【R18】渾沌の七竅

無憂

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六竅

16、ユイファ

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 詒郡王府で皇子と側近がユイファのことを話し合っている時。
 ユイファは下男のロブ一人を伴い、骨董街の古書肆を訪れ、店主から事情を聞いていた。

「これは五百年前の内乱の時に、宮中から流出した蔵書に間違いないよ。たまたまこれを見た大家の坊ちゃんがね、宮中蔵書を管理するナルシア家の縁続きらしくて、他にもあるならまとめておかみが買うだろうって」
「まあ」

 ユイファはやや茶色っぽい瞳を見開く。夫のコレクションの中でも、一番の値打ちものだとはユイファも知っていた。しかし国が買い上げてくれるほどの代物だとは、さすがに考えていなかった。

「それは……信用して大丈夫でしょうか」
「さっきもう一人の貴族の旦那っぽいのも連れて来て、間違いないと太鼓判を押していたよ。その人はあたしも古書の競売オークションで見かけたことがあるよ。確実ではないが、たぶん十二貴嬪家に連なる家の人だね。まあ、一言で言えば、雲の上のお歴々さ。迂闊に売り渋れば、国家命令で強奪されちまうよ。適正な金額を払うと約束してくれたし、信用はできると思うがね」

 古書肆の親父は恭親王の顔は知らなかったが、ゲルフィンの方は見覚えがあったのだ。それがゲスト家の御曹司だと思い出した時、その御曹司が敬語で接している少年の身分はおのずと知れる。正直に言えば、触らぬ神に祟りなしという心境だ。

「で、それだけのコレクションをお持ちのあんたのご亭主の、蔵書も拝見してみたいと言ってたよ。良い物があれば是非買い上げたいと。あのしとは骨董も目利きだから、ついでに何点か見せてみたら、ここらの店て買いたたかれるよりはよっぽどいい値で売れるよ」
「そうでしょうか……」

 夫の遺した書画骨董を売ろうとしたことは幾度もあるのだが、何処へ持っていってもまともな値がつかない。ユイファが未亡人だと舐めているのかもしれないが、一等伯爵の娘として育ったユイファは、骨董の鑑定にはけっこうな目利きなのだ。付けられる値に納得がいかず、売り渋ってこれまで来ている。

「わかりました。他の本や骨董については、交渉次第ですけれど……」

 ユイファが頷くと、店の親父がホッとしたように言って、預かった古書をユイファに返す。

「売れた金額の一割をそっちからあたしの方にという話をつけておいたから。明日にでも、若様がたが、おたくに行くと思うよ。只者じゃない美少年だから、驚いて粗相しないように気を付けな。また話が纏まったら教えておくれ」
「ありがとうございます」

 ユイファは古書を丁寧に風呂敷に包み、店を出た。 
 初夏に向かう日差しに、思わず目を眇める。店の外で待っていたロブが、ユイファに日傘を差しかけた。
 
 只者じゃない美少年、という店主の言葉を聞いて、二日前に向かいの銀細工の店ですれ違った少年をふと、思い出した。

 おそらくユイファより三つ四つ若そうな、いかにも育ちのよい、みずみずしい美少年。

(美少年は美女よりも美しいって何かで読んだことがあったわね。確かにああいう美少年であれば、そこらの女なんて目じゃないかも……)

 あの後、彼が置いていったらしい、無残に壊れた銀線細工の簪が店の柜台カウンターの上に載っていた。恋人か、婚約者かの簪が壊れて、修理に出しに来たのだろうか。

 実家は破産寸前の伯爵家であったが、当時帝都でも指折りの老舗だったネルー家の若旦那に見初められ、借金を帳消しにする約束で嫁いできたユイファである。婚約期間から結婚して夫が死ぬまでのわずか三年間だが、そのころは毎週のように、夫は金に糸目をつけずに高価な装身具や衣裳を贈ってくれた。

 豪華な衣裳も、煌びやかな宝石も、それをユイファに贈りたいという夫の気持ちの現れとして、ユイファはありがたく受け取ってきた。そのモノではなく、そこに込められた夫の愛が、何よりの宝物だったのに――。

 夫の贈物は全て、高価に過ぎた。夫が死に、罰金として没収される家財のうちに、それらの高額な装飾品は含まれてしまい、根こそぎ官憲に奪われた。帝都の一等地にあった広壮な邸宅も、多くの使用人も、いくつもの店も全て処分して、今、ユイファが守るのは骨董街に近い小さな別宅と、そこに残る多くの蔵書、そして夫が集めた書画骨董だけだ。

(あの少年も、好きな人に簪や髪飾りを贈るのかしら――)

 あれだけの美少年ならば、その思い人もさぞや美しい人だろう。願わくば、彼の愛の込められた贈りものが、運命の悪戯で奪われるようなことがありませんように――。

 そんなことを考えながら、ユイファは家に帰りつく。
 
 大商家だったネルー家の、帝都の別宅として作られたその家は田舎家風の瀟洒な造りだ。かつては専門の庭師も雇い、門塀の網代も常に新しく、前栽も綺麗に刈り込まれていたが、今は下男のロブとその父で執事のヨウが、素人仕事で何とか崩れ落ちない程度に保っている。
 
