177 / 255
六竅
21、狼藉
しおりを挟む
恭親王とその妻ユリアの新婚生活は、夏へと向かう気候と相反するように、氷点下まで冷え込んでいた。
ユリアがレイナを呼び出して怪我をさせた一件で、一度緩みかけていた恭親王のユリアへの態度は一気に硬化した。一時期は頻繁にあったユリアとの昼食やお茶も、恭親王は拒否するようになり、昼間は悪友の誘いに乗ってどこかに出かけ、自邸にいることがほとんどなくなった。夜は夜で、相変わらず毎夜のように遊び歩いている。
結婚後も素行の定まらない息子を、皇后は頻繁に宮中に呼びつけて意見する。妻や側室が気に入らぬならば、と皇后は鴛鴦宮に新しい秀女を何人か置いて、あれこれと息子の気を引こうとする。外で行きずりの相手と寝るくらいなら、身元のしっかりした秀女の方がマシだからである。あるいは、中位貴族出身の新たな側室をと、絵姿を何枚も用意し、どれでもいいからと薦めてくる。これ以上女が増えるのは勘弁してもらいたい恭親王は、適当に秀女をつまみ食いしてお茶を濁していた。
そういう話を聞き込むたびに、恭親王府で放置されているユリアは癇癪を起し、荒れた。たまに自邸にいる夜も泊まるのはレイナの部屋で、当然のようにユリアは無視される。さすがにこれはまずい、とゲルもゾーイも、兄の賢親王も、さらには側室のレイナまでもが彼を諌めたが、恭親王は聞き入れなかった。
レイナの部屋で過ごす夜も明らかに減っていた。だいたい週の半分は後宮で、残りは廉郡王やダヤン皇子との夜遊びや〈清談〉で、レイナの部屋は週に一日過ごすかどうか。それでも、その一日を側室に独占されているユリアの怒りと嫉妬は凄まじく、恭親王が泊まった翌日には、必ずといっていいほど、ユリアの部屋には何等かの嫌がらせがあった。
ネズミや猫の死骸が投げ込まれたり、食事に汚物がかけられていたり。主が出かけている以上、従者たちも皆主に従って邸にいないか、別の用事を言いつけられて他出しており、昼の邸内には使用人の他は恭親王の宦官たちとユリアの侍女たちのみとなる。宦官や使用人ではユリアの侍女を抑えることはできず、遠巻きに眺めるだけ。孤立無援な状況だったが、レイナはただひたすら耐えていた。
恭親王が悪友の廉郡王とダヤン皇子に誘われて邸を空けた夜、ユリアの大切な首飾りが無くなった、と言いたて、ユリアの侍女たちが数人でレイナの部屋に踏み込み、レイナ付きの侍女が泣いて止めるのも聞かずに部屋を散々に荒らした。侍従武官であるゾーイとゾラ、そして文官のトルフィンは恭親王の伴で邸に居らず、傅役のゲルはマナシル家に呼び出されてユリアの父親から苦情を言い立てられていた。ゲルが邸に戻った時には、滅茶苦茶になった部屋の中で抱き合って震えているレイナと二人の侍女を、メイローズが宥めているところだった。急ぎ使者を立ててダヤンの邸にいた恭親王を呼び戻す。
〈清談〉の佳境で呼び出された恭親王は当然ながら不機嫌だったが、馬車の中で使いの若い宦官シャオトーズから事情を聞くと顔色を変えた。
「それで、レイナは無事か?」
「現在は主房の方にお移りいただいて、メイローズが慰めております。傅役殿は奥方様の方に事情を聞きに行かれましたが、夜分ということで門前払いに……」
貴種ではあるが十二貴嬪家の出でないゲルは、学者肌の大人しい性質もあって、マナシル家出身のユリアにはどうしても強く出られない。これがデュクトであればそんな気遣いはなかったものを、と恭親王は初めて、死んだ正傅を惜しく思った。
「ゲルが邸を空けていたのは、マナシル本家から呼び出しを受けたからと言ったな?」
「……はい。マナシル家の方からユリア様の扱いに関して、苦情が言い建てられましたとか」
