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小結―来世の約束
どんな美しい場所よりも
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「どんな美しい場所でも、殿下のいらっしゃらないところはいやです」
ちょっと拗ねたように言うアデライードの無邪気さに少々呆れながら、恭親王がなおも言う。
「プルミンテルンの頂の方が、いいと思うぞ。たぶん。……〈混沌〉の闇は暗いし、汚いし、もしかしたら臭いかもしれないぞ? 私も多少汚い場所なら平気なんだが、臭かったら嫌だなって思ってるんだ。だからあなたはそんな場所じゃなくて――」
「殿下と一緒がいい。――殿下が行く場所に、わたしも行きます。もう別の方と約束なさっているわけではないのなら、わたしに誓って。……次の世でも、その次の世でも、永遠にわたしの側にいると」
下から見上げてくる翡翠色の瞳の意思の強さに、恭親王は気圧されてしまう。
「あんなドロドロした醜い場所に、あなたを連れていくことなんてできない」
「どんな綺麗な場所でも、独りぼっちはいや!」
その表情が、いつかの森の中で〈シウリン〉に結婚を迫った幼い日そのままであることに、彼は気づく。
そうあの日。ボロボロの僧衣を着た貧しい見習い僧侶に、将来を誓えと強要した我儘な少女のまま――。
「でも……その……あなたはシウリンを……」
絞り出すような恭親王の言葉に、アデライードが翡翠色の瞳を尖らせてきっと睨みつける。
「さっきのわたしの話を聞いていなかったのですか? もう一度、さっきの魔法陣の話を――」
「いや、それはわかったよ。でも、シウリンのことは、そんなに簡単に思い切れるものなのか?」
「殿下は、わたしが今でもシウリンを愛しているとして、どうしてそれで平気だったのです? もしかして、欲しいのはわたしの身体だけで、心は必要ないと思っていらっしゃるの?」
「そんなわけない!……無理強いはしたくなかったんだ。それに……私はあなたを手に入れた。心まで、シウリンから奪うのも、彼に悪いと思ったから……」
恭親王は罪悪感に黒い瞳を伏せ、アデライードから目を逸らす。
本当は、そんな理由じゃない。だって、シウリンは、彼だ。アデライードがシウリンを愛してくれている。もう、この世から消えてしまった彼を、アデライードだけが――。
その事実に、彼が密かに仄暗い歓びを覚えていたなどと、言えるわけがない。シウリンを裏切って彼に身を任せたことに、アデライードが苦しんでいることを知っていたのだから。
シウリンと、ユエリン。彼がシウリンであるという真実を、いつかは告げるべきだと、彼にもわかっている。彼が真実を隠している限り、アデライードの初恋は実らない。それどころか、彼女は永久に、自身を裏切りを責め続けなければならない。――その、葛藤すら彼には愛おしく思えていたなどと、どうして口にできようか。
マニ僧都も、そしてメイローズもジュルチも、指輪をきっかけに、〈シウリン〉と〈メルーシナ〉のことに気づいた。それなのに、アデライード本人だけが、真実を知らされていない。こんな理不尽なことはないと、マニ僧都が憤るのも当然だ。アデライードの十年の献身を知りながら、どうしてそんな仕打ちができるのかと。
でも――。
〈シウリン〉であることを諦め、〈ユエリン〉として汚れた人生を生きることを決めた。
〈シウリン〉ではないから、〈ユエリン〉としてどんなことでもできた。好きでもない女を抱き、罪のない赤子をも手にかけ、城(まち)に火を放つ。
今さら、どの面下げて〈シウリン〉に戻れというのか――。
「――殿下」
返答のない恭親王の首に、アデライードが細い両腕を絡める。彼は慌てて微笑んで、アデライードを抱きしめた。
「わたし、ずっとシウリンのことは諦めていたの。もう……二度と会えない。でも、それでいいって」
