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壱、比翼連理
三、
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二人の生活が始まった。
本来、結婚した二人は翌朝、夫の父母を訪問する。
だが、伯祥の母連氏はすでに物故し、父である今上帝は離宮行幸中で、京師には不在であった。
わざわざの挨拶には及ばない――そんな伝言すら残していて、今上が伯祥のことを気にも留めていないのは、明らかだった。忘れられた不遇の皇子――それが伯祥の立場だったのだ。
せめて、伯祥と紫玲は連れ立ち、京師の北、白鳳山にある連氏の墓所に詣でた。
清明節のころには滴るほどの緑に溢れ、青踏の遊びに賑わう山ではあるが、春も浅い今は人もまばらで、緑も新芽が固く寒々しさばかりが勝る。
それでも紫玲は、邸第の内に咲く蝋梅を一枝手折り、せめてもの手向けとして持参した。
親王のものとしては質素な馬車に相乗りして、小高い丘の斜面を登り、墓所の石碑の前に花と酒と菓子類を並べ、紙銭を焼く。
「母上。私もこうして妻を得ることができました。末永く添い遂げられるよう、天よりお見守りくださいますよう」
数珠を手に祈る伯祥に習い、紫玲も手を合わせる。
「お義母さま。生きてお会いすることは叶いませんでしたが、伯祥さまを救け、末永くお仕えできますよう、お守りくださいますように」
紙銭を焼いた煙と、線香の煙が白く立ち上り、天へと昇っていくのを二人見上げて、どちらからともなく顔を見合わせる。早春の風は冷たくて、紫玲の黒髪が風に舞う。
「山の上は肌寒いな。……そろそろ帰ろう。ここには、清明節にまた来られるだろうから」
「はい」
伯祥の差し出す手に縋って立ち上がる。肩に纏った毛織の斗篷が風に煽られ、足元がふらついた。すかさず、伯祥が紫玲の腰をがっちりと支える。
「大丈夫か」
「はい、申し訳ありません」
「そこは礼を言うところだ」
「あ、……申し訳……じゃなくて、ありがとうございます」
伯祥が端麗な顔に笑顔を浮かべる。
「私の妻の美しさに、母上もきっと喜んでいる。……ずっと、私の将来を悲観しておられたから」
「連才人さま……でしたね」
「ああ」
馬車を待たせているところまで、ゆっくりと坂道を下りながら、伯祥が頷く。木の葉のすっかり落ちた落葉樹の間、木の根に足を取られぬように注意して、二人は進んでいく。
「母上は、長秋宮さま……皇后の婢だった。一度、主上が長秋宮さまの寝所にいらしたとき、たまたま障りがあって、代わりに差し出される形でご寵愛を賜った」
打ち明け話に、紫玲は伯祥の横顔をじっと見上げた。後宮内で皇后の住まう宮殿は長秋宮という。後宮内では妃嬪は婉曲に、住まう殿舎の名前で呼ばれるのである。
「そのたった一夜で、母上は私を身ごもった。……長秋宮さまは、それが許せなかったらしい」
「そんな……理不尽ではありませんの?」
主人の都合で皇帝の枕席に侍り、たった一夜で子を身ごもった。それが、主人の怒りを買うなんて。
「そのころ、長秋宮さまは嫁いで数年、懐妊の兆しがなくて焦っておられたらしい」
ただでさえ月の障りが訪れて落ち込んでいただろうから、怒りが抑えられなかったのかもしれないが、それにしても――
「母上は長秋宮さまから堕胎の薬を賜ったが、その頃まだ、主上にはお子がいなかったから、母上は薬を飲むか、飲まないかの板挟みに苦しみ、結局、私を生んだのだ」
伯祥の横顔が皮肉に歪む。
「私が生まれて数か月して、長秋宮さまがようやく懐妊し……私は文字通り不要な子供になった」
