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13、世界樹

湿原を抜けて

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 大きな河の支流が蛇行して流れ、所々三日月型の池のようになっている。さらに、背の高い葦の茂みに隠されて、どこに水があるのかわからない。最悪、葦の茂みと枯れた葦に隠されて、湿地に踏み込んでしまうかもしれない。ブーツを履いているシウリンはともかく、足首までの長衣にサンダル履きのアデライードが、自力でこの湿原を超えるのは無理だ。
 
 シウリンは方向を変えるべきかと振り返る。だが――。
 エールライヒが不吉な鳴き声を上げて飛び上がる。すでに、湿原の入口まで、黒い影のような魔物たちは迫りつつあった。

 ――奴等のスピードが上がっている?

 どの方向に逸れれば湿原を回避できるかすら、わからないし、背後から黒い奴等が迫っている以上、少しでも北に逃れる以外になかった。シウリンは覚悟を決めると、アデライードを横抱きにして、湿原に踏み込む。アデライードは驚いてシウリンの首に両腕で縋りつき、言った。

「シウリン、無理よ!わたしは一人で――」

 だが次の瞬間、シウリンが踏みしめた枯れた葦は、シウリンの体重でぐにゃりと沈んで、足元に水がにじみ出る。そのまま構わず突っ走ると、いくらも行かないうちに広い水溜まりにぶつかり、盛大に水飛沫があがる。

 アデライードもそれを見て、シウリンが彼女を抱き上げた理由を悟り、大人しく首筋にしがみついている。

 身長ほどの高さまで伸びた、葦の間をかき分けるように、シウリンは走り続ける。時々バシャバシャと水飛沫をあげて、それがアデライードにも降りかかる。時には泥濘でいねいに足を取られ、よろめきそうになりながらも、それでもシウリンはアデライードを落とさないように大事に抱きかかえ、とにかく黒い影から逃れようと走り続ける。
 ソリスティアよりもかなり南に位置するその土地では、空気は乾き、夏の太陽が凶悪なまでに照り付け、気温も上昇を続ける。シウリンの額に玉の汗が浮かび、こめかみから頬を伝って、顎からぽたぽたと滴る。アデライードはただ振り落とされないよう、しがみついているだけの自分が情けなくて泣きたくなった。

 以前、聖地の《港》の石畳の路地でさえ、アデライードは走り切ることができず、彼に迷惑をかけたのだ。こんな足元の悪い湿原を、サンダル履きで走れるはずがない。それはアデライードにもよくわかる。

(何とか、逃げるために、わたしのできることは――)

 ただ守られるだけじゃない、強い自分になりたいと誓ったはずなのに。こんな風に彼にしがみついて、文字通りの〈お荷物〉になっているなんて――。

 アデライードは彼の腕の中で周囲を見回して、何か自分にもできることはないか必死に考えようとするけれど、走り続けるシウリンに横抱きにされている状態では、舌を噛まないようにするので精一杯だった。
 
 太陽が中天にかかり、気温はさらに上昇する。

 ――もしかして、太陽の〈気〉が強まるにつれて、あの影のような魔物の力も強くなるのだろうか。

 魔物は〈陽〉の気を纏っているから、あり得ることだとアデライードは思う。だとすれば、太陽が中天にあるこの時間、彼らの力は最も強く、おそらくスピードも上がる。

 そう思ってアデライードがシウリンの肩越し目をやれば、葦の茂みの隙間に、黒い影がちらちらと蠢いている。さっきよりも明らかに、彼らとの距離は縮まっていた。

「シウリン、向こうから、アレが――」
「わかってる、アデライード、もう少しだけ……」

 とにかく湿原を抜け、乾いた地面のある場所に行かなければ、休むこともできない。
 魔力で筋力と持久力を強化しているとはいえ、アデライードを横抱きにして走り続け、シウリンも疲労がたまっていた。体中汗びっしょりで、どこかで休んで水分を補給しなければ、脱水状態に陥って倒れてしまう恐れもある。湿原の向こうに木立を認めて、シウリンはせめてそこまでと、思い定めて走る。

「シウリン、無理しないで! わたしも下りて走るから!」
「大丈夫、あと少しだから――」

 バシャバシャと水音をたてて水溜まりを踏み越えていると、ずぼっと足が深みに嵌ってシウリンが思わずよろめく。葦の茂みで視えなかったが、そこは水の流れが集まって、小さな川のようになっていた。シウリンはアデライードを抱え直すと、膝まで水につかりながら、澱んだ水を越える。

「ごめん、アデライード、汗を、拭ってくれるかな。目に入って痛い……」

 シウリンに言われ、アデライードは慌てて自分の長衣の裾を引っ張り上げてシウリンの額の汗を拭った。白い脚が露わになってしまったけれど、気にする余裕もなかった。
 
 上空を旋回しながら飛んでいたエールライヒが、ピギャーと一声高く鳴いた。川は幾筋もの流れに分かれていて、蛇行しながらちょろちょろと流れていたが、鷹はひらりと川を越えて、その向こうの森の木立の枝に止まり、二人を呼ぶように羽ばたく。

