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5、白虹 日を貫く
ユエリン皇子の死
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恭親王が唇を噛む。彼は母親に対して、親愛の情は薄い。だが目の前で斬殺させるわけにはいかなかった。
皇后は素糸の刺繍を施した濃紺の長衣に黒い帯を締め、着衣に乱れはないが、控えめに結った髪がやや乱れ、簪も抜けそうになっている。今年で四十の歳を迎えるはずだが、相変わらず若く、息子の恭親王によく似た美貌に衰えはなかった。
賢親王が舌打ちする。
「卑怯な。――後宮にも騎士を踏み込ませるなど。義理とは言え、兄上にとっても母親なのだぞ」
賢親王は朝服を着ているということは、太極殿での儀式に参列していたのだ。その襲撃を掻い潜って乾坤宮に駆けつけたが、皇帝の命を救うには及ばなかったということか。周到な彼でも、まさかここまでの大規模な襲撃は予想しておらず、後宮にも通常の警備体制しか敷かれていなかった。乾坤宮で叛乱側の制圧に時間がかかりすぎたのだ。
「フン! 十二も歳下の女の、何が母親だ。もともとはわしの妻にと望んでいたのに、父上が横からかっさらった。わしには容姿の劣る従姉を押し付けてな!」
苦々しく言う皇太子に、廉郡王が激昂する。
「クソ親父、いい加減にしろ! おふくろまでこき下ろしやがって!」
「言葉遣いを改めろと言ったはずだ!」
皇太子は息子を一喝してから、床に蹲って蒼白な顔で自分を見上げている皇后に視線を向け、ニヤリと笑う。
「皇后陛下、あなたならお話下さるでしょう。十年前の、ユエリンの死について」
皇后を人質にとったことで形勢は逆転した。皇太子は余裕を取り戻して、似合わない口髭の陰で下卑た微笑みを浮かべ、皇后に語りかける。
「……何のことか」
皇后が真っ青な顔で、それでも気丈に顔を上げ、皇太子と賢親王、そして息子の顔を順繰りに見回す。
「ユエリンは十年前、十二の夏に落馬し、数か月死線を彷徨ったことがある。そうでしょう」
「――ああ、そうじゃ。それは皆、承知のこと――」
十六歳で後宮に入って以来、三十以上も歳の離れた皇帝に溺愛され、深宮の奥に隠されるように暮らしてきた皇后は、武装した男たちと血の匂いに明らかに怯えていた。それでも取り乱すまいと、必死に矜持を保とうとしている。
「ユエリンの落馬事故は八月の――ちょうど避暑離宮への行幸中だった」
「そう。――知らせを聞いて取る物も取りあえず、帝都に戻った故、憶えておる」
「目を覚ましたのは十二月の四日。間違いないな?」
「日付までは憶えておらぬ……」
その場にいた者たちは、何の話をしているのかとただ困惑するが、何しろ皇后の喉元に刃物が突きつけられているので、身動きが取れない。
緊迫した状況の中で、なおも皇太子が皇后に問いかける。
「その前夜、鴛鴦宮の小宦官が死んだな?」
「小宦官?――さあ? 憶えておらぬ」
皇后は首を振るが、声は明らかに動揺していた。
「十二月の三日夜、鴛鴦宮からある小宦官の遺体が運び出され――太陽神殿へと移送された。後宮の宦官や侍女が死んだ場合、遺骸は保証人を介して遺族の元に返されるのが普通なのに、奇妙なことだ」
「さあ、そんなことなど憶えておるわけがあるまい」
蒼白な顔で憶えがないと言い張る皇后を無視し、皇太子は続ける。
「この小宦官の遺骸の処置は異例なことに、『畏き所より』の特別の命で、太陽神殿にて供養の後、無縁墓地に葬られたとか。現在でも、定期的に供物が捧げられているようだが、位牌に名はなく、ただ、〈十五〉、享年十二歳とのみ彫られていると」
ぴくり、と皇后の肩がわずかに揺れた。追い打ちをかけるように、皇太子は皇后に問いかける。
「第十五子で享年十二歳。――つまり、この遺骸こそ、本物のユエリン皇子だ。あいつは十年前の十二月の頭に死んだのだ」
