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四竅
29、贋物喪志
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恭親王は、真っ直ぐにゾーイを見据えている。その黒い瞳は異様なきらめきを宿し、赤い唇は妖艶に濡れていた。
「……何を……馬鹿な……」
「僕が贋物だと知っているのは、デュクトとゲルとメイローズ。あとは、賢親王の兄上と両陛下だけだよ。本物のユエリン皇子はね、馬から落ちて死んでしまったのさ。どうして誰もおかしいと思わないのかね。ユエリン皇子は右利きだった。ゾラとお前は僕が左利きで、以前に棒術を習ったことに気づいただろうに。だってそうだろう?話に聞く限り、ユエリン皇子はとんでもなく嫌なヤツだったじゃないか。頭を打ったくらいで、人間、こんなにも変わるわけがないよ。僕が、どこからか連れて来られた贋物だって、どうして気づかないのかな?」
ゾーイの背中を、冷たい汗が流れる。
左利きだったこと。棒術と体術の素養。剣を握ることを頑なに拒否したこと。今でも錢に触れるのを忌避すること。後宮で暮らせば絶対に食べ付けないはずの、蕎麦や、蕎麦粉の菓子を愛すること。薪の中に隠れる、カミキリムシの幼虫が美味いと知っていること――。
すべてが、彼が後宮外で――おそらくは僧院で――育てられたことを暗示していた。
「殿下――俺は――ユエリン皇子ではなく、今、目の前におられる殿下にお仕えすると決めたのです」
恭親王は、作り物じみていた美しい微笑をみるみる歪め、吐き捨てた。
「僕も、たとえ別の名を名乗り、別の人間のフリをし続けたとしても、僕が僕である方法があるはずだと、ずっと、思っていた。――でも、もうこの茶番には飽き飽きだよっ!お前たちが仕えているのはあくまでユエリンで、僕じゃない!」
「殿下!……っ」
「お前だってデュクトと同じだ! 僕から名前も過去も純潔も、何もかも奪ったくせに! 今さら男と寝たくらい何だって言うんだ! お前たちの大事なユエリンそっくりのこの顔、この身体、こんなものもっともっと汚してやる!」
激昂した恭親王は卓上の湯呑や茶壺を手当たり次第ゾーイに投げつけ、卓を蹴立てて叫んだ。
「もう出て行け! お前も嫌いだ! 出て行け! 出て行けぇ!」
ゾーイは湯呑や茶壺を投げつけられても避けることもせず、常に己を抑制し続けていた主君の、突然の暴発をなすすべもなく見つめるしかなかった。主が抱え込む孤独と葛藤、周囲への憎しみの深さを見せつけられ、茫然としていた。物音を聞いて飛び込んできたメイローズが、驚愕の声を上げる。
「殿下、なりません!」
はっとしてゾーイが我に返ると、恭親王が割れた茶碗の破片を握り締め、それで自らの手首を傷つけようとしている情景が目に入った。メイローズが恭親王の手首をつかんで止めようとするのに、抵抗して暴れる主に向かってゾーイは突進し、みぞおちに当て身を食らわせると、主の細身の身体はがっくりとゾーイの腕の中に崩れ落ちた。
汗ばんた額をゾーイの逞しい胸に預けている主の美しい顔を見下ろすと、けぶった長い睫毛の先から、玉のような涙の雫が流れ落ちる。ゾーイは、自分がいつか想像した主の生い立ちが、あながち間違っていなかったこと、そして、自分がいつの間にか、主の過去など気にならないほど主に心酔して、その過去については失念していたことを、ようやく思い出していた。
ゾーイにとって、主は目の前の少年その人以外にはなく、それが何者であろうが――この際、皇家の血を引かずともいいと思えるほど――もはや関係のないことであったが、では、主自身はどうであったのか。意に染まぬ場所で、意に染まぬ暮らしを強いられている主の気持ちについて、ゾーイは思いやることすらなかったのである。主の生い立ちを想像しながら、全くその心に寄り添ってこなかった自分自身を振り返り、ゾーイは愕然とする。