至近距離から翡翠色の双眸に見つめられ、恭親王は黒い瞳を見開く。
「神器を預けて、わたしの人生にシウリンを巻き込んでしまった。エイダがあれだけ探し回っているのに、ずっと神器が出てこないということは、シウリンがあれを守ってくれているんだって、思っていたの。わたしの手元にはないけれど、神器はシウリンの手の中にある……ずっと、神器を握りしめるシウリンの手を想っていた」
長い、金色の睫毛が伏せられ、アデライードが彼の頬に白金色の髪をもたせかけるように抱き着く。
「シウリンがとっくに死んでいて、シウリンでなく殿下がそれを守っているなんて、思いもしなかった。シウリンの記憶はもう朧になって、ただ、彼の幻を心の奥底に住まわせて、辛い日々を乗り切るよすがにしていただけ。――殿下に初めてお会いしたとき、とても懐かしい気がしたの。わたしがずっと想っていた神器を守る手は、シウリンではなくて、殿下の手だったからだと思うの――」
そうだ。彼はずっと、指輪を握りしめて過ごしてきた。
ただ、この指輪を守るためだけに。その身と魂を汚されても、折れそうになりながら立ち続けた。北の辺境で、魔物の生贄に捧げられた時も。友の亡骸を氷の湖の下に沈めながら、必ず指輪を聖地に帰すと誓ったのだ。
指輪は、ただの指輪ではなくて、〈メルーシナ〉自身だった。そして、踏みにじられた彼自身――。
「アデライード……」
「だから、誓って。わたしはあなたの手の中でなければ生きていけない。たとえ離れても、わたしを同じところで待つと誓って。どれほど恐ろしい場所であっても、わたしを呼ぶと誓って。夢の中のシウリンが言ったの。幻ではダメだって。わたしを守るのは、生身の男じゃなければダメだって。でも、シウリンは言った。大丈夫、ずっと側にいるって――。殿下が相手なら、シウリンは裏切りを許してくれる。だから――」
まっすぐに、翡翠色の瞳が彼を見つめ、涙に潤んで、揺れる。いつかの森の中で見た、瞳と同じ――。
恭親王は、大きく息を吸った。
ちょっと拗ねたように言うアデライードの無邪気さに少々呆れながら、恭親王がなおも言う。
「プルミンテルンの頂の方が、いいと思うぞ。たぶん。……〈混沌〉の闇は暗いし、汚いし、もしかしたら臭いかもしれないぞ? 私も多少汚い場所なら平気なんだが、臭かったら嫌だなって思ってるんだ。だからあなたはそんな場所じゃなくて――」
「殿下と一緒がいい。――殿下が行く場所に、わたしも行きます。もう別の方と約束なさっているわけではないのなら、わたしに誓って。……次の世でも、その次の世でも、永遠にわたしの側にいると」
下から見上げてくる翡翠色の瞳の意思の強さに、恭親王は気圧されてしまう。
「あんなドロドロした醜い場所に、あなたを連れていくことなんてできない」
「どんな綺麗な場所でも、独りぼっちはいや!」
その表情が、いつかの森の中で〈シウリン〉に結婚を迫った幼い日そのままであることに、彼は気づく。
そうあの日。ボロボロの僧衣を着た貧しい見習い僧侶に、将来を誓えと強要した我儘な少女のまま――。
「でも……その……あなたはシウリンを……」
絞り出すような恭親王の言葉に、アデライードが翡翠色の瞳を尖らせてきっと睨みつける。
「さっきのわたしの話を聞いていなかったのですか? もう一度、さっきの魔法陣の話を――」
「いや、それはわかったよ。でも、シウリンのことは、そんなに簡単に思い切れるものなのか?」
「殿下は、わたしが今でもシウリンを愛しているとして、どうしてそれで平気だったのです? もしかして、欲しいのはわたしの身体だけで、心は必要ないと思っていらっしゃるの?」
「そんなわけない!……無理強いはしたくなかったんだ。それに……私はあなたを手に入れた。心まで、シウリンから奪うのも、彼に悪いと思ったから……」
