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8、不完全なるもの
綻びた結界
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「本当にあれだけでよかったのですか?」
ソリスティアに戻ってきたマニ僧都に、アデライードが尋ねる。
ただ転移魔法でシルルッサに行き、領主たちにちょっと挨拶しただけだ。
「転移魔法で登場するだけで、どれだけすごいと思っているの」
マニ僧都に言われ、アデライードは眉尻を下げる。
「でも、もともと受け継いでいる記憶にある魔法陣を呼び出しているだけですし、わたしが個人的に何か努力をして成し遂げたわけでもないので……」
魔力制御が上手くいっているのは、番の魔法陣と恭親王の魔力のおかげだし、アデライード自身が何か頑張ったわけではない。何だか他人の力で無駄な賞賛を得ているようで、アデライードは心苦しかった。
「女王に求められることは、ただ女王であることだけだよ。魔法陣と魔力を受け継いでいることが、すなわち女王の女王たる証だ。だからそれを示しさえすればいい――強いて言えば、あんなところで赤ん坊のお祝いの話をするのは、今後はダメだよ? 公と私はきっちり分けるんだ。女王は公人なんだから」
マニ僧都に苦言を呈されて、アデライードは小さく頷く。シルルッサに来いと言われて、咄嗟に生まれたばかりの姪っ子のお祝いのことばかり考えてしまっていた。つくづく女王失格だと、自分でも思う。殿下が留守の間、ソリスティアの主として、総督府を守らなければならないのに、いつまでも他力本願で、頼りないこと――。
アデライードが自身の不甲斐なさにそっと溜息をついた時。
マニ僧都がアデライードに尋ねる。
「その後、結界の様子は変化なし?」
アデライードは力なく首を振る。
「はっきりとは――ですが、以前とは空気が明らかに違っています。もし、結界が破れたのだとすれば、自然に塞がることはあり得ません」
「だろうね――」
マニ僧都も頷く。〈禁苑〉にも報告はしているが、何分、はっきりと確証のあることではないので、表立って動くことはできない。
「〈禁苑〉からはホーへルミアの月神殿を通じて南方の調査をさせると言ってきたが――」
「わたしの思い違いであればいいのですが――」
だがアデライードには確信があるようだった。
今、ナキアの注意はカンダハルと帝国に向いているだろう。だが、本当の脅威はおそらく南からやって来る。代々の女王が護り続けてきた結界がついに綻びたと知った時、ナキアは――そして、アルベラはどう動くのか。
「アデライードの考えでは、冬至の夜までなら、何とかなると――」
マニ僧都の問いに、アデライードが目を伏せる。
「結界は、まだ完全に弾けたわけではありませんから。始祖女王が構築した各地の柱となる部分はほぼ無傷で残っているし、そこから張り直すくらいなら、わたしでも何とか――もちろん、殿下の助けがあってのことですけれど。本当に冬至に弾けるのかどうかもわかりません。ですが、今の不安定な状況が続けば、陽の気が最も弱まる冬至の夜には、東の方で異変が起こる可能性が高い。それが西にも影響を及ぼすのではないかと――勝手な、推測です」
根拠は、ないに等しい。だが、この姪が持つ力が並外れていることをマニ僧都は知っている。しかしその力を支えている恭親王は、今、ここにはいない。
「本当に、なんて最悪のタイミングで……」
マニ僧都が唇を噛むが、すぐに気づく。――すべては、イフリート公爵の思惑通りなのだ。
「イフリート公爵は、再現された〈混沌〉の世を、どうやって維持していくつもりなのか――」
そんな世界を支配していくのに、どんな成算があるというのか。マニ僧都にはさっぱり想像がつかなかった。アデライードがじっと窓の外を見つめて、言った。
「たとえ新しい世界が本当に素晴らしいものであったとしても、古き世を破壊すれば大きな犠牲が出ます。たとえ今の世界がどれほど理不尽であっても、イフリート公爵の抱く理想がどれほど麗しいものであっても、有無を言わさず旧き世を壊していいわけはありません。わたしたち龍種と貴種は、この世界を護る責任を天と陰陽から負っています。――最後の、瞬間まで」
アデライードの翡翠色の瞳が、マニ僧都の青い瞳と交わる。
二千年、世界に君臨してきた最後の陰の龍種。その細い肩に圧し掛かるあまりに重い責任を、共に担うべき彼女の夫の不在が、世界そのものと危機となって、さらに立ちはだかる。
膝の上で握り締められていた、アデライードの白い手が震えているのを見て、マニ僧都は無意識に祈っていた。
――天と陰陽よ、どうか世界を守り給え。
彼の姪と、彼の最愛の弟子と。二人の出会いが、天と陰陽の配剤によるものならば、どうか二人に力を――困難ではなく、愛を。絶望ではなく、希望を。
我と我が身を差し出しても――。
七月半ば。
女王国の西南辺境、ガルシア辺境伯領から、駆け続けに駆けた二人の騎士が、薄汚れた武装のままに王都ナキアを囲む南の城壁に至った。
