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10、賭け
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不動産屋の店先で、ショーウインドーに寄りかかるように膝をついているローズマリーに駆け寄り、僕は細い背中を背後から支える。ボンネットを被った頭がガクリと僕の肩にかかり、意識が朦朧としているのがわかった。
「あ――」
「ミズ・オルコット! 僕だ、イライアス・ハミルトンだ」
紙のように白い顔色に焦点の合わない目線。――貧血を起こしたのだ。
僕は妊娠しているかもしれない、という所見を思い出す。
とっさに彼女を抱き上げると、不動産屋の店員が気づいて表に出てきた。
「旦那、病人ですか?」
「ああ、たまたま僕の知り合いで――」
ちょうど、小間物屋からも人が出て来て、ローズマリーに気づいた。
「ローズ? 大変!」
「貧血だと思う。僕は医者で、彼女とは知り合いなんだ。――彼女の息子、ルーカスを呼んできてもらうことはできないか?」
小間物屋の女将さんの息子がルーカスを知っているというので、ひとっ走り呼びに行ってもらい、僕はその間に彼女を自分の馬車に運んだ。
「まあ、どうしましょう、旦那」
見るからに由緒ありげな紋章付きの馬車に、着いてきた女将さんが困惑している。
馬車の座席に寝かせ、襟元のボタンを一つ開け、脈を計る。その慣れた仕草から、僕が医者だというのを信じたらしい。
やがて、呼び出されたルーカスが息を切らし、真っ赤になって駆けてきた。
「かあさま? あ、おじさん! どうして、かあさま……」
「ルーカス、落ち着いて。お母さんは具合が悪くなって、気を失ってしまった。おじさんは医者だから、このまま安全な所へ連れて行こうと思う。君も一緒に来なさい」
「う、うん!」
御者が抱き上げてルーカスを馬車に乗せ、僕はポケットから名刺を出して小間物屋の女将に渡す。
「これ、渡しておくよ。何かあったらここまで」
「は、はい!――マクミラン侯爵?」
呆然とする女将さんに帽子を上げて挨拶し、僕は御者に命ずる。
「屋敷までやってくれ」
「はい、旦那様!」
小間物屋の女将さんが呆然と見送る中、馬車が動き始める。女将さんの息子が帽子を脱いで振るのに、ルーカスが窓から顔を出して応え、やがて彼らは小さくなった。
マクミラン侯爵邸は、下町とは逆方向、王宮に近い高級住宅街にある。
玄関先に馬車を乗りつけ、御者が扉を開けて、まずは小さなルーカスを抱き下ろす。ついで、御者は意識のないローズマリーを抱き下ろそうと手を出したが、僕が首を振り、自分で彼女を抱え上げて馬車を降りた。
ちょうど、馬車の到着に気づき、玄関を開けて出迎えた執事のブレナンが、女性を横抱きにして降りてきた僕を見、灰色の目を見開く。
「旦那様?」
「ブレナン! 急病人なんだ。客室を用意してくれ」
「は、はい!」
ブレナンが慌てて引っ込み、やはり出迎えに出てきた家政婦のドーソン夫人とぶつかりそうになる。
「ブレナンさん? 旦那様はお帰り?」
「ああ、ドーソン夫人! 大変です、急病人です! 客室を……」
ドーソン夫人もすぐに女性を抱いた僕を見て目を瞠るが、さすがの貫禄ですぐに持ち直し、尋ねる。
「そのお方は――」
「妊娠しているかもしれないんだ。だからすぐに駆け付けられるよう、僕の部屋に近い客室を」
「え、に、妊娠? それは――」
とっさに口にしただけだったが、ブレナンもドーソン夫人も、信じられないという表情で僕を見る。
僕と女性の関係を量り兼ね、戸惑っているのだ。
その時、僕の中で閃いた。
お腹の子が僕の子ってことにすれば、このままローズマリーを囲い込めるんじゃないか?