「伯祥さま!」
紫玲が、思わず伯祥の黒い斗篷を掴む。
「そんなことありません! 伯祥さまがいてくださらなかたら、わたしは……」
足を止めた伯祥が、紫玲の顔を覗き込む。
「紫玲……」
「私のような者の元に嫁いでくれて、本当に感謝しているんだ」
「伯祥さま、わたしは……」
伯祥の顔が近づき、唇がそっと頬に触れる。その熱が、昨夜の記憶を呼び覚まし、紫玲の顔に朱が差す。
「……行こう、紫玲」
伯祥がそっと顔を起こし、穏やかに微笑む。
静かに紫玲の手を取り、冬枯れの木立の向こうの馬車を見る。馬が退屈そうに足元の枯れ草を食み、御者を務める老僕が、切り株に座ってこっくりこっくり船をこいでいた。
「老楠め。あんなところで眠ると風邪をひくぞ?」
伯祥が笑いながら言い、紫玲を見た。
「足音を立てないように近づいて、脅かしてやろう」
「まあ、人が悪いですわ、伯祥さま」
紫玲が止めるのも聞かず、伯祥は足音を立てずに老僕に近づき、耳元で「わッ!」と大声を出す。ビックリした老僕がギクリと立ち上がり、主人夫婦の姿を見てすっかり恐縮して肩を縮こませてしまった。
「申し訳ございません、老爺」
頭を掻く老僕に、紫玲が笑う。
「いいのよ、ただ、こんな寒い場所で眠ると風邪をひくわ」
「オラたちはこのくらいでは大丈夫ですよ。それよりもう、お帰りで」
馬車の垂れ幕を上げ、足置きを取り出しながら老僕が問い、伯祥が応える。
「いや、帰り道に崇仁坊の蔡氏の邸に寄ってくれ。岳父や岳母に挨拶をしなければ」
「へえ、承知です」
伯祥が先に立って馬車に乗り込み、手を掴んで紫玲を引っ張り上げる。
「私の父上は天下の父としての仕事が忙しく、私一人にかかずらわる暇もなく、私も必要以上に近づくことはできない。せめて、生きている紫玲の両親には孝養を尽くしたい」
伯祥の心遣いに、紫玲は胸の奥が暖かくなるような気持ちで微笑んだ。
本来、結婚した二人は翌朝、夫の父母を訪問する。
だが、伯祥の母連氏はすでに物故し、父である今上帝は離宮行幸中で、京師には不在であった。
わざわざの挨拶には及ばない――そんな伝言すら残していて、今上が伯祥のことを気にも留めていないのは、明らかだった。忘れられた不遇の皇子――それが伯祥の立場だったのだ。
せめて、伯祥と紫玲は連れ立ち、京師の北、白鳳山にある連氏の墓所に詣でた。
清明節のころには滴るほどの緑に溢れ、青踏の遊びに賑わう山ではあるが、春も浅い今は人もまばらで、緑も新芽が固く寒々しさばかりが勝る。
それでも紫玲は、邸第の内に咲く蝋梅を一枝手折り、せめてもの手向けとして持参した。
親王のものとしては質素な馬車に相乗りして、小高い丘の斜面を登り、墓所の石碑の前に花と酒と菓子類を並べ、紙銭を焼く。
「母上。私もこうして妻を得ることができました。末永く添い遂げられるよう、天よりお見守りくださいますよう」
数珠を手に祈る伯祥に習い、紫玲も手を合わせる。
「お義母さま。生きてお会いすることは叶いませんでしたが、伯祥さまを救け、末永くお仕えできますよう、お守りくださいますように」
紙銭を焼いた煙と、線香の煙が白く立ち上り、天へと昇っていくのを二人見上げて、どちらからともなく顔を見合わせる。早春の風は冷たくて、紫玲の黒髪が風に舞う。
「山の上は肌寒いな。……そろそろ帰ろう。ここには、清明節にまた来られるだろうから」
「はい」
伯祥の差し出す手に縋って立ち上がる。肩に纏った毛織の斗篷が風に煽られ、足元がふらついた。すかさず、伯祥が紫玲の腰をがっちりと支える。
「大丈夫か」
「はい、申し訳ありません」
「そこは礼を言うところだ」