騎士二人は城門の衛士に魔物の大発生を訴える。――しかし、彼らの訴えはカンダハル奪還戦に向かう兵士たちを見送る民の熱狂の影で、顧みられることはなかった。
ソリスティアに戻ってきたマニ僧都に、アデライードが尋ねる。
ただ転移魔法でシルルッサに行き、領主たちにちょっと挨拶しただけだ。
「転移魔法で登場するだけで、どれだけすごいと思っているの」
マニ僧都に言われ、アデライードは眉尻を下げる。
「でも、もともと受け継いでいる記憶にある魔法陣を呼び出しているだけですし、わたしが個人的に何か努力をして成し遂げたわけでもないので……」
魔力制御が上手くいっているのは、番の魔法陣と恭親王の魔力のおかげだし、アデライード自身が何か頑張ったわけではない。何だか他人の力で無駄な賞賛を得ているようで、アデライードは心苦しかった。
「女王に求められることは、ただ女王であることだけだよ。魔法陣と魔力を受け継いでいることが、すなわち女王の女王たる証だ。だからそれを示しさえすればいい――強いて言えば、あんなところで赤ん坊のお祝いの話をするのは、今後はダメだよ? 公と私はきっちり分けるんだ。女王は公人なんだから」
マニ僧都に苦言を呈されて、アデライードは小さく頷く。シルルッサに来いと言われて、咄嗟に生まれたばかりの姪っ子のお祝いのことばかり考えてしまっていた。つくづく女王失格だと、自分でも思う。殿下が留守の間、ソリスティアの主として、総督府を守らなければならないのに、いつまでも他力本願で、頼りないこと――。
アデライードが自身の不甲斐なさにそっと溜息をついた時。
マニ僧都がアデライードに尋ねる。
「その後、結界の様子は変化なし?」
アデライードは力なく首を振る。
「はっきりとは――ですが、以前とは空気が明らかに違っています。もし、結界が破れたのだとすれば、自然に塞がることはあり得ません」
「だろうね――」
マニ僧都も頷く。〈禁苑〉にも報告はしているが、何分、はっきりと確証のあることではないので、表立って動くことはできない。
「〈禁苑〉からはホーへルミアの月神殿を通じて南方の調査をさせると言ってきたが――」
「わたしの思い違いであればいいのですが――」
だがアデライードには確信があるようだった。
今、ナキアの注意はカンダハルと帝国に向いているだろう。だが、本当の脅威はおそらく南からやって来る。代々の女王が護り続けてきた結界がついに綻びたと知った時、ナキアは――そして、アルベラはどう動くのか。
「アデライードの考えでは、冬至の夜までなら、何とかなると――」
マニ僧都の問いに、アデライードが目を伏せる。
「結界は、まだ完全に弾けたわけではありませんから。始祖女王が構築した各地の柱となる部分はほぼ無傷で残っているし、そこから張り直すくらいなら、わたしでも何とか――もちろん、殿下の助けがあってのことですけれど。本当に冬至に弾けるのかどうかもわかりません。ですが、今の不安定な状況が続けば、陽の気が最も弱まる冬至の夜には、東の方で異変が起こる可能性が高い。それが西にも影響を及ぼすのではないかと――勝手な、推測です」
根拠は、ないに等しい。だが、この姪が持つ力が並外れていることをマニ僧都は知っている。しかしその力を支えている恭親王は、今、ここにはいない。
「本当に、なんて最悪のタイミングで……」
マニ僧都が唇を噛むが、すぐに気づく。――すべては、イフリート公爵の思惑通りなのだ。
「イフリート公爵は、再現された〈混沌〉の世を、どうやって維持していくつもりなのか――」
そんな世界を支配していくのに、どんな成算があるというのか。マニ僧都にはさっぱり想像がつかなかった。アデライードがじっと窓の外を見つめて、言った。
「たとえ新しい世界が本当に素晴らしいものであったとしても、古き世を破壊すれば大きな犠牲が出ます。たとえ今の世界がどれほど理不尽であっても、イフリート公爵の抱く理想がどれほど麗しいものであっても、有無を言わさず旧き世を壊していいわけはありません。わたしたち龍種と貴種は、この世界を護る責任を天と陰陽から負っています。――最後の、瞬間まで」
アデライードの翡翠色の瞳が、マニ僧都の青い瞳と交わる。
二千年、世界に君臨してきた最後の陰の龍種。その細い肩に圧し掛かるあまりに重い責任を、共に担うべき彼女の夫の不在が、世界そのものと危機となって、さらに立ちはだかる。
膝の上で握り締められていた、アデライードの白い手が震えているのを見て、マニ僧都は無意識に祈っていた。
――天と陰陽よ、どうか世界を守り給え。
彼の姪と、彼の最愛の弟子と。二人の出会いが、天と陰陽の配剤によるものならば、どうか二人に力を――困難ではなく、愛を。絶望ではなく、希望を。
我と我が身を差し出しても――。
七月半ば。
女王国の西南辺境、ガルシア辺境伯領から、駆け続けに駆けた二人の騎士が、薄汚れた武装のままに王都ナキアを囲む南の城壁に至った。
騎士二人は城門の衛士に魔物の大発生を訴える。――しかし、彼らの訴えはカンダハル奪還戦に向かう兵士たちを見送る民の熱狂の影で、顧みられることはなかった。
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