【R18】渾沌の七竅

無憂

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七竅

27、〈狂王〉

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 午後から燃やし始めた城は、日が暮れて周囲が暗闇に包まれても燃え続ける。赤い炎が上がり、城内で最も高い登楼が、焼け落ちる。五千の命が消えていく。彼の命令で、彼の指示で、彼の、名によって。

『二度と、弱い者を虐げないで――約束して――』

 ユイファの声が耳に蘇える。
 結局、この約束も守れなかった。彼は、いつもそうだ。

(私は弱くて――卑怯で――姑息だ――)

 燃えるまちを見つめて、彼は思う。
 
 守る力を与えられているはずなのに、守ることができない。むしろ、奪う側に立たされる。
 どれほど守ろうとあがいても、彼の周囲はそれを許してはくれない。

 僧侶としての純潔の誓いも、戒律も守れなかった。
 メルーシナとの結婚の誓いも守れなかった。他の誰とも結婚しないという誓いは、彼自身は辛うじて姑息に守っているつもりであるが、客観的には守っているとは言えまい。
 レイナを守るという約束も、彼の側室になったばかりに正室のユリアからの虐めは止むことがなく、今、帝都の邸でどうなっているか――手紙では無事だと書いてあるが、もともとレイナは彼に不満を述べることはまずない。
 そうして今、ユイファとの約束も無残に破られていくのだ。

 大軍を動かし、罪のない民衆を無残に虐殺する。今彼の目の前で、弱い者たちが焔にまかれ、命を奪われている。――他ならぬ、彼の命令によって。

 彼は無意識に、簡易の革鎧の下の懐に手を入れて、例の小箱を握りしめる。

 メルーシナに返さなければならないこの指輪。本来ならば彼が持つ資格を持たない指輪。彼女との結婚など、とうの昔に諦めている。それでも――。いつか、彼のこの歪められた人生が終わりを迎え、聖山プルミンテルンの麓に生まれ変わる時、その来世では彼女と添い遂げたいと願っていた。だが、今、五千人の命を焼いている焔を見ながら、彼はその遠い未来をも諦めた。

 ここまで汚れた魂は、もはや聖山の峰に上ることはできないだろう。
 血の穢れと、死者の恨みによって重く繋がれて、〈混沌〉の闇の泥沼の底に沈んでいくしかない。
 永遠に、メルーシナと結ばれる日など来はしないのだ。

 小箱を握る手に、力が籠る。
 いっそ、今、あの焔の中にこれを棄てて燃やしてしまおうか。
 自分のものにならないものばかりを求め続け、もがき続けてどうなるものでもない。

『だから、シウリンにあげるわ――』

 冬枯れの木立の中で見た、白金色の髪と、翡翠色の瞳。
 真珠のような白い肌と、馨しい薔薇の香り、彼を蕩かす甘やかな〈気〉。

 すべてを奪われて、汚され続ける日々、彼女を思わなければ生きてこられなかった。
 だが、その絶望の日はこれからも続くのだ。――永遠に。
 
 いっそあの焔の中で焼かれてしまいたい。
 偽りの名も圧し掛かる責任も、全ての約束も捨てて、この世から消えてしまいたい。でも――。

『わたしが大きくなったら旦那様にあげる指輪なのですって』

 メルーシナが、今、どんな人生を送っているのかはわからない。あの邂逅の日からすでに七年の月日が過ぎた。もしかしたら、もう彼女と未来を共に歩く人は決まっているかもしれない。指輪が彼女の手元にないことが、彼女の幸せに翳を落としているかもしれない。

 恭親王は燃える二つの県城を見つめながら、唇を噛む。
 どれだけの時がかかっても、この指輪を返さなければ。持つべき人に、あるべき場所に指輪を返し、彼女に永遠の別れを告げなければならない。彼の人生を賭けて、それだけは、なんとしてもやり遂げなければならない。

 黒々と続くプーランタ南岸の夜の中で、二つの城は夜通し燃え続けた。




 厲蠻レイバン討伐の総指揮を執る皇子が、プーランタ河に近い叛乱軍の支配下にある県城二つを住民ごと焼いたという知らせは、即座に叛乱軍の者たちにも届いた。二県の近くに潜んでいたゲリラたちは、焔を上げて燃える県城を目の当たりにし、皇子の冷酷さに恐怖と、怒りを抱いた。

「いくらなんでも、女子供も閉じ込めたまま焼くなんて、あんまりだ!」
「近くの符山の上に陣を張っているらしい、せめて一矢報いねえと、気が済まねぇ!」

 ゲリラの一部隊は夜の闇の中を静かに移動し、夜襲をかけることにした。

「……殿下、ゲリラの一隊がこちらに向かっています」

 背後の森の中からひそやかな声がして、恭親王に警告した。

「――なるほど、どちらから来る?」
「南です」
「――ゾーイ、聞いたか? 警戒を怠るな」

 恭親王は隣に立つゾーイに命令する。

「叩き潰しますか?」
「早まるな。山までは登らせてやれ――せめて私に一太刀なりとも浴びせたいのだろう」
「殿下は全て南岸の民のために――」

 ゾーイにみなまで言わせることなく、恭親王は皮肉気に言った。

「そんなことが、厲蠻の奴等に理解できるものか。私は女子供も構わず、城ごと焼き殺した冷酷な皇子にしか見えまい」
  
 厲蠻のゲリラ部隊が分散して陣の敷かれた符山に登り、少し開けた場所に張られた本陣の前に至る。
 篝火が焚かれ、その前に燃える二県を見下ろして、黒髪の、背の高い男が立っている。

 ゲリラの男たちは顔を見合わせ、頷きあうと武器を振り上げて襲いかかった。

「人殺しめ!――覚悟!」
 
 ガキーン!
 黒髪の男が振り向きざまに厲蠻の振り下ろす剣を弾き飛ばし、そのまま上から剣を振り下ろす。袈裟懸けにされた男が盛大に血しぶきを上げて倒れる。もう一人が横に薙ぎ払う剣を、背後に飛び退って躱し、身軽に懐に踏み込んで素早く手首を返す。細身の剣は正確にゲリラの首筋を切り裂き、厲蠻の男は血しぶきを噴き上げる。三人目の男は互いの顔の前で剣を打ち合わせ、青白い火花が散って一瞬、立っていた皇子の顔を照らす。

 端正な、美しい顔。
 それが皮肉っぽく唇を歪める。互いに飛び退って襲撃者が剣を振りかぶって再び撃ちこんでくるが、皇子は難なく避け、逆に男の胴に皇子の剣が吸い込まれた。

 周囲ではゾーイやゾラによってすでに襲撃者があらかた狩られてしまい、立っているのは恭親王と彼の配下だけだ。

 その情景を見て、恭親王はふいに、理由のわからない可笑しさが込み上げてきて、我慢できなくなった。

「ぷっ……ははははは、ははは、あははははっ!」

 血塗れの剣を片手に、死体の折り重なる場所で腹を抱えて笑い出した恭親王を、ゾーイが驚いて咎める。

「殿下……?」
「あはっあははははっ、あはははははは……ははは、はははははは!」

 ひたすら身を捩り、目尻に涙を光らせて笑い続ける恭親王を見て、配下たちは主が狂ったのではないかと思う。

 燃え続ける城を見下ろしながら、恭親王はずっと長いこと、笑い続けていた。
 
 ゲリラの中には襲撃には参加せずに、森の中に隠れて情景を見つめていた者がいた。
 後日、拠点に帰ってその夜のことを彼は厲蠻の民に話した。

 皇子は、狂っている。
 あれは、〈狂王〉だ――と。
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