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3、過去の瑕
ガツンと言わなきゃ
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何をやっているのだ、あの馬鹿弟子は。
マニ僧都の眉間はいよいよ深い皺が刻まれた。
マニ僧都はもちろん、恭親王がシウリンその人であると、知っている。
彼が対外的に、〈シウリン〉の名を名乗れないのは、わかる。皇子の入れ替わりなど、とんだ大スキャンダルだ。下手をすれば、彼のソリスティア総督としての権威までぶっとんでしまう。
だが、唯一の神聖なる番であるアデライードにまで、シウリンは死んだなどと言い張る理由がわからない。確かに重要機密事項ではあるが、彼が龍種であることには変わりがなく、妻にまで秘密にする必要はない。二人が運命の番であるのならば、ちゃんと伝えて恋の成就を喜ぶべきである。でないと、初恋が実ったのは彼一人で、アデライードの方は初恋の人は死んだと聞かされているのだ。それでは二人の間に温度差があって当然だ。
「アデライードは、まだシウリンのことが諦められないの?」
「……亡くなった方をいくら思っても仕方がないと思っていましたけれど、今、伯父様に改めてシウリンは死んだと言われて、とてもショックでした。たぶん、心のどこかで、殿下がシウリンではないのかと、疑っていたのかも、しれません。でも、確かに――殿下がシウリンであるのに、違うと言い張る理由がありませんもの」
バカですね、と真っ赤に泣きはらした目で俯くアデライードに、真実を伝えるべきかとマニ僧都は迷う。だが――
(これは、私が迂闊なことを口走ると、二人の仲が拗れかねないぞ)
アデライードはかなり執拗に食い下がったらしいのに、恭親王ははっきり否定したというのだ。
(いったい何を考えているんだ、あの馬鹿弟子は――!)
アデライードに対する深い同情と、弟子への憤懣やるかたない思いで眉間に皺を寄せていたマニ僧都に、アデライードが問いかける。
「その――シウリンは、僧院ではどんな風だったのですか?」
「ええっ……ああ。その、見かけは良かったから人気者でね、よからぬ思惑の僧侶たちが、競って珍しい食べ物を貢いでいたのに、本人は鈍くてね、よく私のところにも蜂蜜なんかを分けてくれたよ。色恋にはてんで疎くて――見かけだけじゃなくて、中身も誰かさんにそっくりだ」
「僧院で色恋?」
意味が分からなくて首を傾げるアデライードに、この話題はまずかったかと、マニ僧都は盛んに咳払いをしてごまかす。
「シウリンは――わたしが、約束を破って他の男の妻となっていると知ったら、恨むと思いますか?」
ぽつり、と伏し目がちに言ったアデライードの言葉に、マニ僧都ははっとした。
「アデライード……それは……シウリンは――」
マニ僧都はどう、答えるべきか、迷う。しばらくその青い瞳を閉じて考える。
「……彼は僧だよ。そんなことでアデライードを恨んだりしないよ。あの子はいつも、自分よりも他者の幸せを考えるようなところがあった。たとえシウリンが生きていたとしても、アデライードの幸せを願うに決まっている」
「そうでしょうか……」
「アデライードは今、幸せ?」
まっすぐに問いかけられて、アデライードは翡翠色の瞳でマニ僧都を見つめる。
「……幸せ……だと思います。殿下は、普段はお優しいから……」
マニ僧都は、アデライードの首元にわざとらしく巻かれたスカーフと、全く隠しきれずにそこから覗くいくつも赤い鬱血痕を見て、やれやれと思う。
「アデライード、シウリンのことは、いずれ時がくれば君の中で解決すると思う。今大切なのは、目の前の相手を君が愛せるかどうか、だよ?」
「……殿下は、わたしが〈聖婚〉の王女だから、大切にしてくださるのかしら?」
「なぜ、そう思うの?」
「だって……」
アデライードは金色の長い睫毛を伏せて、言う。
「お名前をお呼びしたら、すごく怒ったの」
「名前――」
「アンジェリカもミハル様も、夫婦は名前で呼び合うのが普通だって言うから、ユエリン様、って言ったら、人が変わったみたいになって……」
(本日何度目かの、あの馬鹿弟子が―――っ!)
マニ僧都はさすがに我が弟子の阿呆さ加減に呆れて言葉も出なかった。
(自分で正体を隠しておきながら、違う名前呼ばれて激昂とか、ほんっとーにアホ過ぎ! あんなド阿呆にこの麗しアデライードは勿体ないにもほどがあるわっ!)
