の得意先に商品を担いで回る方が、実入りがいい。それでも、都の市に店を出すのは伯祥のような好事家や、あるいは短期滞在の地方出身者や異国人の客を目当てにしているのだ。
ある店では小柄な男たちが数人、店主を囲んであれこれと商談していた。通りすぎてから伯祥が小声で言う。
「あれも異国人だよ」
そう言われてさりげなく振り返って見たが、黒髪に黒い瞳、顔立ちも服装も、都人と変わらない。
「よく聞けば訛がある。……たぶん、東の海を越えてきた使節団の随行員だ。もしかしたら留学生かもしれないな。故郷へのお土産を買いに来たのだろう」
「海を……」
この広大な国の西には砂漠が、東には大海があると話には聞くが、その海の向こうにも人が住んでいたとは。紫玲は単純に驚く。
「遠い国から、この国の文化や教えを学びに来て、帰りにはたくさんの書籍を船に積んで帰るんだ。航海は危険で、辿りつけるのは半分くらいで、多くの船が沈むと聞く」
「船というのは水の上に浮かぶものですよね……沈んだらどうなるのですか?」
「水に落ちたら死ぬだろうね。遠い南に漂流して九死に一生を得て助かる場合もあると言うが……」
陸地についても、野蛮人に殺されてしまったりと、不幸なこともある、そんな話を聞いて、紫玲は震えあがる。
都から出たことがない紫玲は、船に乗ったことはない。一度だけ、城外に出た時に、遠く、大河に浮かぶ船を見たことがあるだけだ。
「恐ろしい……」
怯える紫玲に、伯祥が笑った。
「皇宮内の庭の池に、船を浮かべることもある。私も乗ったことがある。あれはあれで不思議な感覚だ。……機会があれば乗ってみようか?」
「少し怖いわ」
「怖がりだな、紫玲は」
そんなたわいない話をしながら、伯祥は目当ての店につき、そっと中を覗く。小さな小屋の中にびっしりと書籍が積み上げられ、書画の軸が所狭しと掛けられている。揉み手をしながら出てきた初老の店主は、伯祥が女連れのことに少し驚いたようだが、愛想よく頭を下げる。
「これはこれは、よくいらっしゃいました」
「妻、なんだ」
「ご結婚おめでとうございます」
垂れ幕を少しだけ掲げて頭を下げる紫玲を見て、店主が目を丸くした。
「これはお美しい太太ですな……」
それからしばし商談して、伯祥はあれこれ眺めた末に、ある山水画の軸に決めた。名のある画家の筆によるが、破格の値で出ていた。それを包んでもらっている間、紫玲が物珍しそうに周囲を見回していると、主人が店の奥から小さな匣を出してきた。
「太太にいかがでございますかね」
匣の中に入っていたのは、八稜鏡(八枚の花型の鏡)であった。
「鏡は夫婦の象徴とも申しますし」
背面には精緻な双龍の彫刻が施され、表面はよく磨かれていた。
「まあ……綺麗……」
思わず手に取って裏返すと、鏡の中に紫玲と、横から覗き込んだ伯祥が映っていた。
「気に入ったのなら、求めて帰ろう」
代金を払おうと懐に手を入れた伯祥を、店主が止めた。
「これはわしからの結婚祝いということで」
「いや、それでは……」
「いいえ、老爺には日頃からお世話になっておりますので。ぜひお納めください」
店主に強いて言われ、二人は礼を言って鏡を受け取った。
その夜寝室で、貰った鏡に向かって夜の化粧をしている紫玲のもとに、伯祥がやってきた。
「紫玲は、本当に美しいな。市場でも街でも、幃帽の垂れの隙間から覗く顔に、皆が釘付けになっていた」
「まあ、そんなこと!」
目を丸くする紫玲に、伯祥が言う。
「正直、外に連れ出したのを後悔した。誰にも見せずに閉じ込めておけばよかった、と」
「そんなこと……でも、伯祥さまがそうお望みであれば、わたしは外出せずにすごします」
紫玲が答えれば、伯祥は少しだけ顔を俯け、眉間に皺を寄せる。
「私は、お前を縛りたいわけじゃない。ただ……不安なんだ」
「不安?」
伯祥が紫玲を正面から見つめる。
「父上が選んだ妻がお前だった。幸運が信じられなくて……」
「伯祥さま……」
「お前を外に連れ出して人の目に留まり、お前の美しさが人の口に上ったらと思うと……」
不安げに視線を彷徨わせる伯祥の手を、紫玲が両手で包む。
「心配はご無用です。わたしは死ぬまで……いえ、死んだって伯祥さまのお側を離れません」
「紫玲……」
まっすぐ見上げる紫玲の黒い瞳を、伯祥もまた、強い視線で見つめ返す。
「誓ってくれ。生涯、私だけだと」
「ええ、もちろんです。わたしが愛しているのは生涯、伯祥さまただ一人です。……この、双龍の鏡に誓います」
鏡は夫婦の象徴――そんな店主の話を思い出し、紫玲が言えば、伯祥もやっと納得したかのように頷く。
「ああ、私も誓う。生涯、妻は紫玲一人だ」
この国では、貴族の男は複数の妻妾を抱えるのが普通だ。だから、伯祥の誓いは破格ではあった。
「ありがとうございます。伯祥さま……」
紫玲が微笑む。
今は紫玲の美しさを誉めそやしてくれる伯祥だが、月日が経って紫玲の容色が衰えたら、こんな約束は反故にされるかもしれない。
でも――
今はこの誓いを口にした伯祥の気持ちが、とても嬉しかった。
伯祥の顔が下りてきて、口づけを落とされる。ふわりと抱き上げられて臥床に運ばれ、彼の逞しい腕に抱きしめられる。激しく求められ、幾度も愛を囁かれて、紫玲は愛される幸福に酔った。
――たとえこの先何が起きても、わたしにとって、愛する人はこの人だけ――
104
お気に入りに追加
266
あなたにおすすめの小説
婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)
私の愛した婚約者は死にました〜過去は捨てましたので自由に生きます〜
みおな
恋愛
大好きだった人。
一目惚れだった。だから、あの人が婚約者になって、本当に嬉しかった。
なのに、私の友人と愛を交わしていたなんて。
もう誰も信じられない。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる