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七竅
9、自分の人生
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「しかし……レイナ様は?」
「レイナは肅郡王の遺言があるから側室にしただけで、別に愛してはいないよ。レイナも知っている。女ってのは、愛がないと知っていても抱いてもらいたいものらしいし、男の欲は愛がなくても動くからね。私も醜い男の端くれだから、セックスしないで生きていくのは無理だよ」
そんな風にはとても見えないほど、レイナに対して恭親王は細やかな気づかいを見せている。それこそ、正室のユリアが嫉妬に狂うほど。
「ヤスミンは、再婚でも、誠実な男の正室になるのがいいと思う。お前の兄なら文句ない。子供がいるというけれど、ヤスミンならうまくやれるんじゃないか」
さらりと言った恭親王に、ゾーイは食い下がる。
「ですが……では、殿下はどなたを愛しておられるのです?」
その問いかけに、恭親王の左手がするりと懐に入るのが見えた。彼がずっと持っている小箱。メイローズが彼の〈杖〉だと表した小箱。
「好きな人はいるよ。――いつか、彼女にこれを返さなければいけないとわかっているけれど。今はまだ、彼女を探しにいくことができない」
主が十三歳の日からずっと仕えているゾーイすら知らない、主の恋。好きな相手は抱けないという、主の歪んだ心。
「では、ユリア様は? 好きでないなら――」
「正室は無理だよ。以後、誰が正室になったとしても、私は抱かない」
きっぱりと、ゾーイの目をまっすぐに見つめて、恭親王は言う。
「なぜ――。その、小箱の人と関係があるのですか?」
「彼女に約束した。彼女以外とは結婚しないと。どれほど拒否しても、父上も母上も話を聞いてはくれなかった。彼らが愛しているのはユエリン皇子であって、私ではないから。私にも固有の人格があって、固有の記憶があることを、想像もしていない。いや、想像していても、無視していいと思っている。でも――どれほど存在を消されても、約束は残る。彼女と結婚するという約束は果たせないから、箱の中身は返さなければならないけれど、彼女以外と結婚しないという約束だけは、姑息な手段と言われようが、守る。その約束だけが、ユエリンでない私が生きた最後の証明だから。だから、この件についてはお前がどれだけ諌めようと、曲げるつもりはない」
はっきり言い切られて、ゾーイは、沈黙する。
あの時のゾラの発言は正鵠を射ていたのだ――主が正室を抱かないのは、それが正室だから――。
北の砦から帰って以来、くだらない女遊びに耽り、正室を無視し、市井の女を囲って悪友たちと嬲りものにしたという主の行いを、ゾーイは歯噛みして眺めていた。何度諌めても、主は彼の言葉を聞こうとはしなかった。
結局、ゾーイは今回も、主の心に寄り添おうとしなかったのだ。そればかりか、正室を抱こうとしない主を責め、詰った。
主にとって、ユリアとの結婚はボルゴールに蹂躙されるよりもなお、辛いものだったのだ。――彼の鋼のような強靭な心を折るほどに。自分の意志が通らない苛立ちを、夜ごとの遊蕩で焼き尽くさなければ気が済まないほどに。
「ユリア様のことに関しては、もう何も、申し上げません。ですが……レイナ様については、愛して差し上げることはできませんか?」
ゾーイの真剣な表情に、恭親王はふっと、目を逸らし、馬車の窓から外を見た。
「自分が歪んでいることは承知している。でも、愛せないと思う。もういい加減、昔のことなどふっきらなければならないと自分でも思うけれど、私はこれが自分の人生だと納得できていない。どうしても、理不尽だと周囲を恨んでしまう。昔に帰りたいと願ってしまう。……レイナを愛したら、過去をふっきれるかもしれないと思う反面、過去をふっきったら自分が自分でなくなるような気がして怖い。レイナのせいじゃないのはわかっているのだけれどね」