「アデライード、怒っている時は怒っていると言っていいんだよ? そうでないと、きっと馬鹿は図に乗るからね? ああいうニブチンには、ガツンと言ってやらないと!」
「……今朝は、怒っていることを表現するために、口をききませんでしたが……やっぱりガツンと言わないとダメでしょうか?」
恐る恐る尋ねるアデライードに、マニ僧都は人差し指を立てて諭すように言った。
「アデライードは普段から口数が少ないんだから、口をきかないくらいじゃあ、通じるわけないじゃないか。何事も、きちんと言葉にしないと通じないよ? 夫婦の間でも、ガツンと言う時は言わないと」
「そうでしょうか……なかなか、ガツンと言う、勇気がなくて……」
悄然と項垂れるアデライードを、マニ僧都は励ました。
「アデライード、私の目から見ても、殿下は君をとても大切に思っているよ。少し、暴走気味ではあるがね? 君が〈聖婚〉の王女かどうかなんて、きっと彼にはもう、どうでもいいことだよ。君が君であることが、彼には重要なんだ――だから、言いたいことがあったら、はっきり言わなきゃ」
アデライードはその言葉を聞いて、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……わかりました。勇気を出して、ガツンって、言ってみます……」
マニ僧都の眉間はいよいよ深い皺が刻まれた。
マニ僧都はもちろん、恭親王がシウリンその人であると、知っている。
彼が対外的に、〈シウリン〉の名を名乗れないのは、わかる。皇子の入れ替わりなど、とんだ大スキャンダルだ。下手をすれば、彼のソリスティア総督としての権威までぶっとんでしまう。
だが、唯一の神聖なる番であるアデライードにまで、シウリンは死んだなどと言い張る理由がわからない。確かに重要機密事項ではあるが、彼が龍種であることには変わりがなく、妻にまで秘密にする必要はない。二人が運命の番であるのならば、ちゃんと伝えて恋の成就を喜ぶべきである。でないと、初恋が実ったのは彼一人で、アデライードの方は初恋の人は死んだと聞かされているのだ。それでは二人の間に温度差があって当然だ。
「アデライードは、まだシウリンのことが諦められないの?」
「……亡くなった方をいくら思っても仕方がないと思っていましたけれど、今、伯父様に改めてシウリンは死んだと言われて、とてもショックでした。たぶん、心のどこかで、殿下がシウリンではないのかと、疑っていたのかも、しれません。でも、確かに――殿下がシウリンであるのに、違うと言い張る理由がありませんもの」
バカですね、と真っ赤に泣きはらした目で俯くアデライードに、真実を伝えるべきかとマニ僧都は迷う。だが――
(これは、私が迂闊なことを口走ると、二人の仲が拗れかねないぞ)
アデライードはかなり執拗に食い下がったらしいのに、恭親王ははっきり否定したというのだ。
(いったい何を考えているんだ、あの馬鹿弟子は――!)
アデライードに対する深い同情と、弟子への憤懣やるかたない思いで眉間に皺を寄せていたマニ僧都に、アデライードが問いかける。
「その――シウリンは、僧院ではどんな風だったのですか?」
「ええっ……ああ。その、見かけは良かったから人気者でね、よからぬ思惑の僧侶たちが、競って珍しい食べ物を貢いでいたのに、本人は鈍くてね、よく私のところにも蜂蜜なんかを分けてくれたよ。色恋にはてんで疎くて――見かけだけじゃなくて、中身も誰かさんにそっくりだ」
「僧院で色恋?」
意味が分からなくて首を傾げるアデライードに、この話題はまずかったかと、マニ僧都は盛んに咳払いをしてごまかす。
「シウリンは――わたしが、約束を破って他の男の妻となっていると知ったら、恨むと思いますか?」
ぽつり、と伏し目がちに言ったアデライードの言葉に、マニ僧都ははっとした。
「アデライード……それは……シウリンは――」
マニ僧都はどう、答えるべきか、迷う。しばらくその青い瞳を閉じて考える。
「……彼は僧だよ。そんなことでアデライードを恨んだりしないよ。あの子はいつも、自分よりも他者の幸せを考えるようなところがあった。たとえシウリンが生きていたとしても、アデライードの幸せを願うに決まっている」
「そうでしょうか……」
「アデライードは今、幸せ?」
まっすぐに問いかけられて、アデライードは翡翠色の瞳でマニ僧都を見つめる。
「……幸せ……だと思います。殿下は、普段はお優しいから……」
マニ僧都は、アデライードの首元にわざとらしく巻かれたスカーフと、全く隠しきれずにそこから覗くいくつも赤い鬱血痕を見て、やれやれと思う。
「アデライード、シウリンのことは、いずれ時がくれば君の中で解決すると思う。今大切なのは、目の前の相手を君が愛せるかどうか、だよ?」
「……殿下は、わたしが〈聖婚〉の王女だから、大切にしてくださるのかしら?」
「なぜ、そう思うの?」
「だって……」
アデライードは金色の長い睫毛を伏せて、言う。
「お名前をお呼びしたら、すごく怒ったの」
「名前――」
「アンジェリカもミハル様も、夫婦は名前で呼び合うのが普通だって言うから、ユエリン様、って言ったら、人が変わったみたいになって……」
(本日何度目かの、あの馬鹿弟子が―――っ!)
マニ僧都はさすがに我が弟子の阿呆さ加減に呆れて言葉も出なかった。
(自分で正体を隠しておきながら、違う名前呼ばれて激昂とか、ほんっとーにアホ過ぎ! あんなド阿呆にこの麗しアデライードは勿体ないにもほどがあるわっ!)
「アデライード、怒っている時は怒っていると言っていいんだよ? そうでないと、きっと馬鹿は図に乗るからね? ああいうニブチンには、ガツンと言ってやらないと!」
「……今朝は、怒っていることを表現するために、口をききませんでしたが……やっぱりガツンと言わないとダメでしょうか?」
恐る恐る尋ねるアデライードに、マニ僧都は人差し指を立てて諭すように言った。
「アデライードは普段から口数が少ないんだから、口をきかないくらいじゃあ、通じるわけないじゃないか。何事も、きちんと言葉にしないと通じないよ? 夫婦の間でも、ガツンと言う時は言わないと」
「そうでしょうか……なかなか、ガツンと言う、勇気がなくて……」
悄然と項垂れるアデライードを、マニ僧都は励ました。
「アデライード、私の目から見ても、殿下は君をとても大切に思っているよ。少し、暴走気味ではあるがね? 君が〈聖婚〉の王女かどうかなんて、きっと彼にはもう、どうでもいいことだよ。君が君であることが、彼には重要なんだ――だから、言いたいことがあったら、はっきり言わなきゃ」
アデライードはその言葉を聞いて、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……わかりました。勇気を出して、ガツンって、言ってみます……」
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