「おかえりなさいませ、奥様」
「ただいま。ありがとう、ヨウ。……明日、この家の本を買ってくれるかもしれない貴族の若様がお見えになるから、応接間の方を綺麗にして、書斎への廊下も見苦しくない程度にしておいてもらえるかしら。書斎の中はわたしが片付けるわ」

 丁寧に挨拶するヨウに、ユイファが言いつけると、ヨウは少し驚いたように目を見開いた。

「本をお売りになるのでございますか?」
「ええ……もしかしたら、宮中図書館が国費で買い上げてくれるかもしれないの。そこまでの名品を、こんな家で管理するのは難しいから、売ってしまおうと思って」
 「そうでございますか」

 ヨウも納得したらしい。

「……かなりの大貴族の若様みたいなことを言っていたから、お供の方がたくさんいらしたら困るわね」
「数人であれば、応接室の奥の部屋が控えの間として利用できますよ。あまりに多いようでしたら、そちらの方で外に出るなりなさるのではありませんか?」

 そうね、とユイファは言い置いて、風呂敷包を大事に抱え、書斎に入る。書斎とその奥に広がる広大な書庫に、夫が生涯をかけて集めた膨大な蔵書が整然と並べられている。
 天井まで続く書棚を見上げ、ユイファは夫と過ごした時間を思い出す。

 ユイファの実家は、数代遡ると十二貴嬪家のクラウス家に行きつく名家である。十二貴嬪家など貴種の名家は大家族制だが、当主から五世代離れると貴種の資格を失い、分家することになる。ファスト家はクラウス家に連なる分家筋として、敢えてファスト=クラウス家を名乗っている。彼らは貴種ではないが、万一主家が絶えた時には後継に入れるよう、その婚姻は貴種の傍系と結ぶのが普通である。五百年前の内乱の折にはかなりの数の貴種の家が絶えそうになったが、こうした分家から後継に入り、二千年にわたって貴種の血筋を継いでいるのである。

 これに対し、婚家のネルー家は商人でありながら大運河開鑿に多大な貢献をしたとして、爵位を与えられた成り上がりの家だ。唸るほどの金があっても、また同じ伯爵家であっても、ネルー家とファスト=クラウス家では天と地ほどの家格の違いがあるのだ。

 ユイファの父は名家に連なる一等伯爵の、矜持しか持たない人だった。書画骨董といった文人趣味に耽溺し、市が立つたびにユイファを連れて骨董市を巡り、掘り出し物を見つけると借金をしてでも買い集めた。ユイファも自然に骨董に親しみ、目を輝かして古書肆巡りをするちょっと変わった少女に育った。

 ユイファの父とネルー家の若旦那は骨董市や骨董の競売で知り合い、年齢を越えて意気投合した。だからユイファは幼いころから、ネルー家の若旦那をこまっちゃくれた言葉で言い負かしたり、賭けに勝って屋台の菓子を買ってもらうような仲であった。恋愛に関しては晩生のユイファは、十も年上の若旦那には父の友人以外の感情を抱いていなかったが、ユイファの父が骨董詐欺にあって多額の借金をこしらえた時、借金を肩代わりするからユイファを嫁に欲しいと言われ、初めて若旦那を異性として意識したのである。

 家格の差に渋っていた父親も、背に腹は代えられぬとユイファの嫁入りに同意し、ユイファが嫁いだのは十六の年。若旦那は二十六だった。
 それからの三年、二人は骨董の市が立つ日は手を取り合って店を冷やかし、店主と丁々発止のやり取りの末に値切って買って来た書画骨董を見ながら、やはり屋台で買ってきた串焼きや饅頭を食べ、夜には夫の膝の上で古書を二人で読み解き、詩を作り、批評し合い、まさに琴瑟相和するがごとく、互いに互いだけを生涯の伴侶と定めて生きた。その生活はわずか三年で突然の終わりを告げ、ユイファは夫の死を受け入れるよりも前に、家財道具一切を奪い取る官憲の手の者を見て、ネルー家の没落と崩壊を悟ったのである。

 その後、ユイファへの再婚の誘いは引きも切らないが、ユイファは夫と過ごした三年の日は、その後の五十年の日に勝ると考え、一切再婚の意志はない。夫の遺した書画骨董と膨大な書籍に囲まれ、夫の思い出の残るこの家で、幼い義弟の成長を見守りながら生きていくことに迷いはない。
 
 しかし、ここにきて金貸しのマンジがこれまで未払いだった追加利子を要求して、今月末までに利子分だけでも払えなければ、この別宅を売りに出すと言い始めたのだ。義弟は十三歳で官吏の学校に入学したばかり。この家を失ってしまえばユイファも義弟も根無し草になって学校に通い続けることもできず、後は転がり落ちる一方だろう。何より、夫の思い出の詰まったこの家を失うのは耐え難かった。

 ユイファは断腸の思いで、夫が最も大切にしていた内乱以前の手書き写本を手放し、それで借金を返そうと思いついたのだ。この本を常に愛おしそうに撫でていた夫の姿を思い出すと、本を売ることに躊躇いもあるが、本にこだわって家を失くしては本末転倒だと思い直す。ユイファはその本を買ってくれるという大家の若様のことを想像して、書斎を片づけ、書棚の埃を払いながら、その午後を過ごした。
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