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3、過去の瑕

愛情の不均衡

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 婚約式の日以来、十年ぶりに声を取り戻したアデライードだが、しかし相変わらず無口で、感情を表に出すことも少ない。ゾラなどはいまだに「頭が弱い」と思っているし、実際、恭親王もアデライードが何を考えているのかわからない。もしかしたら何も考えていないのではないかとすら、思うことがある。恭親王自身、もし十年前の、声を失う前の彼女を知らなければ、アデライードを見かけばかり美しいが中身のない、人形のような女だと決めつけていたかもしれない。

 この半年でアンジェリカやリリアらと話したり、アリナに剣術の指南を受けるようになり、空虚な玻璃ガラスのようだった彼女の表情は、見違えるように豊かになった。だがまだ、かつて見習い僧侶の〈シウリン〉に見せたような、天真爛漫な姿を取り戻すことはできていない。

 余剰魔力が澱み、思考が混濁していた影響もあって、ゾラやトルフィンが言うようにアデライードは年齢の割に情緒の発達が遅れている。自分の殻に閉じこもって過ごした時間が長すぎて、積極的に周囲の者と交流しようという気が、そもそもないらしい。周囲の思惑を気にせず、我が道を行くマイペースぶりは、それはそれでよいのだが、周囲を気遣い、周りに合わせていこうという気がないのだ。

 結婚以来、恭親王は二人きりになれば(二人きりでなくとも)必ずアデライード抱き寄せ、耳元で濃厚に愛を囁いているのに、アデライードは恥ずかし気に頬を染めて俯いてしまうだけ。ごくまれに、ベッドの上で小さな声で「すき」と囁いてくれることもあったのだが、それだけで天にも昇る心地になって、その後散々に滾る思いをぶつけてしまったのがいけなかったのか、最近はそれすらも言ってくれなくなった。焦るまいとは思うが、一方通行の愛に、恭親王は実のところ、かなり傷ついていた。

 例えばどうしても仕事が押してしまい、夕食の時間までに恭親王が食堂まで行けない時でも、アデライードは時間になれば彼を待つことなく食べ始めてしまう。その後遅れてきた恭親王がまだ食事中だというのに、アデライードは自身が食べ終わると当然のように席を立とうとした。「食べ終わるまで待っていて欲しい」と恭親王に言われて、初めてそれに気づくくらい、何の躊躇ためらいもなく一人で先に引き上げるつもりであったらしい。夕食後も仕事が残っていて、「先にやすんでいてくれ」と言われれば、少し不思議そうな顔で頷いていたのだが、あれは言われるまでもなく、先に寝るつもりだったからだろう。

 かつて、帝都で邸に置いていた側室は、夕食を約束すればどんなに恭親王が遅くなっても食べずに待っていたし、今夜行くと伝えておけば、明け方まで起きて彼を待ち続けていた。そういうのが重たく、また少しばかり鬱陶しくて、わざと連絡を入れずにすっぽかしてみたこともある。
  アデライードと暮らすようになり、どんなに遅くなっても女は彼を待つものだと無意識に思い込んでいた自分に気づき、恭親王は茫然とする。アデライードとの関係は、これまでの女たちとは根本的に違うのだ。

 聖地の僧院を出て以来、彼は十七の歳まで帝都の後宮で育つ。後宮には秀女と呼ばれる皇子の側室候補たちがひしめき合い、皇子の寵愛を競いあっていた。
 龍種である皇子たちは、強い魔力に満ちた精を持っていて、魔力耐性のない平民の女にはその精は猛毒である。甘やかされて育った皇子たちを野放しにすれば、欲望のままに平民の侍女を襲い、花街にしけこんで娼婦を犯しまくるのは火を見るより明らかで、被害に遭う女が続出するに違いない。それを防ぐために、帝国全土から魔力耐性のある下級貴族の令嬢たちを秀女として集め、皇子の性欲処理のために各皇子の宮に宛がっているのである。皇子専用の娼婦とまで揶揄されるそんな女たちに囲まれて、彼ら皇子たちの女性観が歪まないはずはない。女というものは、彼らに対して品を作り、媚びを売り、誘いをかけ、自ら脚を開く者たちばかりであった。

 圧倒的な身分差の上で成り立つ身体だけの関係と、身分を隠して興じる一夜の恋愛遊戯。
 無駄な経験値だけはやたら稼いでいるが、真に愛する女と真正面から向き合ったことなど、恭親王にはないのだ。

 今、ようやく真実愛する妻を手に入れて初めて、恭親王は自らの経験不足に愕然とする。
 これまで、どんな女も身体だけの関係だと割り切っていた恭親王は、アデライードの心をどうやって手に入れたらいいのか、ただただ戸惑い、困惑し、焦燥のあまりその華奢な身体を貪って、耳元で馬鹿の一つ覚えのように「愛している」と繰り返すばかりである。

(焦るな……嫌われているわけじゃない。たいがいしつこいと思われていそうだけど)

 アデライードが心の底で愛しているのは〈シウリン〉だと知っているし、彼はその位置を奪うつもりはなかった。存在すらも消されてしまった〈シウリン〉を、アデライードだけはいまだに愛し続けてくれている、そのことが彼の心を充たしている。だが、〈シウリン〉だけでなく、目の前にいる自分も愛してほしい。彼女の身体はもう、彼のものだが、その奥にある心も、やはり欲しいと思ってしまうのだ。

(難しいものだな。――かつての側室レイナも、正室ユリアも、私を愛していたらしいが、私にはその愛は不要なものだった)

 側室レイナの愛は真っ直ぐに、正室ユリアの愛は歪んだ形で、恭親王はどちらの感情にも気づいてはいたが、もとよりそれに応えるつもりもなかった。彼が愛しているのは今も昔もただ一人であるから。だが、今、その一人に対峙して、自己の気持ちを野放図にぶつけているだけの状態では、ただ鬱陶しいと思われているに違いない。かつて、彼が女たちに感じていたのと同様に――。

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