僕は、殊更に緊迫した声を作り、ドーソン夫人に縋るように言う。
「僕の大切な人なんだ。頼むよ、ドーソン」
「は、は、はい!」
ドーソン夫人が慌ててドタバタと駆けていく。何事かと息を詰めて見ていたメイドたちも数人、彼女の後を追う。そして、僕の後ろからぴょこんと顔を出したルーカスに気づき、ブレナンが再びギョッとする。
「そ、そちらは?」
「ああ、彼は、彼女の息子で――」
「ルーカス・オルコットです!」
僕が言うよりも早く、ルーカスが帽子を取ってブレナンに挨拶する。幼いのに礼儀正しい様子に、ブレナンの警戒がやや解けたらしい。
「おいで、ルーカス!」
僕がローズマリーを抱いて階段を上がっていくと、三階の廊下でドーソン夫人が待っていた。
「こちらのお部屋をご用意いたしまいした」
わがマクミラン侯爵邸の使用人たちはさすがの優秀さで、あの短時間で客室の用意は完璧。部屋の中央にある大きなベッドに僕はローズマリーを寝か、まずはボンネットを脱がせた。髪は後頭部できちんと結われていて、このままでは寝心地が悪そうだ。
「失礼いたします」
ドーソン夫人が僕の反対側から覗き込み、髪を結っているピンを数本、引き抜いて髪を解けば、栗色の巻き毛が白い敷布の上に広がった。青白い顔に血の気がなく、閉じられた瞼は血管が浮いて薄紫がかっている。
「かあさま、大丈夫?」
不安そうにベッドを覗き込むルーカスに、僕は笑顔を作る。
「たぶん、貧血と過労だね。……最近、寝不足だったのかも。呼吸も心拍も落ち着いているから、まずはゆっくり寝かせて、目が覚めるのを待とう」
メイドたちが洗面器とスタンドを運んできて、温かいお湯を満たす。僕は手を洗ってから、もう一度ローズマリーの脈を診、手の爪を押えて脱水状態ではないか、確かめる。
「脱水状態ではないね。……差し当たって、無理やりに水を飲ませる必要はないだろう」
僕が安心させるようにルーカスの頭を撫でてやると、ブレナンがやってきた。
「大奥様が心配なさっておいでです」
「ああ、母上には僕から説明するよ。ちょっと待って」
僕はルーカスの頭からつま先までを観察し、素早く頭の中を整理する。
妊娠の疑いのある女性を、僕が「大切な人」だと言って連れ込んだ。家の者たちはきっと、僕と彼女の関係や、お腹の子の父親が誰なのか――つまり僕なのか――気にしている。
――これは賭けだ。
一目見て上流の暮らしではないとわかる、ローズマリーの服装。さらに息子までいる。
化粧は薄いから娼婦の類でないのはわかるが、僕が下町の女性を連れ込んだことで、使用人たちがどう反応するのか。何よりも母上は――
だが僕は、ある種の勝算があった。
ローズマリーは今でこそ下町暮らしだが、元は男爵家の出、れっきとした貴族だ。
幸いにもまだ、貴族年鑑から名前が削られてはいないはず。
そしてルーカスを妊娠し、王都で出産した経緯は極めて不幸であり、理不尽だ。
母は、貴族婦人の務めとして慈善事業に精を出しているし、最近は女性の権利の向上運動にも興味を持っている。――ローズマリーの気の毒な状況に、同情するに違いない。
さらにルーカスは下町育ちに似合わず、この年頃の子にしてはとても行儀がいい。
母の性格的に、この気の毒な母子を追い出せとは言わないだろう。
――まして、お腹の子の父親が僕だと匂わせれば、きっと――
僕は思考をまとめると、ルーカスの頭を撫で、前に膝をついて目線を合わせる。
「ルーカス、お母さんは体調が悪い。あの家に戻るのは体によくないとわかるよね? しばらく、おじさんのおうちで病気を治す方がいいと思うんだ」
「……う、うん」
ルーカスが素直に頷き、周囲をさりげなく観察する。
「おじさんのおうち、すごく大きいんだね。僕、びっくりした」
「そうかな。……後で一緒に探検する? 珍しい外国のものもたくさんあるんだよ」
「ほんと?」
好奇心で青い目をキラキラさせるルーカスに、僕が微笑む。