シャオトーズが言いにくそうに言葉を濁すが、恭親王は舌打ちし、手に持った扇を片手で開け閉めして苛立ちを露わにした。図られたのだ。
恭親王の留守を狙ってゲルを実家に呼び出して家を空けさせ、その隙にレイナを攻撃したのだ。メイローズは恭親王の独立を機に、恭親王の側仕えをシャオトーズに譲って、現在は引継ぎを兼ねて後宮と邸第を往復している状態だ。若いシャオトーズでは主人の正妻の暴挙を止めることなどできまい。
「そもそも奥向きの状況が普通でないことに気づいたのは、後宮からやって来たメイローズで、傅役殿は奥向きのことまではまだ、十分に把握されておりません」
ゲルは副傅と言っても学者の家系で、学問の師に近い扱いだった。故に、皇子の家庭に目を配るのは、本来は死んだデュクトの役割なので、ゲルはまだ慣れていないのだ。恭親王は眉根を寄せて溜息をついた。
「あまり人を増やしたくはないが、たしかに留守をするたびにこれでは話にならんな」
だからあんな女と結婚するのは嫌だと言ったのだ、と頬を思いっきり歪めて恭親王は悪態をつく。
「今後はトルフィンかゾーイか、誰かを邸に残すことにしよう。ゲル一人では手に余るようだ」
その会話を黙って聞いていたゾーイが口を挟む。
「……恐れながら、やはり正傅を任命なさるべきではありませんか?」
恭親王がゾーイをぎろりと睨み、片手で扇を開いて面倒くさそうに顔を扇ぐ。
「生憎、適任者がいないし、今は私の立場が微妙過ぎて、正傅を新たに任命することができない」
傅役はもし皇子が皇太子となれば太子太傅、太子少傅となり、長じて即位すれば太傅、少傅へと昇進する。それは皇帝の輔導を担う側近中の側近であり、大変な名誉と実権を持つ官職である。デュクトが非業の死を遂げた後、自身や息子を恭親王の正傅に就任させるべく運動する高位貴族が後を絶たなかった。マナシル家のユリアとの結婚により、いずれは恭親王に帝位を、という皇帝の意向がはっきりと示されたために、その運動はさらに激烈なものになっていた。今は少なくとも、うかつな人事を行うことができない。今、恭親王の傅役に就きたがるのは、野心に溢れた者ばかりなのだ。帝位への執着のない恭親王には、そんな人間は迷惑でしかない。
「お叱りを覚悟で申し上げますが、此度のこと、奥方様のなさり様に問題があることはもちろんではございますが、そもそも、殿下の行いが巡り巡ってレイナ様への攻撃へと転じているのでございますよ。今回はまだ、レイナ様の御身に直接の危害は加えられておりませんが、このままの状態が続けば――さらに、今後レイナ様にご懐妊のようなことがございましたならば、果たして無事に済みますかどうか。よくよくお考え下さいますように」
ゾーイが恭親王を正面から見据えて言いきった。恭親王は手にしていた扇をパチリと閉じ、苦い顔で言った。
「あの女を蔑ろにしているのは私自身なのに、私ではなくて弱いレイナに憎しみを向けるとは、ますます嫌な女だ。勘弁ならん」
「女の嫉妬とは、得てしてそういうものでございます。レイナ様が殿下を誑かしているのだ、と奥方様は考えておられるのでしょう」
「誑かすなど、馬鹿々々しい。レイナが居ようがいまいが、私はあんな香水臭い女の部屋などに通わないというのに」
昼食を共にしなくなってから、ユリアが再び意地になったように焚き籠めはじめた香の匂を思い出しでもしたのか、恭親王が眉間に深い皺を刻んで盛んに扇で扇いでいる。
帝都は街区ごとの門があって、夜間の行き来には門番による検問がある。恭親王はその身分を示す金牌を門番に提示し、街区の門をいくつも通過して、深更に至って邸に到着した恭親王は、出迎えたゲルがいろいろと話そうとするのを目で制し、まっすぐに自室のある主房に向かった。
ユリアがレイナを呼び出して怪我をさせた一件で、一度緩みかけていた恭親王のユリアへの態度は一気に硬化した。一時期は頻繁にあったユリアとの昼食やお茶も、恭親王は拒否するようになり、昼間は悪友の誘いに乗ってどこかに出かけ、自邸にいることがほとんどなくなった。夜は夜で、相変わらず毎夜のように遊び歩いている。
結婚後も素行の定まらない息子を、皇后は頻繁に宮中に呼びつけて意見する。妻や側室が気に入らぬならば、と皇后は鴛鴦宮に新しい秀女を何人か置いて、あれこれと息子の気を引こうとする。外で行きずりの相手と寝るくらいなら、身元のしっかりした秀女の方がマシだからである。あるいは、中位貴族出身の新たな側室をと、絵姿を何枚も用意し、どれでもいいからと薦めてくる。これ以上女が増えるのは勘弁してもらいたい恭親王は、適当に秀女をつまみ食いしてお茶を濁していた。
そういう話を聞き込むたびに、恭親王府で放置されているユリアは癇癪を起し、荒れた。たまに自邸にいる夜も泊まるのはレイナの部屋で、当然のようにユリアは無視される。さすがにこれはまずい、とゲルもゾーイも、兄の賢親王も、さらには側室のレイナまでもが彼を諌めたが、恭親王は聞き入れなかった。
レイナの部屋で過ごす夜も明らかに減っていた。だいたい週の半分は後宮で、残りは廉郡王やダヤン皇子との夜遊びや〈清談〉で、レイナの部屋は週に一日過ごすかどうか。それでも、その一日を側室に独占されているユリアの怒りと嫉妬は凄まじく、恭親王が泊まった翌日には、必ずといっていいほど、ユリアの部屋には何等かの嫌がらせがあった。
ネズミや猫の死骸が投げ込まれたり、食事に汚物がかけられていたり。主が出かけている以上、従者たちも皆主に従って邸にいないか、別の用事を言いつけられて他出しており、昼の邸内には使用人の他は恭親王の宦官たちとユリアの侍女たちのみとなる。宦官や使用人ではユリアの侍女を抑えることはできず、遠巻きに眺めるだけ。孤立無援な状況だったが、レイナはただひたすら耐えていた。
恭親王が悪友の廉郡王とダヤン皇子に誘われて邸を空けた夜、ユリアの大切な首飾りが無くなった、と言いたて、ユリアの侍女たちが数人でレイナの部屋に踏み込み、レイナ付きの侍女が泣いて止めるのも聞かずに部屋を散々に荒らした。侍従武官であるゾーイとゾラ、そして文官のトルフィンは恭親王の伴で邸に居らず、傅役のゲルはマナシル家に呼び出されてユリアの父親から苦情を言い立てられていた。ゲルが邸に戻った時には、滅茶苦茶になった部屋の中で抱き合って震えているレイナと二人の侍女を、メイローズが宥めているところだった。急ぎ使者を立ててダヤンの邸にいた恭親王を呼び戻す。
〈清談〉の佳境で呼び出された恭親王は当然ながら不機嫌だったが、馬車の中で使いの若い宦官シャオトーズから事情を聞くと顔色を変えた。
「それで、レイナは無事か?」
「現在は主房の方にお移りいただいて、メイローズが慰めております。傅役殿は奥方様の方に事情を聞きに行かれましたが、夜分ということで門前払いに……」
貴種ではあるが十二貴嬪家の出でないゲルは、学者肌の大人しい性質もあって、マナシル家出身のユリアにはどうしても強く出られない。これがデュクトであればそんな気遣いはなかったものを、と恭親王は初めて、死んだ正傅を惜しく思った。
「ゲルが邸を空けていたのは、マナシル本家から呼び出しを受けたからと言ったな?」
「……はい。マナシル家の方からユリア様の扱いに関して、苦情が言い建てられましたとか」
シャオトーズが言いにくそうに言葉を濁すが、恭親王は舌打ちし、手に持った扇を片手で開け閉めして苛立ちを露わにした。図られたのだ。