ゾーイは恭親王の膝に腕をかけて軽々と抱き上げると、まるで花嫁か何かのように恭しく寝台に運び、抱き下ろして身を横たえさせた。
「メイローズ、鎮静剤か、睡眠薬か……すぐに準備できる方を」
メイローズが即座に居間に戻り、薬箱を抱えてきた。眠り薬を少量の水で溶き、ゾーイはそれを自らの口に含むと、少しだけ開いた恭親王の唇に唇を合わせ、口の中に流し込む。嚥下したのを確かめ、衣服を整え、額の汗を拭ってやる。メイローズは主の握りしめた掌の中からとがった陶器の破片を回収し、傷ついた掌や指先の血を拭い、消毒して包帯をまいた。
上掛けをかけて二人が寝台を少し離れ、ほぼ同時に溜息をつく。
「ゾーイ卿、ここは私が片づけますので、あなたは居間の方で待機していただけますか?この騒ぎを聞きつけて、誰かが来るかもしれません。……殿下の方はしばらくお目を覚ましにはなられませんでしょうし、何かあればすぐにお呼びします」
「わかった」
散乱した陶器や家具の後始末をメイローズに任せ、ゾーイは眠る主の顔をもう一度振り返ってから、寝室の入口に向かう。
寝室の扉を開けようと手を伸ばしたとき、扉が勝手に開いて血相を変えたゲルが今にも寝室に入り込もうとするのにぶつかる。
「……! ゾーイ! 殿下はどうなさったのだ!」
「ゲル殿、しずかに、今、眠っておられる」
ゾーイの肩越しに寝台で眠る恭親王を見て、ゲルが安堵の息を吐いて、それからゾーイを見る。
「状況を説明するから……」
ゲルを押し出すように寝室を出て、後ろ手に扉を閉めると、居間の入口からゾラとトルフィンが部屋を覗き込んでいる。物音に驚いて駆けつけたものの、この二人は主の許しなく居間に入ることは許されていなかった。
「ゾーイの兄貴、すんげぇ物音がしたっすけど……」
「今、落ち着いて眠っておられる。二人とも仕事に戻ってくれ……それから、他の人間にはよけいなことをしゃべるな。……親戚にも、な」
言外に恭親王が暴発したことをほのめかすと、ゾラとトルフィンはためらいがちに頷いて部屋を去る。まだ若い二人に聞かせてよい話ではない。女好きのゾラはもちろん、年齢の近いトルフィンにしても、全く理解の及ばぬ主の素行であろうから。二人が詰所に向かって戻るのを見届け、ゾーイはゲルに椅子を薦める。ゲルが焦って話しかけるのを目で制して、部屋の隅に準備してあるお茶のセットで、二人分の茶を淹れる。
茶托も使わず、温い茶の入った茶杯を二つ手に持ち、一つをゲルの前に置くと、ゾーイはもう一つを持ったままゲルの正面の椅子に腰を下ろし、茶を一息に煽った。喉を鳴らして飲み干し、ふーっと息を吐き出しながら、茶杯を卓に下す。
ゲルは茶杯には目もくれず、ゾーイを見つめる。
「今朝、正傅殿を殺そうとしたそうだな。何があったのだ。それに殿下は……いったい何が起きている」
ゾーイはゲルを見つめて迷う。デュクトと恭親王の爛れた関係を、この男にも伝えるべきか?だが、もしデュクトが責めを負って傅役を退くのであれば、全ての責任をこの副傅役のゲルが背負うことになる。
「デュクトは……今、どうしている?」
「朝の騒ぎを聞いて、俺が彼の自室で詰問していたところに、この物音だ。部屋から出ないように言い置いて、取るものも取りあえず駆けつけたのだが……」
「デュクトは貴殿に何か言ったか?」
「何も……これは、おぬしら二人の個人的な諍いではなくて、殿下が絡んでおるのだな?」
ゲルは、ゾーイが傅役に敬称をつけないことから、二人の諍いに気づいた。
「ゾーイ、殿下が関わっていることならば、俺が知らないでおくことはできぬ。話せ」
ゾーイは観念したように目を閉じた。あの光景を思い出すと怒りで腸(はらわた)が焼けそうだ。その一方で指先は氷のように冷えていく。両手をきつく握り締め、ほとんど声にならない声で、吐き捨てるように言った。