「でもその前に、僕のお母さまにご挨拶できるかな?」
「……おじさんの、お母さま?」
ブレナンが不安そうに僕とルーカスを見ているが、僕はルーカスの前から立ち上がり、ブレナンに言った。
「この隣も客室だったね、そちらに、この子の部屋も用意して。……今夜は彼女を動かせないから、この子も泊まるしかない」
「かしこまりました」
僕はもう一度ベッドで眠るローズマリーを振り返り、異常のないことを確認してから、ブレナンに命ずる。
「一人、メイドを付けておいてくれ。何かあったらすぐに呼ぶんだ」
「かしこまりました」
しかつめらしくブレナンが応じるのに満足して、僕はルーカスの手を引いて母のいる居間に向かった。
「あ――」
「ミズ・オルコット! 僕だ、イライアス・ハミルトンだ」
紙のように白い顔色に焦点の合わない目線。――貧血を起こしたのだ。
僕は妊娠しているかもしれない、という所見を思い出す。
とっさに彼女を抱き上げると、不動産屋の店員が気づいて表に出てきた。
「旦那、病人ですか?」
「ああ、たまたま僕の知り合いで――」
ちょうど、小間物屋からも人が出て来て、ローズマリーに気づいた。
「ローズ? 大変!」
「貧血だと思う。僕は医者で、彼女とは知り合いなんだ。――彼女の息子、ルーカスを呼んできてもらうことはできないか?」
小間物屋の女将さんの息子がルーカスを知っているというので、ひとっ走り呼びに行ってもらい、僕はその間に彼女を自分の馬車に運んだ。
「まあ、どうしましょう、旦那」
見るからに由緒ありげな紋章付きの馬車に、着いてきた女将さんが困惑している。
馬車の座席に寝かせ、襟元のボタンを一つ開け、脈を計る。その慣れた仕草から、僕が医者だというのを信じたらしい。
やがて、呼び出されたルーカスが息を切らし、真っ赤になって駆けてきた。
「かあさま? あ、おじさん! どうして、かあさま……」
「ルーカス、落ち着いて。お母さんは具合が悪くなって、気を失ってしまった。おじさんは医者だから、このまま安全な所へ連れて行こうと思う。君も一緒に来なさい」
「う、うん!」
御者が抱き上げてルーカスを馬車に乗せ、僕はポケットから名刺を出して小間物屋の女将に渡す。
「これ、渡しておくよ。何かあったらここまで」
「は、はい!――マクミラン侯爵?」
呆然とする女将さんに帽子を上げて挨拶し、僕は御者に命ずる。
「屋敷までやってくれ」
「はい、旦那様!」
小間物屋の女将さんが呆然と見送る中、馬車が動き始める。女将さんの息子が帽子を脱いで振るのに、ルーカスが窓から顔を出して応え、やがて彼らは小さくなった。
マクミラン侯爵邸は、下町とは逆方向、王宮に近い高級住宅街にある。
玄関先に馬車を乗りつけ、御者が扉を開けて、まずは小さなルーカスを抱き下ろす。ついで、御者は意識のないローズマリーを抱き下ろそうと手を出したが、僕が首を振り、自分で彼女を抱え上げて馬車を降りた。
ちょうど、馬車の到着に気づき、玄関を開けて出迎えた執事のブレナンが、女性を横抱きにして降りてきた僕を見、灰色の目を見開く。
「旦那様?」
「ブレナン! 急病人なんだ。客室を用意してくれ」
「は、はい!」
ブレナンが慌てて引っ込み、やはり出迎えに出てきた家政婦のドーソン夫人とぶつかりそうになる。
「ブレナンさん? 旦那様はお帰り?」
「ああ、ドーソン夫人! 大変です、急病人です! 客室を……」
ドーソン夫人もすぐに女性を抱いた僕を見て目を瞠るが、さすがの貫禄ですぐに持ち直し、尋ねる。
「そのお方は――」
「妊娠しているかもしれないんだ。だからすぐに駆け付けられるよう、僕の部屋に近い客室を」
「え、に、妊娠? それは――」
とっさに口にしただけだったが、ブレナンもドーソン夫人も、信じられないという表情で僕を見る。
僕と女性の関係を量り兼ね、戸惑っているのだ。
その時、僕の中で閃いた。
お腹の子が僕の子ってことにすれば、このままローズマリーを囲い込めるんじゃないか?