恭親王の留守を狙ってゲルを実家に呼び出して家を空けさせ、その隙にレイナを攻撃したのだ。メイローズは恭親王の独立を機に、恭親王の側仕えをシャオトーズに譲って、現在は引継ぎを兼ねて後宮と邸第を往復している状態だ。若いシャオトーズでは主人の正妻の暴挙を止めることなどできまい。
「そもそも奥向きの状況が普通でないことに気づいたのは、後宮からやって来たメイローズで、傅役殿は奥向きのことまではまだ、十分に把握されておりません」
ゲルは副傅と言っても学者の家系で、学問の師に近い扱いだった。故に、皇子の家庭に目を配るのは、本来は死んだデュクトの役割なので、ゲルはまだ慣れていないのだ。恭親王は眉根を寄せて溜息をついた。
「あまり人を増やしたくはないが、たしかに留守をするたびにこれでは話にならんな」
だからあんな女と結婚するのは嫌だと言ったのだ、と頬を思いっきり歪めて恭親王は悪態をつく。
「今後はトルフィンかゾーイか、誰かを邸に残すことにしよう。ゲル一人では手に余るようだ」
その会話を黙って聞いていたゾーイが口を挟む。
「……恐れながら、やはり正傅を任命なさるべきではありませんか?」
恭親王がゾーイをぎろりと睨み、片手で扇を開いて面倒くさそうに顔を扇ぐ。
「生憎、適任者がいないし、今は私の立場が微妙過ぎて、正傅を新たに任命することができない」
傅役はもし皇子が皇太子となれば太子太傅、太子少傅となり、長じて即位すれば太傅、少傅へと昇進する。それは皇帝の輔導を担う側近中の側近であり、大変な名誉と実権を持つ官職である。デュクトが非業の死を遂げた後、自身や息子を恭親王の正傅に就任させるべく運動する高位貴族が後を絶たなかった。マナシル家のユリアとの結婚により、いずれは恭親王に帝位を、という皇帝の意向がはっきりと示されたために、その運動はさらに激烈なものになっていた。今は少なくとも、うかつな人事を行うことができない。今、恭親王の傅役に就きたがるのは、野心に溢れた者ばかりなのだ。帝位への執着のない恭親王には、そんな人間は迷惑でしかない。
「お叱りを覚悟で申し上げますが、此度のこと、奥方様のなさり様に問題があることはもちろんではございますが、そもそも、殿下の行いが巡り巡ってレイナ様への攻撃へと転じているのでございますよ。今回はまだ、レイナ様の御身に直接の危害は加えられておりませんが、このままの状態が続けば――さらに、今後レイナ様にご懐妊のようなことがございましたならば、果たして無事に済みますかどうか。よくよくお考え下さいますように」
ゾーイが恭親王を正面から見据えて言いきった。恭親王は手にしていた扇をパチリと閉じ、苦い顔で言った。
「あの女を蔑ろにしているのは私自身なのに、私ではなくて弱いレイナに憎しみを向けるとは、ますます嫌な女だ。勘弁ならん」
「女の嫉妬とは、得てしてそういうものでございます。レイナ様が殿下を誑かしているのだ、と奥方様は考えておられるのでしょう」
「誑かすなど、馬鹿々々しい。レイナが居ようがいまいが、私はあんな香水臭い女の部屋などに通わないというのに」
昼食を共にしなくなってから、ユリアが再び意地になったように焚き籠めはじめた香の匂を思い出しでもしたのか、恭親王が眉間に深い皺を刻んで盛んに扇で扇いでいる。
帝都は街区ごとの門があって、夜間の行き来には門番による検問がある。恭親王はその身分を示す金牌を門番に提示し、街区の門をいくつも通過して、深更に至って邸に到着した恭親王は、出迎えたゲルがいろいろと話そうとするのを目で制し、まっすぐに自室のある主房に向かった。
11
お気に入りに追加
196
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる