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11、再生の繭

記憶封印

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 何時間、眠っていたのか。アデライードは目を覚まして起き上がる。
 膝の上には彼女の夫が、静かな寝息を立ててまだ眠っている。

(よかった――まだ生きてる!)
 
 ほっと安堵の吐息を漏らして、アデライードは頭を振る。頭痛はない。完全にではないが、魔力がほぼ回復していた。

(この繭、魔力を回復させる効果があるんだわ……)

 そう言えば、『聖典』に、始祖女王ディアーヌが傷ついた龍騎士を救う時に、繭を作って中に魔力を込めて治療した、というような記述があったことを思い出す。

(なるほど、これのことだったのね……)

 この中にいれば、少なくとも魔力が空気中に溶けて消えてしまうことはないのだろう。彼がまだ生きているのは、このおかげかもしれない。

 とにかく、早く治療しなければ――。
 ここがどこなのか、考えてもわかるはずはない。先に殿下にある程度の治療を施して、それから考えよう。もしダメならば、ここで二人で朽ちてしまっても、もう仕方ない。

 半ば開き直って、アデライードは体勢を立て直して恭親王の頭をそっと床に下す。ずっと膝の上に彼の頭を載せていたせいで、両脚は痺れて感覚がなかった。
 アデライードはまず、天鵞絨ビロードのマントをくつろげて、恭親王の身体に物理的な傷がないかを確認する。マントの下は薄汚れた長衣を着ていて、アデライードは眉を顰める。埃っぽいし、変な臭いが染みついていたので、アデライードはそれを脱がしてしまった。相変わらず均整のとれた、綺麗な身体ではあったが、やはり痩せていた。身体のあちこちに赤い鬱血の痕があり、手首は手枷を嵌められていたせいで、擦り傷ができていた。左胸のちょうど心臓の位置あたりに神器の丸い火傷の痕が残っていて、アデライードはそれを愛おし気に指先で触れる。 

 ふと思いついて、自分が首に下げていた神器の指輪を通した金鎖を、彼の首にかける。やはりこれは、彼に持っていてもらいたいから。
 それからおいしょと彼をひっくり返し、背中や脚にも傷がないか確認して、もう一度仰向けに寝かせる。
 
 恭親王の手を取ると、彼の魔力の循環は止まっていた。というよりも、循環すべき魔力がほぼ枯渇している。アデライードは魔力が奪われたとすればあるはずの〈瑕〉を探す。魔力が流れていないと〈瑕〉を探すのも困難で、アデライードは自身の魔力を恭親王の体内に流してその動きを追おうとした。

 だが――。

 さっき、太極殿たいごくでんの庭でもそうだったが、彼に魔力が入らない。そう、これは、拒否だ――。

「どうして……殿下、お願い、治療を受け入れて」

 アデライードが耳元で囁く。だが彼は死んだように眠ったまま、ピクリとも動かない。青白い頬は痩せこけていて、無精ひげが生えている。その頬に手を触れ、額に唇を寄せてもう一度呼びかける。
 右耳の翡翠を口に含み、魔力を付与する。お願い、少しでも――。

 心が折れてしまったのだという。どれほどのひどい目に遭ったというのか。アデライードの目が涙で滲んで目じりから涙が流れ落ち、それが恭親王の蒼白い頬に滴る。

 もっと早く行動に移すべきだったのだ。自分だけ、ソリスティアで安寧を貪って――。

「お願い、一人で逝ってしまわないで。――逝くときは一緒に連れていって」

 どうしたらいいのかわからず、アデライードはただひたすら、恭親王を抱きしめて涙を流す。彼の受けた苦痛も何もかも、全て肩代わりできればいいのに。心を折るほどの苦しみをすべてなかったことにできればいいのに――。

 そう、考えてアデライードはハっとする。

 辛い目に遭って心が折れた。――だったら。
 
 その辛い記憶をなくしてしまえば、心が折れる前の彼に戻れるだろうか。

(とにかく今だけでも、治療だけでも受け入れてくれれば――)

 アデライードは考える。アデライードの中には始祖女王から受けついた記憶がある。それは封印されて母から譲渡されたものだ。

(だったら、殿下の記憶を一部封印することもできるのでは――)

 アデライードは矢も楯もたまらず、心の中の記憶庫に降りていく。記憶庫の中の仮想のカードを繰って、アデライードは目当ての魔法陣を探す。

(――記憶削除――でも、これだと記憶自体が消えてしまう)

 もともとは、女王の記憶を受け継ぎ、移譲していく過程で、不要な部分を削ぎ落して記憶容量を減らすために利用する魔術だ。生きる気力を奪うほどの辛い記憶だとしても、それは恭親王の記憶だ。それを、本人の了承もなく消してしまうのはまずい気がした。

(――あった、記憶封印――これなら――)

 女王の記憶を受け継ぐために、記憶を複写コピーして凍結梱包し、次の女王に明け渡す魔術。これなら必要があれば再び開くことが可能だ。複写しないで凍結梱包すれば、ひとまず恭親王の中でその記憶は封印されてしまうはずだ。アデライードはその魔法陣を抱えると、浮上して目を開く。身体を起こし、黒い睫毛を伏せて死んだように眠り続ける恭親王を見下ろす。

「殿下――辛い記憶はしばらく封印します。だから――辛いことは忘れて、治療を受け入れて」

 アデライードは彼の額に右手を置くと、拾い上げてきた魔法陣を自身と彼の周囲に展開する。薄い黄緑色の光が広がり、複雑な真言が大理石の床に浮かび上がる。光が輝きを増して二人を包む。

(生きるのが辛いと思うほどの辛い記憶、彼の心を折るほどの苦しみの記憶――全部、封印して――)

 額に当てた掌を通して、アデライードの魔力が恭親王の精神に干渉する。治療の魔力は弾かれたけれど、心が折れてしまったせいなのか、精神への干渉は驚くほど無防備だった。本来ならばいったん複写する記憶を、その過程を飛ばして封印しなければならない。

 しかし、ここでアデライードは困惑する。封印してしまう記憶の起点をどこに設定するのか。

(この一月分くらい……ってどのくらいの量になるのかしら)

 アデライードは恭親王の記憶を覗くのに躊躇ためらいがあった。治療のためとはいえ、それはすべきではないし、彼の心を折るほどの記憶を覗けば、アデライードの心もまた動揺して、魔力が制御コントロールを失うかもしれない。
 記憶の幕の外側から、手探りで探るよう撫でていくと、一カ所、温かい場所があった。彼が、幾度もそこを訪れ、思い返しているらしい場所。――つまり、彼がいつも帰りたいと思う場所。

(少なくともこの場所なら、殿下は傷つかずに過ごせる――)

 明らかに一か月どころの記憶量でないのにも関わらず、アデライードは何かに吸い寄せられるように、そこを起点と定め、魔法陣を発動した。
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