「あ、……申し訳……じゃなくて、ありがとうございます」
伯祥が端麗な顔に笑顔を浮かべる。
「私の妻の美しさに、母上もきっと喜んでいる。……ずっと、私の将来を悲観しておられたから」
「連才人さま……でしたね」
「ああ」
馬車を待たせているところまで、ゆっくりと坂道を下りながら、伯祥が頷く。木の葉のすっかり落ちた落葉樹の間、木の根に足を取られぬように注意して、二人は進んでいく。
「母上は、長秋宮さま……皇后の婢だった。一度、主上が長秋宮さまの寝所にいらしたとき、たまたま障りがあって、代わりに差し出される形でご寵愛を賜った」
打ち明け話に、紫玲は伯祥の横顔をじっと見上げた。後宮内で皇后の住まう宮殿は長秋宮という。後宮内では妃嬪は婉曲に、住まう殿舎の名前で呼ばれるのである。
「そのたった一夜で、母上は私を身ごもった。……長秋宮さまは、それが許せなかったらしい」
「そんな……理不尽ではありませんの?」
主人の都合で皇帝の枕席に侍り、たった一夜で子を身ごもった。それが、主人の怒りを買うなんて。
「そのころ、長秋宮さまは嫁いで数年、懐妊の兆しがなくて焦っておられたらしい」
ただでさえ月の障りが訪れて落ち込んでいただろうから、怒りが抑えられなかったのかもしれないが、それにしても――
「母上は長秋宮さまから堕胎の薬を賜ったが、その頃まだ、主上にはお子がいなかったから、母上は薬を飲むか、飲まないかの板挟みに苦しみ、結局、私を生んだのだ」
伯祥の横顔が皮肉に歪む。
「私が生まれて数か月して、長秋宮さまがようやく懐妊し……私は文字通り不要な子供になった」
「伯祥さま!」
紫玲が、思わず伯祥の黒い斗篷を掴む。
「そんなことありません! 伯祥さまがいてくださらなかたら、わたしは……」
足を止めた伯祥が、紫玲の顔を覗き込む。
「紫玲……」
「私のような者の元に嫁いでくれて、本当に感謝しているんだ」
「伯祥さま、わたしは……」
伯祥の顔が近づき、唇がそっと頬に触れる。その熱が、昨夜の記憶を呼び覚まし、紫玲の顔に朱が差す。
「……行こう、紫玲」
伯祥がそっと顔を起こし、穏やかに微笑む。
静かに紫玲の手を取り、冬枯れの木立の向こうの馬車を見る。馬が退屈そうに足元の枯れ草を食み、御者を務める老僕が、切り株に座ってこっくりこっくり船をこいでいた。
「老楠め。あんなところで眠ると風邪をひくぞ?」
伯祥が笑いながら言い、紫玲を見た。
「足音を立てないように近づいて、脅かしてやろう」
「まあ、人が悪いですわ、伯祥さま」
紫玲が止めるのも聞かず、伯祥は足音を立てずに老僕に近づき、耳元で「わッ!」と大声を出す。ビックリした老僕がギクリと立ち上がり、主人夫婦の姿を見てすっかり恐縮して肩を縮こませてしまった。
「申し訳ございません、老爺」
頭を掻く老僕に、紫玲が笑う。
「いいのよ、ただ、こんな寒い場所で眠ると風邪をひくわ」
「オラたちはこのくらいでは大丈夫ですよ。それよりもう、お帰りで」
馬車の垂れ幕を上げ、足置きを取り出しながら老僕が問い、伯祥が応える。
「いや、帰り道に崇仁坊の蔡氏の邸に寄ってくれ。岳父や岳母に挨拶をしなければ」
「へえ、承知です」
伯祥が先に立って馬車に乗り込み、手を掴んで紫玲を引っ張り上げる。
「私の父上は天下の父としての仕事が忙しく、私一人にかかずらわる暇もなく、私も必要以上に近づくことはできない。せめて、生きている紫玲の両親には孝養を尽くしたい」
伯祥の心遣いに、紫玲は胸の奥が暖かくなるような気持ちで微笑んだ。
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