恭親王は罪悪感に黒い瞳を伏せ、アデライードから目を逸らす。
本当は、そんな理由じゃない。だって、シウリンは、彼だ。アデライードがシウリンを愛してくれている。もう、この世から消えてしまった彼を、アデライードだけが――。
その事実に、彼が密かに仄暗い歓びを覚えていたなどと、言えるわけがない。シウリンを裏切って彼に身を任せたことに、アデライードが苦しんでいることを知っていたのだから。
シウリンと、ユエリン。彼がシウリンであるという真実を、いつかは告げるべきだと、彼にもわかっている。彼が真実を隠している限り、アデライードの初恋は実らない。それどころか、彼女は永久に、自身を裏切りを責め続けなければならない。――その、葛藤すら彼には愛おしく思えていたなどと、どうして口にできようか。
マニ僧都も、そしてメイローズもジュルチも、指輪をきっかけに、〈シウリン〉と〈メルーシナ〉のことに気づいた。それなのに、アデライード本人だけが、真実を知らされていない。こんな理不尽なことはないと、マニ僧都が憤るのも当然だ。アデライードの十年の献身を知りながら、どうしてそんな仕打ちができるのかと。
でも――。
〈シウリン〉であることを諦め、〈ユエリン〉として汚れた人生を生きることを決めた。
〈シウリン〉ではないから、〈ユエリン〉としてどんなことでもできた。好きでもない女を抱き、罪のない赤子をも手にかけ、城(まち)に火を放つ。
今さら、どの面下げて〈シウリン〉に戻れというのか――。
「――殿下」
返答のない恭親王の首に、アデライードが細い両腕を絡める。彼は慌てて微笑んで、アデライードを抱きしめた。
「わたし、ずっとシウリンのことは諦めていたの。もう……二度と会えない。でも、それでいいって」
至近距離から翡翠色の双眸に見つめられ、恭親王は黒い瞳を見開く。
「神器を預けて、わたしの人生にシウリンを巻き込んでしまった。エイダがあれだけ探し回っているのに、ずっと神器が出てこないということは、シウリンがあれを守ってくれているんだって、思っていたの。わたしの手元にはないけれど、神器はシウリンの手の中にある……ずっと、神器を握りしめるシウリンの手を想っていた」
長い、金色の睫毛が伏せられ、アデライードが彼の頬に白金色の髪をもたせかけるように抱き着く。
「シウリンがとっくに死んでいて、シウリンでなく殿下がそれを守っているなんて、思いもしなかった。シウリンの記憶はもう朧になって、ただ、彼の幻を心の奥底に住まわせて、辛い日々を乗り切るよすがにしていただけ。――殿下に初めてお会いしたとき、とても懐かしい気がしたの。わたしがずっと想っていた神器を守る手は、シウリンではなくて、殿下の手だったからだと思うの――」
そうだ。彼はずっと、指輪を握りしめて過ごしてきた。
ただ、この指輪を守るためだけに。その身と魂を汚されても、折れそうになりながら立ち続けた。北の辺境で、魔物の生贄に捧げられた時も。友の亡骸を氷の湖の下に沈めながら、必ず指輪を聖地に帰すと誓ったのだ。
指輪は、ただの指輪ではなくて、〈メルーシナ〉自身だった。そして、踏みにじられた彼自身――。
「アデライード……」
「だから、誓って。わたしはあなたの手の中でなければ生きていけない。たとえ離れても、わたしを同じところで待つと誓って。どれほど恐ろしい場所であっても、わたしを呼ぶと誓って。夢の中のシウリンが言ったの。幻ではダメだって。わたしを守るのは、生身の男じゃなければダメだって。でも、シウリンは言った。大丈夫、ずっと側にいるって――。殿下が相手なら、シウリンは裏切りを許してくれる。だから――」
まっすぐに、翡翠色の瞳が彼を見つめ、涙に潤んで、揺れる。いつかの森の中で見た、瞳と同じ――。
恭親王は、大きく息を吸った。
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