「デュクトは……あの野郎は! 殿下を犯していたのだ!」
「……何を……馬鹿な……」
「僕が贋物だと知っているのは、デュクトとゲルとメイローズ。あとは、賢親王の兄上と両陛下だけだよ。本物のユエリン皇子はね、馬から落ちて死んでしまったのさ。どうして誰もおかしいと思わないのかね。ユエリン皇子は右利きだった。ゾラとお前は僕が左利きで、以前に棒術を習ったことに気づいただろうに。だってそうだろう?話に聞く限り、ユエリン皇子はとんでもなく嫌なヤツだったじゃないか。頭を打ったくらいで、人間、こんなにも変わるわけがないよ。僕が、どこからか連れて来られた贋物だって、どうして気づかないのかな?」
ゾーイの背中を、冷たい汗が流れる。
左利きだったこと。棒術と体術の素養。剣を握ることを頑なに拒否したこと。今でも錢に触れるのを忌避すること。後宮で暮らせば絶対に食べ付けないはずの、蕎麦や、蕎麦粉の菓子を愛すること。薪の中に隠れる、カミキリムシの幼虫が美味いと知っていること――。
すべてが、彼が後宮外で――おそらくは僧院で――育てられたことを暗示していた。
「殿下――俺は――ユエリン皇子ではなく、今、目の前におられる殿下にお仕えすると決めたのです」
恭親王は、作り物じみていた美しい微笑をみるみる歪め、吐き捨てた。
「僕も、たとえ別の名を名乗り、別の人間のフリをし続けたとしても、僕が僕である方法があるはずだと、ずっと、思っていた。――でも、もうこの茶番には飽き飽きだよっ!お前たちが仕えているのはあくまでユエリンで、僕じゃない!」
「殿下!……っ」
「お前だってデュクトと同じだ! 僕から名前も過去も純潔も、何もかも奪ったくせに! 今さら男と寝たくらい何だって言うんだ! お前たちの大事なユエリンそっくりのこの顔、この身体、こんなものもっともっと汚してやる!」
激昂した恭親王は卓上の湯呑や茶壺を手当たり次第ゾーイに投げつけ、卓を蹴立てて叫んだ。
「もう出て行け! お前も嫌いだ! 出て行け! 出て行けぇ!」
ゾーイは湯呑や茶壺を投げつけられても避けることもせず、常に己を抑制し続けていた主君の、突然の暴発をなすすべもなく見つめるしかなかった。主が抱え込む孤独と葛藤、周囲への憎しみの深さを見せつけられ、茫然としていた。物音を聞いて飛び込んできたメイローズが、驚愕の声を上げる。
「殿下、なりません!」
はっとしてゾーイが我に返ると、恭親王が割れた茶碗の破片を握り締め、それで自らの手首を傷つけようとしている情景が目に入った。メイローズが恭親王の手首をつかんで止めようとするのに、抵抗して暴れる主に向かってゾーイは突進し、みぞおちに当て身を食らわせると、主の細身の身体はがっくりとゾーイの腕の中に崩れ落ちた。
汗ばんた額をゾーイの逞しい胸に預けている主の美しい顔を見下ろすと、けぶった長い睫毛の先から、玉のような涙の雫が流れ落ちる。ゾーイは、自分がいつか想像した主の生い立ちが、あながち間違っていなかったこと、そして、自分がいつの間にか、主の過去など気にならないほど主に心酔して、その過去については失念していたことを、ようやく思い出していた。
ゾーイにとって、主は目の前の少年その人以外にはなく、それが何者であろうが――この際、皇家の血を引かずともいいと思えるほど――もはや関係のないことであったが、では、主自身はどうであったのか。意に染まぬ場所で、意に染まぬ暮らしを強いられている主の気持ちについて、ゾーイは思いやることすらなかったのである。主の生い立ちを想像しながら、全くその心に寄り添ってこなかった自分自身を振り返り、ゾーイは愕然とする。
ゾーイは恭親王の膝に腕をかけて軽々と抱き上げると、まるで花嫁か何かのように恭しく寝台に運び、抱き下ろして身を横たえさせた。
