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50、心の傷
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ジュスティーヌの体調が悪いと聞き、ラファエルは夜、燕麦の粥を持って、ジュスティーヌの寝室に赴く。
「ご気分はいかがですか。食欲がないとのことですが、少しだけでも召し上がってください」
返事がないので天蓋布をめくってラファエルが中を覗くと、ジュスティーヌは慌てて身を起こす。薄いシュミーズに毛織のガウンを羽織り、髪は結い上げずに自然に背中を覆い、だが顔色は青白く、青い瞳には怯えたような揺らぎがあった。
実はラファエルは、すでにマリーや他の侍女たちから、昼間の出来事を聞いていた。同席したアキテーヌ夫人も、真っ青な顔色で盛んに謝罪を繰り返す。
「申し訳ありません、何度も言い聞かせているのですが、身分を弁えぬ者が多くて。すべてわたくしの不徳が招いたこと。今後このようなことがないように、しっかりと教育してまいりたいと思います」
ラファエルも見習いたちの、あまりにも不躾な発言に辟易する。ジロンド伯家にはそんな暴言を吐く侍女などいなかった。どうもこの城館全体に、とりわけ「行儀見習い」と呼ばれる周辺荘園主の子弟たちに、浮ついた空気が蔓延しているらしい。
「あまりにひどいようなら、見習いの受け入れ自体、見直さなければならない。そんな迂闊な私語を、どこで誰が聞いているかも知れぬ場所で、大声でするなど。早急に注意をしておくように」
ひたすら恐縮して頭を下げるアキテーヌ夫人に言いおいて、さて姫をどう慰めるかと、ラファエルは思案する。殊更にその話を蒸し返しても、かえって傷つくに違いない。それで結局、ラファエル自ら粥を運ぶことにしたのだった。
「――食欲がありません。それに、今宵は帰っていただきたいのですが」
「そんなあなたを一人にしてはおけません。粥を召し上がって、それから少し、お話ししませんか」
渋々寝台に座ったジュスティーヌに、粥の入った木のボウルを手渡す。諦めたようにそれを一匙、二匙と掬って口に運ぶジュスティーヌを、ラファエルはじっと見つめる。
「……今日は徴税の帳簿を見直したのですよ。ここ数年分。それまで右肩上がりに増えていた徴税額が、ある年を境に急に減少に転じていて、不自然なのです。それで、もう少し細かい調査をすることにしました」
寝台に腰かけて、ラファエルがジュスティーヌに話しかけると、ジュスティーヌがちらりとラファエルを見る。
「ある年って……?」
「ギヨーム・バルテルが総代官に就任した年です」
「ああ、あの方――」
そういえば、さっきの娘はカトリーヌとか言っていたが、ギヨーム・バルテルの姪がたしかそんな名ではなかったか。あるいはただの偶然か。
「姪も、やたらと俺の周りをウロウロしていて、もしかしたら、何か目的があるのかもしれません」
「目的?」
ジュスティーヌがぎょっとしてラファエルを見る。
「ええ。まだ推測ですが、不正の証拠を隠滅するように、命じられているのかもしれません。個人的には鬱陶しいので解雇したいのですが、今、変に動くとこちらが調査を始めたことに気づかれるおそれがあります。しばらくは放っておくしかないのですが――とにかく鬱陶しくて」
「どういうことです?」
「その――伯父から何を言われているのか知りませんが、あからさまな態度で俺を誘ってくるのですよ」
ジュスティーヌが青い瞳を見開いた。王女の夫であるラファエルに、本気で言い寄るつもりなのだ。
「もちろん、俺はそんな女はご免なので、うろつかれてもどうしようもないのですがね。俺が愛しているのは、姫ただお一人ですから」
真剣な紫色の瞳でまっすぐに見つめられて、ジュスティーヌが思わず唾を飲み込む。
「……そんな、何だか大袈裟ですこと」
ジュスティーヌの返答に、ラファエルが表情を崩して微笑んだ。ジュスティーヌが食べ終えた粥の椀を寝台脇のテーブルに置くと、ラファエルも靴を脱いで寝台に上がる。