そう言って恭親王は小さく溜息をつくと、視線を対面に座るゾーイに戻す。
「レイナを側室にするときに、身体の関係を持たないでおくこともできたのだし、今となってはそうすべきだったのかもしれないが、あの時、レイナに抱いてくれと言われて私は拒めなかった。側室ならば抱かれなければおかしいしね。でも、レイナに抱いてくれと言われたときに何かが切れてしまったのだと思う。どこかで、彼女がマルインに操を立ててくれないかと期待していたのかもしれない。そうなら、身体の関係を持たずに心の底から愛せたかもしれないけれど、抱いた瞬間にレイナは身体だけの相手になってしまった。……あくまでレイナのせいじゃなくて私の身勝手だから、愛せなくて可哀想だと思う」
「……傍から見れば眩しいようなご寵愛にしか見えませんが」
「そう? レイナに罪はないからね。愛してはいないけれど、可愛いとは思うんだ」
「それは愛しているということではないのですか?」
「違うよ。愛しているのは一人だけだ」
躊躇いもなく言い切って、恭親王は懐の中で小箱を握りしめたらしい。
ゾーイは主をじっと見つめる。主は小箱の中身をくれた相手に、生涯の愛を捧げるつもりなのだと気づくが、だがそれでは、主の未来に幸せな結婚などあり得ない。それが何者なのかゾーイは想像もつかないが、ユリアとの結婚式の夜、主に何事かあれば小箱は聖地に持って行ってほしいと言われているから、その人は聖地にいるのかもしれない。だとすれば、主の恋が実ることはまずあるまい。
「殿下――俺は、殿下に幸せになっていただきたいのです」
「それは、多分無理だよ――」
恭親王は悲し気な笑みを浮かべてさらりと言った。
「私はここにいる限り、幸せにはなれない。――ここは、私の居場所じゃないから」
「我々の忠誠では、足りませんか」
「……お前たちのことは信頼しているし、感謝もしている。でも――所詮、必要とされているのはユエリンであって、私ではないんだ。私は私の人生を取り戻したい」
恭親王が窓の外を遠く眺めながら言った。
「レイナは肅郡王の遺言があるから側室にしただけで、別に愛してはいないよ。レイナも知っている。女ってのは、愛がないと知っていても抱いてもらいたいものらしいし、男の欲は愛がなくても動くからね。私も醜い男の端くれだから、セックスしないで生きていくのは無理だよ」
そんな風にはとても見えないほど、レイナに対して恭親王は細やかな気づかいを見せている。それこそ、正室のユリアが嫉妬に狂うほど。
「ヤスミンは、再婚でも、誠実な男の正室になるのがいいと思う。お前の兄なら文句ない。子供がいるというけれど、ヤスミンならうまくやれるんじゃないか」
さらりと言った恭親王に、ゾーイは食い下がる。
「ですが……では、殿下はどなたを愛しておられるのです?」
その問いかけに、恭親王の左手がするりと懐に入るのが見えた。彼がずっと持っている小箱。メイローズが彼の〈杖〉だと表した小箱。
「好きな人はいるよ。――いつか、彼女にこれを返さなければいけないとわかっているけれど。今はまだ、彼女を探しにいくことができない」
主が十三歳の日からずっと仕えているゾーイすら知らない、主の恋。好きな相手は抱けないという、主の歪んだ心。
「では、ユリア様は? 好きでないなら――」
「正室は無理だよ。以後、誰が正室になったとしても、私は抱かない」
きっぱりと、ゾーイの目をまっすぐに見つめて、恭親王は言う。
「なぜ――。その、小箱の人と関係があるのですか?」
「彼女に約束した。彼女以外とは結婚しないと。どれほど拒否しても、父上も母上も話を聞いてはくれなかった。彼らが愛しているのはユエリン皇子であって、私ではないから。私にも固有の人格があって、固有の記憶があることを、想像もしていない。いや、想像していても、無視していいと思っている。でも――どれほど存在を消されても、約束は残る。彼女と結婚するという約束は果たせないから、箱の中身は返さなければならないけれど、彼女以外と結婚しないという約束だけは、姑息な手段と言われようが、守る。その約束だけが、ユエリンでない私が生きた最後の証明だから。だから、この件についてはお前がどれだけ諌めようと、曲げるつもりはない」