「メイローズ、鎮静剤か、睡眠薬か……すぐに準備できる方を」
メイローズが即座に居間に戻り、薬箱を抱えてきた。眠り薬を少量の水で溶き、ゾーイはそれを自らの口に含むと、少しだけ開いた恭親王の唇に唇を合わせ、口の中に流し込む。嚥下したのを確かめ、衣服を整え、額の汗を拭ってやる。メイローズは主の握りしめた掌の中からとがった陶器の破片を回収し、傷ついた掌や指先の血を拭い、消毒して包帯をまいた。
上掛けをかけて二人が寝台を少し離れ、ほぼ同時に溜息をつく。
「ゾーイ卿、ここは私が片づけますので、あなたは居間の方で待機していただけますか?この騒ぎを聞きつけて、誰かが来るかもしれません。……殿下の方はしばらくお目を覚ましにはなられませんでしょうし、何かあればすぐにお呼びします」
「わかった」
散乱した陶器や家具の後始末をメイローズに任せ、ゾーイは眠る主の顔をもう一度振り返ってから、寝室の入口に向かう。
寝室の扉を開けようと手を伸ばしたとき、扉が勝手に開いて血相を変えたゲルが今にも寝室に入り込もうとするのにぶつかる。
「……! ゾーイ! 殿下はどうなさったのだ!」
「ゲル殿、しずかに、今、眠っておられる」
ゾーイの肩越しに寝台で眠る恭親王を見て、ゲルが安堵の息を吐いて、それからゾーイを見る。
「状況を説明するから……」
ゲルを押し出すように寝室を出て、後ろ手に扉を閉めると、居間の入口からゾラとトルフィンが部屋を覗き込んでいる。物音に驚いて駆けつけたものの、この二人は主の許しなく居間に入ることは許されていなかった。
「ゾーイの兄貴、すんげぇ物音がしたっすけど……」
「今、落ち着いて眠っておられる。二人とも仕事に戻ってくれ……それから、他の人間にはよけいなことをしゃべるな。……親戚にも、な」
言外に恭親王が暴発したことをほのめかすと、ゾラとトルフィンはためらいがちに頷いて部屋を去る。まだ若い二人に聞かせてよい話ではない。女好きのゾラはもちろん、年齢の近いトルフィンにしても、全く理解の及ばぬ主の素行であろうから。二人が詰所に向かって戻るのを見届け、ゾーイはゲルに椅子を薦める。ゲルが焦って話しかけるのを目で制して、部屋の隅に準備してあるお茶のセットで、二人分の茶を淹れる。
茶托も使わず、温い茶の入った茶杯を二つ手に持ち、一つをゲルの前に置くと、ゾーイはもう一つを持ったままゲルの正面の椅子に腰を下ろし、茶を一息に煽った。喉を鳴らして飲み干し、ふーっと息を吐き出しながら、茶杯を卓に下す。
ゲルは茶杯には目もくれず、ゾーイを見つめる。
「今朝、正傅殿を殺そうとしたそうだな。何があったのだ。それに殿下は……いったい何が起きている」
ゾーイはゲルを見つめて迷う。デュクトと恭親王の爛れた関係を、この男にも伝えるべきか?だが、もしデュクトが責めを負って傅役を退くのであれば、全ての責任をこの副傅役のゲルが背負うことになる。
「デュクトは……今、どうしている?」
「朝の騒ぎを聞いて、俺が彼の自室で詰問していたところに、この物音だ。部屋から出ないように言い置いて、取るものも取りあえず駆けつけたのだが……」
「デュクトは貴殿に何か言ったか?」
「何も……これは、おぬしら二人の個人的な諍いではなくて、殿下が絡んでおるのだな?」
ゲルは、ゾーイが傅役に敬称をつけないことから、二人の諍いに気づいた。
「ゾーイ、殿下が関わっていることならば、俺が知らないでおくことはできぬ。話せ」
ゾーイは観念したように目を閉じた。あの光景を思い出すと怒りで腸(はらわた)が焼けそうだ。その一方で指先は氷のように冷えていく。両手をきつく握り締め、ほとんど声にならない声で、吐き捨てるように言った。
「デュクトは……あの野郎は! 殿下を犯していたのだ!」
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