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14、奪われし者

プルミンテルンの頂

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 マニ僧都とジュルチ僧正による、恭親王の治療は続いていた。
 アデライードからの〈王気〉の注入を受けられなくなったが、彼の体内をめぐる〈王気〉を活性化させ、彼の自己治癒力を高める手助けを行う。火傷の傷はだいぶ引いたけれど、心臓のところにちょうど、丸く指輪の痕が残っていた。

「……これのおかげで、間一髪、命が助かったという感じだな」

 ジュルチがその痕に指で触れて言う。

「懐に、女王家の神器を入れていたんだ。それで……」

 かつて、幼いアデライードが〈シウリン〉に預けたという、神器。焼け焦げた小箱に入っていたそれを、マニ僧都も見た。
 
 マニ僧都は魔法陣を展開し、愛弟子の手首で脈をとる。

 彼が、僧院を出て、十年。マニ僧都もまた、〈シウリン〉の帰還を待ち続けた。
 死んだように眠る、弟子の黒く長い睫毛を見ながら、マニ僧都は思う。
 アデライードに託された神器の指輪を、彼はずっと守ってきたのだ。その指輪が、彼を、守った――。




 真っ暗な森の中を、冷たい雪が舞う。
 素足に藁草履わらぞうりきの足はかじかみ、爪先の感覚はすでにない。角灯カンテラの光の揺れる先に、ちらちらと雪が映る。

 雪の中を、シウリンはひたすらに歩いた。木綿の僧衣に、毛織の粗末なマント。風にあおられて、パタパタはためいた。

(早く――指輪を、返さないと――)

 彼女が大きくなったら、結婚相手に渡すのだと言っていた。生涯、誰とも結婚しないシウリンが、持っていていいものではない。

 はるか遠くに明るい光が見える。
 尼僧院の、門番小屋の灯り――あそこに、彼女がいるはず――

 その光はやがて、〈メルーシナ〉の白金色髪の輝きに変じて、ゆっくりと彼女がこちらを振り向く。
 人形を抱きかかえた、五、六歳の幼い少女。翡翠色の瞳が涙に潤んで――。

(待って、今行くから――)

 通い慣れた森の小道のはずなのに、行けども行けども、目的の場所につかない。足が重い。踏み固められた道がぬかるんで、シウリンの足が取られる。

 ずぶずぶ、ずぶずぶと、まるで雨のあとのぬかるみを歩いているかのように、身体が沈んでいく。

(――おかしい、最近、雨は降ってない。今日は初雪が降ったけど、こんなに道がぬかるむほどは――)
 
 気づいた時には、すでに腰まで黒々とした沼に嵌っていた。

(どうして――、これは――たすけ――)

 そのままシウリンは漆黒の闇に呑み込まれてしまった。




 暗闇の中に、ぽっかりと白く光る場所が見える。
 輝く、まばゆいい場所。――あそこへ、行きたい――。

 重い身体を引きずってズルズルと近づいていく。身体が、重い。手足が、動かない。それでも――。

 懸命に近づけば、その白い場所は山の頂だとわかった。一面真っ白な銀世界――。
 一人の少女が、その峰の頂に座っている。白金色の髪に、翡翠色の瞳。

(ここは――?)
(ここは、プルミンテルンの頂よ?)

 言われて振り返れば、高く聳える雪山の頂に、白い雪が降りしきっている。頭上には、煌々と輝く白い月。はるか西の空は、まだ日が沈んだばかりなのか、残照が遠い山々に反射していた。

(きみは――?)
(わたしは、人を待っているの)
(人――?)
(そう、約束したの。だから待っているの。――ここで出会って、一緒にお山を下りて、そのあとは一緒に暮らすのよ)

 少女が翡翠色の瞳を輝かせて言う。風に、長い白金色の髪が、煽られる。雪が、舞い上がる。

(あなたは、シウリンを見なかった? ずっと待っているのに――)
(シウリン? シウリンなら――)