一座の者が驚きに息を飲む。本物のユエリン皇子は十年前の十二月に死んだのだとすれば、今、ここにいるユエリン皇子は何者か――。
皇后は素糸の刺繍を施した濃紺の長衣に黒い帯を締め、着衣に乱れはないが、控えめに結った髪がやや乱れ、簪も抜けそうになっている。今年で四十の歳を迎えるはずだが、相変わらず若く、息子の恭親王によく似た美貌に衰えはなかった。
賢親王が舌打ちする。
「卑怯な。――後宮にも騎士を踏み込ませるなど。義理とは言え、兄上にとっても母親なのだぞ」
賢親王は朝服を着ているということは、太極殿での儀式に参列していたのだ。その襲撃を掻い潜って乾坤宮に駆けつけたが、皇帝の命を救うには及ばなかったということか。周到な彼でも、まさかここまでの大規模な襲撃は予想しておらず、後宮にも通常の警備体制しか敷かれていなかった。乾坤宮で叛乱側の制圧に時間がかかりすぎたのだ。
「フン! 十二も歳下の女の、何が母親だ。もともとはわしの妻にと望んでいたのに、父上が横からかっさらった。わしには容姿の劣る従姉を押し付けてな!」
苦々しく言う皇太子に、廉郡王が激昂する。
「クソ親父、いい加減にしろ! おふくろまでこき下ろしやがって!」
「言葉遣いを改めろと言ったはずだ!」
皇太子は息子を一喝してから、床に蹲って蒼白な顔で自分を見上げている皇后に視線を向け、ニヤリと笑う。
「皇后陛下、あなたならお話下さるでしょう。十年前の、ユエリンの死について」
皇后を人質にとったことで形勢は逆転した。皇太子は余裕を取り戻して、似合わない口髭の陰で下卑た微笑みを浮かべ、皇后に語りかける。
「……何のことか」
皇后が真っ青な顔で、それでも気丈に顔を上げ、皇太子と賢親王、そして息子の顔を順繰りに見回す。
「ユエリンは十年前、十二の夏に落馬し、数か月死線を彷徨ったことがある。そうでしょう」
「――ああ、そうじゃ。それは皆、承知のこと――」
十六歳で後宮に入って以来、三十以上も歳の離れた皇帝に溺愛され、深宮の奥に隠されるように暮らしてきた皇后は、武装した男たちと血の匂いに明らかに怯えていた。それでも取り乱すまいと、必死に矜持を保とうとしている。
「ユエリンの落馬事故は八月の――ちょうど避暑離宮への行幸中だった」
「そう。――知らせを聞いて取る物も取りあえず、帝都に戻った故、憶えておる」
「目を覚ましたのは十二月の四日。間違いないな?」
「日付までは憶えておらぬ……」
その場にいた者たちは、何の話をしているのかとただ困惑するが、何しろ皇后の喉元に刃物が突きつけられているので、身動きが取れない。
緊迫した状況の中で、なおも皇太子が皇后に問いかける。
「その前夜、鴛鴦宮の小宦官が死んだな?」
「小宦官?――さあ? 憶えておらぬ」
皇后は首を振るが、声は明らかに動揺していた。
「十二月の三日夜、鴛鴦宮からある小宦官の遺体が運び出され――太陽神殿へと移送された。後宮の宦官や侍女が死んだ場合、遺骸は保証人を介して遺族の元に返されるのが普通なのに、奇妙なことだ」
「さあ、そんなことなど憶えておるわけがあるまい」
蒼白な顔で憶えがないと言い張る皇后を無視し、皇太子は続ける。
「この小宦官の遺骸の処置は異例なことに、『畏き所より』の特別の命で、太陽神殿にて供養の後、無縁墓地に葬られたとか。現在でも、定期的に供物が捧げられているようだが、位牌に名はなく、ただ、〈十五〉、享年十二歳とのみ彫られていると」
ぴくり、と皇后の肩がわずかに揺れた。追い打ちをかけるように、皇太子は皇后に問いかける。
「第十五子で享年十二歳。――つまり、この遺骸こそ、本物のユエリン皇子だ。あいつは十年前の十二月の頭に死んだのだ」
一座の者が驚きに息を飲む。本物のユエリン皇子は十年前の十二月に死んだのだとすれば、今、ここにいるユエリン皇子は何者か――。
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