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23、ラファエルの苦悩
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湖上祭を前に、ラファエルはミレイユに手紙を書いた。
――今年は六年ぶりに湖上祭を見物する王女の護衛があるから、前夜祭も含めて祭の期間は全て仕事である。申し訳ないが、逢えない。
ミレイユからの返事も、淡々としたものだった。
――今年は地方から出てきた叔母一家と湖上祭見物の桟敷を取った。湖上祭が終わったら、一度ゆっくりと話がしたい。
ラファエルはその手紙を見て、少しだけ目を眇めた。
――父親の薦める結婚話が具体性を帯び始めているのかもしれない。アギヨン侯爵がミレイユの結婚相手の条件に挙げているのは、爵位のある、経済力のある男。中にはそれこそ三十以上歳の離れた、やもめ男もいるようだが、ラファエルにはもはや、どうしようもない話だ。
セルジュは言う。結婚の可能性も消え、ラファエルがそれに抗う気もなくなってしまったならば、そのことをはっきり、ミレイユにも告げておくべきだ、と。ミレイユがラファエルと結婚できるという希望を捨て、別の男との結婚を受け入れられるように。
ミレイユが十九になるまで、父親の望む政略結婚に抵抗してきたのは、恋人のラファエルがいて、愛のない結婚という牢獄から救い出してくれる希望があったからだ。だが、ラファエルはミレイユの父親と戦うことにも疲れてしまった。ミレイユとの結婚のために爵位を求めて汲々とすることにも、実を言えば嫌気が差していた。
今度こそと思った叙爵の望みが絶たれて、ラファエルも表面には出さないが傷ついていた。
――もともと、ラファエルは爵位なんて欲しくはなかった。爵位はなくとも王宮の騎士としてやっていくのに問題はないし、騎士をやめても、父の所領に引っ込めば生きていける。ジロンド伯領は大きくはないが豊かで、ラファエルとその妻子を養うくらいの収入はあるからだ。
ラファエルが栄達と爵位を求めたのは、すべてミレイユのためだった。爵位のない男には嫁がせられないからという、ミレイユの父の言葉を真に受けて、危険な戦場にも赴き、命懸けで勝ち取った戦果のはずだった。それを潰していたのが他ならぬミレイユの父だと知って、あの時の彼女の言葉が蘇った。
『これ以上は待てない。お父様の持ってくる縁談を躱し切れない』
慰めも、労いの言葉もなく、ただ詰るように言われた時、ラファエルの中の何かが、間違いなく折れた。
俺はいったい何のために、戦場で血に塗れたのだろうか。――そう、ミレイユを愛していたし、今でも愛しているとは思う。でも、ミレイユを得るためには爵位が必要で、そのための戦功を求めて戦に向かう自分に、ラファエルには確かに違和感があった。
これがミレイユの命や、国を守るための戦いであるならば、いくらでも命を懸けることにためらいはない。だが、結局、自分は功績を挙げ、爵位と栄達を求めているだけではないのか。浅ましい目的のために血を流す自分を、ラファエルは嫌悪した。
何かがおかしい。何かが狂っている。
なぜここまでして、得られないのか。ラファエルもどこかで、納得できないと感じていた。政治的な思惑が絡んでいるであろうことは、派閥に疎いラファエルも薄々感じ取ってはいたが、まさかミレイユの父がそこまで手を回しているとは思わなかった。敵対派閥の娘であまつさえ庶子であるミレイユをも、隔てなく迎え入れようとしていたラファエルの父や兄が、とうとうミレイユとの結婚を拒否したことも、ラファエルには衝撃だった。――家族を敵に回してまで、ミレイユのためにこれ以上戦うことは、ラファエルにはできそうもない。
このラファエルの心情を、はっきりとミレイユに告げないことは、卑怯だろうか?
でも、すべてはミレイユの父の問題で、ミレイユは別に悪くないのだ。ミレイユにだってどうすることもできまい。結局、父親の頸木から救い出すことができぬまま、放り出すことになるが、そのことを詫びるべきなのか?