「明日の午後は時間が取れそうなので、天気が良ければ遠乗りに行きませんか?」
「遠乗り?……でも、わたくし乗馬は……」
十二歳まで、わりと自由に育てられたジュスティーヌは、乗馬も習い、横乗りであれば乗れた。だが、その後は六年以上、馬に乗っていない。
「俺の前鞍に乗っていただきます。――これも、護衛の時は畏れ多くてできませんでしたね」
そう、ラファエルが微笑む。見つめられて、ジュスティーヌはどきどきした。――これだけ美しい彼だもの、年頃の少女たちが騒いで当たり前だ。誰の目にもラファエルは一点の非の打ちどころがなくて、それに引き換え、自分は出戻りの傷物にすぎない。
ジュスティーヌは金色の睫毛を伏せて、そっと自分の身体を抱くようにする。
「姫――?」
「その――あなたは、わたくしのような女が妻で、本当によろしいのですか?」
ジュスティーヌの言葉に、ラファエルが紫色の瞳を見開いた。
「もちろんです、姫。俺には勿体ない、畏れ多い結婚です。あなたを、妻と呼べる日がくるなんて、夢のようです」
「でも、わたくしは妻の役目を果たしていないのに――」
ラファエルはそっと、ジュスティーヌの腕に触れ、びくりと身体を震わせるジュスティーヌに言う。
「その……手を、繋いでもよろしいですか?」
尋ねられて、ジュスティーヌがおずおずと右手を出すと、ラファエルがそれを左手で握る。
「本当は抱きしめたくてたまらない。でも、贅沢は言いません。こうして、寝台に一緒にいられるだけで、望外の喜びなのです。――俺はいくらでも待ちます。姫も、ご自分を卑下しないでください。あなたは立派に役目を果たしたのです。今は、心と身体を癒すべき時です」
大きな手で力強く握られて、ジュスティーヌの身体の奥に熱が生まれる。鼓動が早くなり、羞恥でラファエルを正視することができない。
「休みましょう、姫――」
ジュスティーヌが横たわり、上掛けに包まるのを待って、ラファエルが蝋燭を吹き消す。暗闇の中で、二人は互いの身体には触れなくとも、互いの気配を感じ取って眠りについた。
「ご気分はいかがですか。食欲がないとのことですが、少しだけでも召し上がってください」
返事がないので天蓋布をめくってラファエルが中を覗くと、ジュスティーヌは慌てて身を起こす。薄いシュミーズに毛織のガウンを羽織り、髪は結い上げずに自然に背中を覆い、だが顔色は青白く、青い瞳には怯えたような揺らぎがあった。
実はラファエルは、すでにマリーや他の侍女たちから、昼間の出来事を聞いていた。同席したアキテーヌ夫人も、真っ青な顔色で盛んに謝罪を繰り返す。
「申し訳ありません、何度も言い聞かせているのですが、身分を弁えぬ者が多くて。すべてわたくしの不徳が招いたこと。今後このようなことがないように、しっかりと教育してまいりたいと思います」
ラファエルも見習いたちの、あまりにも不躾な発言に辟易する。ジロンド伯家にはそんな暴言を吐く侍女などいなかった。どうもこの城館全体に、とりわけ「行儀見習い」と呼ばれる周辺荘園主の子弟たちに、浮ついた空気が蔓延しているらしい。
「あまりにひどいようなら、見習いの受け入れ自体、見直さなければならない。そんな迂闊な私語を、どこで誰が聞いているかも知れぬ場所で、大声でするなど。早急に注意をしておくように」
ひたすら恐縮して頭を下げるアキテーヌ夫人に言いおいて、さて姫をどう慰めるかと、ラファエルは思案する。殊更にその話を蒸し返しても、かえって傷つくに違いない。それで結局、ラファエル自ら粥を運ぶことにしたのだった。
「――食欲がありません。それに、今宵は帰っていただきたいのですが」
「そんなあなたを一人にしてはおけません。粥を召し上がって、それから少し、お話ししませんか」
渋々寝台に座ったジュスティーヌに、粥の入った木のボウルを手渡す。諦めたようにそれを一匙、二匙と掬って口に運ぶジュスティーヌを、ラファエルはじっと見つめる。