僕は、殊更に緊迫した声を作り、ドーソン夫人に縋るように言う。
「僕の大切な人なんだ。頼むよ、ドーソン」
「は、は、はい!」
ドーソン夫人が慌ててドタバタと駆けていく。何事かと息を詰めて見ていたメイドたちも数人、彼女の後を追う。そして、僕の後ろからぴょこんと顔を出したルーカスに気づき、ブレナンが再びギョッとする。
「そ、そちらは?」
「ああ、彼は、彼女の息子で――」
「ルーカス・オルコットです!」
僕が言うよりも早く、ルーカスが帽子を取ってブレナンに挨拶する。幼いのに礼儀正しい様子に、ブレナンの警戒がやや解けたらしい。
「おいで、ルーカス!」
僕がローズマリーを抱いて階段を上がっていくと、三階の廊下でドーソン夫人が待っていた。
「こちらのお部屋をご用意いたしまいした」
わがマクミラン侯爵邸の使用人たちはさすがの優秀さで、あの短時間で客室の用意は完璧。部屋の中央にある大きなベッドに僕はローズマリーを寝か、まずはボンネットを脱がせた。髪は後頭部できちんと結われていて、このままでは寝心地が悪そうだ。
「失礼いたします」
ドーソン夫人が僕の反対側から覗き込み、髪を結っているピンを数本、引き抜いて髪を解けば、栗色の巻き毛が白い敷布の上に広がった。青白い顔に血の気がなく、閉じられた瞼は血管が浮いて薄紫がかっている。
「かあさま、大丈夫?」
不安そうにベッドを覗き込むルーカスに、僕は笑顔を作る。
「たぶん、貧血と過労だね。……最近、寝不足だったのかも。呼吸も心拍も落ち着いているから、まずはゆっくり寝かせて、目が覚めるのを待とう」
メイドたちが洗面器とスタンドを運んできて、温かいお湯を満たす。僕は手を洗ってから、もう一度ローズマリーの脈を診、手の爪を押えて脱水状態ではないか、確かめる。
「脱水状態ではないね。……差し当たって、無理やりに水を飲ませる必要はないだろう」
僕が安心させるようにルーカスの頭を撫でてやると、ブレナンがやってきた。
「大奥様が心配なさっておいでです」
「ああ、母上には僕から説明するよ。ちょっと待って」
僕はルーカスの頭からつま先までを観察し、素早く頭の中を整理する。
妊娠の疑いのある女性を、僕が「大切な人」だと言って連れ込んだ。家の者たちはきっと、僕と彼女の関係や、お腹の子の父親が誰なのか――つまり僕なのか――気にしている。
――これは賭けだ。
一目見て上流の暮らしではないとわかる、ローズマリーの服装。さらに息子までいる。
化粧は薄いから娼婦の類でないのはわかるが、僕が下町の女性を連れ込んだことで、使用人たちがどう反応するのか。何よりも母上は――
だが僕は、ある種の勝算があった。
ローズマリーは今でこそ下町暮らしだが、元は男爵家の出、れっきとした貴族だ。
幸いにもまだ、貴族年鑑から名前が削られてはいないはず。
そしてルーカスを妊娠し、王都で出産した経緯は極めて不幸であり、理不尽だ。
母は、貴族婦人の務めとして慈善事業に精を出しているし、最近は女性の権利の向上運動にも興味を持っている。――ローズマリーの気の毒な状況に、同情するに違いない。
さらにルーカスは下町育ちに似合わず、この年頃の子にしてはとても行儀がいい。
母の性格的に、この気の毒な母子を追い出せとは言わないだろう。
――まして、お腹の子の父親が僕だと匂わせれば、きっと――
僕は思考をまとめると、ルーカスの頭を撫で、前に膝をついて目線を合わせる。
「ルーカス、お母さんは体調が悪い。あの家に戻るのは体によくないとわかるよね? しばらく、おじさんのおうちで病気を治す方がいいと思うんだ」
「……う、うん」
ルーカスが素直に頷き、周囲をさりげなく観察する。
「おじさんのおうち、すごく大きいんだね。僕、びっくりした」
「そうかな。……後で一緒に探検する? 珍しい外国のものもたくさんあるんだよ」
「ほんと?」
好奇心で青い目をキラキラさせるルーカスに、僕が微笑む。
「でもその前に、僕のお母さまにご挨拶できるかな?」
「……おじさんの、お母さま?」
ブレナンが不安そうに僕とルーカスを見ているが、僕はルーカスの前から立ち上がり、ブレナンに言った。
「この隣も客室だったね、そちらに、この子の部屋も用意して。……今夜は彼女を動かせないから、この子も泊まるしかない」
「かしこまりました」
僕はもう一度ベッドで眠るローズマリーを振り返り、異常のないことを確認してから、ブレナンに命ずる。
「一人、メイドを付けておいてくれ。何かあったらすぐに呼ぶんだ」
「かしこまりました」
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