もはやラファエルには、わけがわからなくなっていた。
いったいミレイユに、何を告げるべきか、告げざるべきか。
そこへさらに降って湧いた、姫君の降嫁だ。王家への忠心篤いラファエルの父も兄も、王女の降嫁をこの上ない栄誉だと考えている。それこそ、断ることなどあり得ないと。
ラファエルにとって姫君は、神聖にして不可侵な存在だ。それを妻になどと、正直言って畏れ多い。結婚などしなくとも、生涯、衷心よりの忠誠を捧げるつもりでいる。
そう、ジュスティーヌこそ、水面に映る月影のよう。
手を伸ばせば触れることができそうに近くとも、けして触れることのできぬもの。触れれば月影は歪み、掌から零れ落ちて消えてしまう。
自分との結婚が、姫君に平穏をもたらすことができるなら。
生涯、夫婦の契りがなくとも、自分は彼女を見つめて生きていくことができる。
それは、ミレイユへの想いとは、別物だ――
ラファエルは、自分がジュスティーヌに対して抱くのは恋情ではないと、思い込もうとしていた。だからこれは、心変わりではないはずだと。
ミレイユと別れるのは、姫君との結婚とは、関係がない。
だから姫君には、ミレイユとのことは、今しばらく伏せておきたいだけだ。姫君が余計なことに心を痛めることがないように。俺が、ミレイユを裏切ったわけじゃないのだから。
――そう、頑なに思い込もうとすること自体、ラファエルの深層心理の疚しさの表れだと、ラファエルは気づかない。その誤魔化しをこそ、セルジュに糾弾されているのだが、ラファエルはどうしてか、それを理解しようとしなかった。
――今年は六年ぶりに湖上祭を見物する王女の護衛があるから、前夜祭も含めて祭の期間は全て仕事である。申し訳ないが、逢えない。
ミレイユからの返事も、淡々としたものだった。
――今年は地方から出てきた叔母一家と湖上祭見物の桟敷を取った。湖上祭が終わったら、一度ゆっくりと話がしたい。
ラファエルはその手紙を見て、少しだけ目を眇めた。
――父親の薦める結婚話が具体性を帯び始めているのかもしれない。アギヨン侯爵がミレイユの結婚相手の条件に挙げているのは、爵位のある、経済力のある男。中にはそれこそ三十以上歳の離れた、やもめ男もいるようだが、ラファエルにはもはや、どうしようもない話だ。
セルジュは言う。結婚の可能性も消え、ラファエルがそれに抗う気もなくなってしまったならば、そのことをはっきり、ミレイユにも告げておくべきだ、と。ミレイユがラファエルと結婚できるという希望を捨て、別の男との結婚を受け入れられるように。
ミレイユが十九になるまで、父親の望む政略結婚に抵抗してきたのは、恋人のラファエルがいて、愛のない結婚という牢獄から救い出してくれる希望があったからだ。だが、ラファエルはミレイユの父親と戦うことにも疲れてしまった。ミレイユとの結婚のために爵位を求めて汲々とすることにも、実を言えば嫌気が差していた。
今度こそと思った叙爵の望みが絶たれて、ラファエルも表面には出さないが傷ついていた。
――もともと、ラファエルは爵位なんて欲しくはなかった。爵位はなくとも王宮の騎士としてやっていくのに問題はないし、騎士をやめても、父の所領に引っ込めば生きていける。ジロンド伯領は大きくはないが豊かで、ラファエルとその妻子を養うくらいの収入はあるからだ。
ラファエルが栄達と爵位を求めたのは、すべてミレイユのためだった。爵位のない男には嫁がせられないからという、ミレイユの父の言葉を真に受けて、危険な戦場にも赴き、命懸けで勝ち取った戦果のはずだった。それを潰していたのが他ならぬミレイユの父だと知って、あの時の彼女の言葉が蘇った。
『これ以上は待てない。お父様の持ってくる縁談を躱し切れない』
慰めも、労いの言葉もなく、ただ詰るように言われた時、ラファエルの中の何かが、間違いなく折れた。
俺はいったい何のために、戦場で血に塗れたのだろうか。――そう、ミレイユを愛していたし、今でも愛しているとは思う。でも、ミレイユを得るためには爵位が必要で、そのための戦功を求めて戦に向かう自分に、ラファエルには確かに違和感があった。
これがミレイユの命や、国を守るための戦いであるならば、いくらでも命を懸けることにためらいはない。だが、結局、自分は功績を挙げ、爵位と栄達を求めているだけではないのか。浅ましい目的のために血を流す自分を、ラファエルは嫌悪した。
何かがおかしい。何かが狂っている。
なぜここまでして、得られないのか。ラファエルもどこかで、納得できないと感じていた。政治的な思惑が絡んでいるであろうことは、派閥に疎いラファエルも薄々感じ取ってはいたが、まさかミレイユの父がそこまで手を回しているとは思わなかった。敵対派閥の娘であまつさえ庶子であるミレイユをも、隔てなく迎え入れようとしていたラファエルの父や兄が、とうとうミレイユとの結婚を拒否したことも、ラファエルには衝撃だった。――家族を敵に回してまで、ミレイユのためにこれ以上戦うことは、ラファエルにはできそうもない。
このラファエルの心情を、はっきりとミレイユに告げないことは、卑怯だろうか?
でも、すべてはミレイユの父の問題で、ミレイユは別に悪くないのだ。ミレイユにだってどうすることもできまい。結局、父親の頸木から救い出すことができぬまま、放り出すことになるが、そのことを詫びるべきなのか?
もはやラファエルには、わけがわからなくなっていた。
いったいミレイユに、何を告げるべきか、告げざるべきか。
そこへさらに降って湧いた、姫君の降嫁だ。王家への忠心篤いラファエルの父も兄も、王女の降嫁をこの上ない栄誉だと考えている。それこそ、断ることなどあり得ないと。
ラファエルにとって姫君は、神聖にして不可侵な存在だ。それを妻になどと、正直言って畏れ多い。結婚などしなくとも、生涯、衷心よりの忠誠を捧げるつもりでいる。
そう、ジュスティーヌこそ、水面に映る月影のよう。
手を伸ばせば触れることができそうに近くとも、けして触れることのできぬもの。触れれば月影は歪み、掌から零れ落ちて消えてしまう。
自分との結婚が、姫君に平穏をもたらすことができるなら。
生涯、夫婦の契りがなくとも、自分は彼女を見つめて生きていくことができる。
それは、ミレイユへの想いとは、別物だ――
ラファエルは、自分がジュスティーヌに対して抱くのは恋情ではないと、思い込もうとしていた。だからこれは、心変わりではないはずだと。
ミレイユと別れるのは、姫君との結婚とは、関係がない。
だから姫君には、ミレイユとのことは、今しばらく伏せておきたいだけだ。姫君が余計なことに心を痛めることがないように。俺が、ミレイユを裏切ったわけじゃないのだから。
――そう、頑なに思い込もうとすること自体、ラファエルの深層心理の疚しさの表れだと、ラファエルは気づかない。その誤魔化しをこそ、セルジュに糾弾されているのだが、ラファエルはどうしてか、それを理解しようとしなかった。
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