「……今日は徴税の帳簿を見直したのですよ。ここ数年分。それまで右肩上がりに増えていた徴税額が、ある年を境に急に減少に転じていて、不自然なのです。それで、もう少し細かい調査をすることにしました」
寝台に腰かけて、ラファエルがジュスティーヌに話しかけると、ジュスティーヌがちらりとラファエルを見る。
「ある年って……?」
「ギヨーム・バルテルが総代官に就任した年です」
「ああ、あの方――」
そういえば、さっきの娘はカトリーヌとか言っていたが、ギヨーム・バルテルの姪がたしかそんな名ではなかったか。あるいはただの偶然か。
「姪も、やたらと俺の周りをウロウロしていて、もしかしたら、何か目的があるのかもしれません」
「目的?」
ジュスティーヌがぎょっとしてラファエルを見る。
「ええ。まだ推測ですが、不正の証拠を隠滅するように、命じられているのかもしれません。個人的には鬱陶しいので解雇したいのですが、今、変に動くとこちらが調査を始めたことに気づかれるおそれがあります。しばらくは放っておくしかないのですが――とにかく鬱陶しくて」
「どういうことです?」
「その――伯父から何を言われているのか知りませんが、あからさまな態度で俺を誘ってくるのですよ」
ジュスティーヌが青い瞳を見開いた。王女の夫であるラファエルに、本気で言い寄るつもりなのだ。
「もちろん、俺はそんな女はご免なので、うろつかれてもどうしようもないのですがね。俺が愛しているのは、姫ただお一人ですから」
真剣な紫色の瞳でまっすぐに見つめられて、ジュスティーヌが思わず唾を飲み込む。
「……そんな、何だか大袈裟ですこと」
ジュスティーヌの返答に、ラファエルが表情を崩して微笑んだ。ジュスティーヌが食べ終えた粥の椀を寝台脇のテーブルに置くと、ラファエルも靴を脱いで寝台に上がる。
「明日の午後は時間が取れそうなので、天気が良ければ遠乗りに行きませんか?」
「遠乗り?……でも、わたくし乗馬は……」
十二歳まで、わりと自由に育てられたジュスティーヌは、乗馬も習い、横乗りであれば乗れた。だが、その後は六年以上、馬に乗っていない。
「俺の前鞍に乗っていただきます。――これも、護衛の時は畏れ多くてできませんでしたね」
そう、ラファエルが微笑む。見つめられて、ジュスティーヌはどきどきした。――これだけ美しい彼だもの、年頃の少女たちが騒いで当たり前だ。誰の目にもラファエルは一点の非の打ちどころがなくて、それに引き換え、自分は出戻りの傷物にすぎない。
ジュスティーヌは金色の睫毛を伏せて、そっと自分の身体を抱くようにする。
「姫――?」
「その――あなたは、わたくしのような女が妻で、本当によろしいのですか?」
ジュスティーヌの言葉に、ラファエルが紫色の瞳を見開いた。
「もちろんです、姫。俺には勿体ない、畏れ多い結婚です。あなたを、妻と呼べる日がくるなんて、夢のようです」
「でも、わたくしは妻の役目を果たしていないのに――」
ラファエルはそっと、ジュスティーヌの腕に触れ、びくりと身体を震わせるジュスティーヌに言う。
「その……手を、繋いでもよろしいですか?」
尋ねられて、ジュスティーヌがおずおずと右手を出すと、ラファエルがそれを左手で握る。
「本当は抱きしめたくてたまらない。でも、贅沢は言いません。こうして、寝台に一緒にいられるだけで、望外の喜びなのです。――俺はいくらでも待ちます。姫も、ご自分を卑下しないでください。あなたは立派に役目を果たしたのです。今は、心と身体を癒すべき時です」
大きな手で力強く握られて、ジュスティーヌの身体の奥に熱が生まれる。鼓動が早くなり、羞恥でラファエルを正視することができない。
「休みましょう、姫――」
ジュスティーヌが横たわり、上掛けに包まるのを待って、ラファエルが蝋燭を吹き消す。暗闇の中で、二人は互いの身体には触れなくとも、互いの気配を感じ取って眠りについた。
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