 僕だ――言おうとして、喉が引っかかって声が出ない。おかしいと思い、喉に触れようと手を口もとに持ってくると、その手がずいぶんと大きいことに気づいた。剣だこのある、大きな、男の手。あかぎれもしもやけもない、綺麗な手。高価な油を塗りこまれ、手入れされた、労働とは無縁の手。その指には大きな、古い指輪。

 ――シウリンの、手ではなかった。
 
 風に吹かれ、目の端に黒い、前髪が落ちかかる。とっさにかきあげて、握りしめる。黒い、艶やかな髪。

 ――シウリンには、なかった髪。

 見れば、目の前には十六、七の、目を瞠るほど美しい女。まだうら若い女が寂しげに座って、彼を見上げている。長い、白金色の髪が波うち、風になびく。月の光を浴びて、女の翡翠色の瞳が煌いた。

 アデラ、イード。

 呼びかけようとするが、言葉は声にならなかった。

 女がゆっくりと彼を見て、サクランボのような艶やかな唇を動かす。

(あなたは……誰なの?〈シウリン〉なの?〈シウリン〉でないなら、なぜ、指輪はあなたを弾かないの?)

 以前、別邸の四阿あずまやで、アデライードが彼に問うた言葉。

(わたしが、約束したのは、〈シウリン〉、なの……あなたじゃ、ないの……)

 アデライードの翡翠色の瞳がみるみる潤んで、真珠のような涙が溢れ、頬に流れ落ちる。

(ずっと待っているの。〈シウリン〉を――あなたじゃなくて、〈シウリン〉を――)

 彼は雪の中に立ち尽くす。指に嵌めた約束の指輪が光り、その光が周囲に広がっていく。

(どうして、あなたがそれを持っているの――? それは、〈シウリン〉の指輪。〈シウリン〉だけが、触れられるはず。――あなたは、誰なの?)
(私は――)

 指輪を嵌めた左手をかざす。真っ赤な血に塗れた手のひらから、白い雪原に血の滴が落ちる。

(あなたは、〈シウリン〉じゃない。〈シウリン〉は、そんな黒い髪をしていない。〈シウリン〉の手はそんな風に血に汚れていない。〈シウリン〉は、どこ――?)

 アデライードに詰るように言われ、彼は喉のおくから声を絞りだす。

(〈シウリン〉は、死んだ――)
(嘘よ! ずっと待っているの。死んだのなら、〈シウリン〉はここに、プルミンテルンを昇ってくるはず。いつの日か、二人でここで会えるはず。でも、いくら待ってもやってこない。ずっと、待っているのに――!)

 そうだ、〈シウリン〉は死んだ。デュクトに犯されて、彼は、〈シウリン〉として生きることを放棄した。そして、〈ユエリン〉となり、自ら汚泥の中に身を投じた。街を焼き、人を殺し、手を血で染めて。いつか、その歪められた人生が終わりを迎えても、彼の魂が聖なるプルミンテルンに昇ることはないと、諦めて――。

 でも、彼は、〈シウリン〉
 〈シウリン〉の魂もまた、プルミンテルンの頂に至ることができない。
 アデライードと〈シウリン〉が、プルミンテルンの頂で出会う〈いつか〉は永遠に来ないなのだ。

 彼は、〈ユエリン〉としてアデライードと出会う。
 〈ユエリン〉としてアデライードに恋し、〈ユエリン〉として愛を囁く。
 〈ユエリン〉としてアデライードの肌に触れ、その純潔を汚した。すべてを手に入れ、貪った。

 彼は、約束のものを手に入れた――。

 では、アデライードは?
 彼が、〈シウリン〉であることを放棄したあの時、アデライードの恋は潰えた。永久に――。

 アデライードが幾度の人生を繰り返しても、幾星霜いくせいそうプルミンテルンの頂で待ち続けても、〈混沌の闇〉に墜ちた〈シウリン〉の魂と出会うことはないのだ――。

 (〈シウリン〉を、返して――)

 アデライードの、涙に潤んだ翡翠色の瞳が揺れる。

 (〈シウリン〉を、連れてきて。あなたじゃない、あなたじゃないの――)

 アデライードの姿が歪み、遠ざかる。彼は、そのまま、奈落の底に、引き込まれる――。

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