 あと少し、とにかくあそこまで――。

 何とか流れをつっきって、シウリンはアデライードを抱え直すと、力を振り絞って走る。エールライヒが止まる木の下にたどり着いた時にはすっかり息があがり、アデライードをドサリと降ろすと、木の幹に寄りかかるようにして膝をついた。

「シウリン!」
「……大丈夫、ここで、休憩、する……」
 
 シウリンが革の水筒を腰から外し、ごくごくと喉を鳴らして飲んで、その後アデライードに渡してきた。

「わたしは大丈夫、何もしていないから。シウリンが飲んで」
「いや、気温が高いのは同じだよ。喉が渇いていなくても、飲める時に飲んでおくんだ」

 シウリンはずた袋から塩の袋を取り出し、それを少しだけ舐める。シャツの袖で額の汗を拭い、木の幹に凭れてぐったりと座り込む。しばらく立ち上がる気力もなさそうなシウリンに代わって、アデライードは立ち上がると、川の向こうに目を凝らした。

 黒い影はやはり二人を目指して北へと進んで、湿原を埋め尽くすように近づいてきていた。
 
(でも、あれが〈陽〉の気を纏うのだとすれば、〈陰〉である水は嫌うのではないかしら――)

 何となくだが、湿原に入ってからの動きは遅いようにも見える。

「……来たわ……彼ら、水を怖がっているわ」
「今だけだよ……たぶん、そのうち渡ってくる……」

 息が整ってから、シウリンが言った。その通り、黒い影のような奴等は最初は躊躇したように見えたが、やがて、ぞろぞろと水を渡り、周囲を埋め尽くして二人を目指してやってくる。

「この程度の水なら、たぶん奴等の方が強いんだよ。今は日も高いし、一番力のある時間帯だ。――そろそろ、動かないと……」

 彼らの通り過ぎた跡はしおれて黒く枯れていた。生命力を奪われているのだ。

 ――触っただけで、おそらくは相当の魔力エネルギーを吸い取られるということだ。あの数に囲まれれば、まず命はない。

「シウリン、このくらいの距離ならきっと大丈夫よ! 攻撃するわ!」
「攻撃?……そっか、攻撃魔法が使えるんだったね」

 シウリンがはっとして身を起こす。シウリンはマニ僧都の治癒魔法は見たことがあるが、魔法での攻撃を見たことはなかった。シウリンは魔力量だけはすごいらしいのだが、魔力を体外に放出することができない。――いつか、魔法陣を発動させるのが夢だったのだ。

 シウリンが目を輝かせている横で、アデライードが青白い攻撃魔法陣を呼び出す。転移の魔法陣もすごいけれど、これも結構な大きさだ。マニ僧都が呼び出すものの、ざっと三倍はありそうだった。

「すごい……」

 魔法陣に描かれた真言マントラから、青い光の龍が幾匹も立ち上る。バチバチバチバチ……青い火花を発しながらのたうったそれらが、宙を飛んで、寄ってくる黒い影へと一斉に飛んでいく。ざわざわと不吉に蠢く黒い影の集団を切り裂くように、青い光の龍が獰猛に攻撃を仕掛けていくのだが――。

 実体のない黒い影を光の龍は通り抜けてしまい、虚しく地面に激突するだけだ。黒い影たちは全く損傷も受けず、そのままぞろぞろと歩みを止めずに近づいて来る。――むしろ、放出されたアデライードの魔力を吸って、力を増したように、シウリンには見えた。

「どうして?! どういうこと?」
「――効いてない。そうか、奴等には実体がないから、物理的な攻撃は効果がないんだ」
「そんな!」
 
 アデライードは茫然と立ち尽くしている。しかし頭を振って、もう一度、今度はより大きい光の龍を呼び出す。

「力が、足りなかったのかも、今度こそ――」
「待ってアデライード、魔力の量の問題じゃあないんじゃ……」

 シウリンが止めるのも聞かず、アデライードはもう一度攻撃するが、今度も結果は同じであった。

「そんな! 攻撃魔法が効かないなんて、どうしたら!」
 
 アデライードは両手て頬を包んで叫ぶ。攻撃が効かなかったことで、パニックを起こしかけ、魔法陣からバチバチと火花が散るのを見て、シウリンが本能的にヤバイと思う。

「落ち着いてアデライード! とにかく魔法陣を閉じて!」

 魔法陣が消えると、シウリンはアデライードに駆け寄り、抱きしめる。 
 
「アデライード、落ち着いて、大丈夫だから。とにかく今はここから離れよう」
 
 その額に軽く口づけると、シウリンは強いて笑顔を作って言った。

「アデライード、もう少し、走れる?」
「――シウリン、ごめんなさい。役にたたなくて。……今度はわたしも走るわ」
「無理しないで、辛くなったらすぐに言って」

 シウリンは水筒を腰に下げると、再びアデライードの手をとって走り始めた。
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