はっきり言い切られて、ゾーイは、沈黙する。
あの時のゾラの発言は正鵠を射ていたのだ――主が正室を抱かないのは、それが正室だから――。
北の砦から帰って以来、くだらない女遊びに耽り、正室を無視し、市井の女を囲って悪友たちと嬲りものにしたという主の行いを、ゾーイは歯噛みして眺めていた。何度諌めても、主は彼の言葉を聞こうとはしなかった。
結局、ゾーイは今回も、主の心に寄り添おうとしなかったのだ。そればかりか、正室を抱こうとしない主を責め、詰った。
主にとって、ユリアとの結婚はボルゴールに蹂躙されるよりもなお、辛いものだったのだ。――彼の鋼のような強靭な心を折るほどに。自分の意志が通らない苛立ちを、夜ごとの遊蕩で焼き尽くさなければ気が済まないほどに。
「ユリア様のことに関しては、もう何も、申し上げません。ですが……レイナ様については、愛して差し上げることはできませんか?」
ゾーイの真剣な表情に、恭親王はふっと、目を逸らし、馬車の窓から外を見た。
「自分が歪んでいることは承知している。でも、愛せないと思う。もういい加減、昔のことなどふっきらなければならないと自分でも思うけれど、私はこれが自分の人生だと納得できていない。どうしても、理不尽だと周囲を恨んでしまう。昔に帰りたいと願ってしまう。……レイナを愛したら、過去をふっきれるかもしれないと思う反面、過去をふっきったら自分が自分でなくなるような気がして怖い。レイナのせいじゃないのはわかっているのだけれどね」
そう言って恭親王は小さく溜息をつくと、視線を対面に座るゾーイに戻す。
「レイナを側室にするときに、身体の関係を持たないでおくこともできたのだし、今となってはそうすべきだったのかもしれないが、あの時、レイナに抱いてくれと言われて私は拒めなかった。側室ならば抱かれなければおかしいしね。でも、レイナに抱いてくれと言われたときに何かが切れてしまったのだと思う。どこかで、彼女がマルインに操を立ててくれないかと期待していたのかもしれない。そうなら、身体の関係を持たずに心の底から愛せたかもしれないけれど、抱いた瞬間にレイナは身体だけの相手になってしまった。……あくまでレイナのせいじゃなくて私の身勝手だから、愛せなくて可哀想だと思う」
「……傍から見れば眩しいようなご寵愛にしか見えませんが」
「そう? レイナに罪はないからね。愛してはいないけれど、可愛いとは思うんだ」
「それは愛しているということではないのですか?」
「違うよ。愛しているのは一人だけだ」
躊躇いもなく言い切って、恭親王は懐の中で小箱を握りしめたらしい。
ゾーイは主をじっと見つめる。主は小箱の中身をくれた相手に、生涯の愛を捧げるつもりなのだと気づくが、だがそれでは、主の未来に幸せな結婚などあり得ない。それが何者なのかゾーイは想像もつかないが、ユリアとの結婚式の夜、主に何事かあれば小箱は聖地に持って行ってほしいと言われているから、その人は聖地にいるのかもしれない。だとすれば、主の恋が実ることはまずあるまい。
「殿下――俺は、殿下に幸せになっていただきたいのです」
「それは、多分無理だよ――」
恭親王は悲し気な笑みを浮かべてさらりと言った。
「私はここにいる限り、幸せにはなれない。――ここは、私の居場所じゃないから」
「我々の忠誠では、足りませんか」
「……お前たちのことは信頼しているし、感謝もしている。でも――所詮、必要とされているのはユエリンであって、私ではないんだ。私は私の人生を取り戻したい」
恭親王が窓の外を遠く眺めながら言った。
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