13 / 86
13、夜会
しおりを挟む
ヌイイ侯爵邸は王都でもやや郊外、湖を挟んで王家の離宮の対面にある。もともとこの家は王家に並ぶほどの権勢を誇っていたが、数代前の侯爵が若死にして王家の傍流から養子に入り、今はすっかり一廷臣に成り下がっている。それでも有数の名家であることは間違いなく、侯爵家が主催する夏の夜会には、王都に屋敷を持つ貴族たちが軒並み参加する盛大なものだ。
父のアギヨン侯爵と長兄夫妻は前夜から侯爵邸に招待されていて、ミレイユは次兄と二人で馬車で侯爵家に向かう。一応、王家の催す正式な会より格を落とすために、遊戯色の濃い仮面舞踏会という形を取っているが、仮面は着けても着けなくてもいいという、緩い会だ。ミレイユは顔の半ばを隠す金の仮面を着けて、視界が悪いので兄の腕に掴まってゆっくりと歩いていく。
大広間からは音楽が流れ、人々のさざめきが漏れてくる。夏の夜のことで、庭に向かって広く開け放たれ、あちこちに篝火が焚かれ、湖にも船を出して明かりが灯され、それが水面に反射して揺らめいている。
「今日もまた随分と盛況だな」
黒い仮面をつけたフィリップがミレイユの耳元でポツリと呟く。小さな仮面なので、目のあたりを辛うじて覆うだけだから、知り合いが見れば誰だかすぐにわかるだろう。
「あいつは、来るのか?」
フィリップはラファエルの友人で、ラファエルとミレイユの仲を応援してくれる、数少ない一人だ。ミレイユはゆるゆると首を振る。
「特に聞いていないわ。姫君の護衛で城を抜けられないって……」
「……相変わらず、生真面目な奴だなぁ……」
そんなことを話しながら広間を横切ると、前方から声がかかる。
「ミレイユ! ミレイユでしょう?……やっぱり!」
ミレイユが仮面をはずしてそちらを見ると、向こうでも持ち手のついた仮面を少しずらして、赤毛の少女が手を振っている。仮面舞踏会と言っても雰囲気を楽しむだけで、皆、正体を隠すつもりなんて、さらさらないのだ。
「クロティルド! 来ていたの」
「もちろんよ! あら、フィリップ様もご機嫌よろしゅう」
クロティルドは最近結婚したばかりのミレイユの友人だ。横に立つのは新婚の旦那様。如才なくフィリップと握手を交わし、給仕が運んできた葡萄酒を取り、乾杯する。白葡萄酒で喉を潤して、クロティルドはミレイユの腕を取って、楽の音に紛らわすようにして、囁く。
「彼とは今日は約束しているの?」
夜会でラファエルと忍び逢う間、いつもクロティルドに協力してもらっていた。ミレイユは力なく首を振る。
「いいえ……今日も忙しくて来られないみたい」
「手紙だけ?」
「手紙もないわ。本当に忙しいらしくて」
クロティルドが何か言いたげに緑色の瞳を光らせる。
「さっき、ジロンド伯の馬車を見かけたわよ? 来ているのではないの?」
「まさか。彼が来るのなら、何か一言あると思うわ。――彼のお兄様か、お父様ではなくて?」
今まで、ラファエルがどこかの夜会に参加するときは、必ず事前に連絡をくれていた。ミレイユが同じ夜会に後から潜り込めるように手配したことも、一度や二度ではない。
「例の、出戻りの姫君が微行でいらっしゃるそうよ? その護衛として来るんじゃないの?」
「そうかしら。でもわたくしの方には特に連絡はないわ」
ミレイユの答えに、クロティルドが声を潜めるようにして、言った。
「ねえ、わたくし、こんな噂を聞いたのだけど……ミレイユは彼から、何か聞いてる?」
「最近、本当に忙しくて会えていないの。手紙もあまり……」
ミレイユはとても嫌な予感がして、それ以上聞きたくないと思った。だが、クロティルドはミレイユの気持ちには構わず、耳元で噂話を語る。
「……ジロンド伯爵の次男が王女の護衛に配置換えになったのは、陛下が王女の降嫁を考えているからだ、と――」
「まさか!」
思わず声が尖り、ミレイユははっとして口を掌で覆う。
「そんな馬鹿な。彼は次男で爵位も継げないし、いくら出戻りの姫君でもそんな――」
ミレイユは表情が凍ったのを見られたくなくて、さりげなく仮面を着ける。ミレイユが気分を害したのに気づいて、クロティルドが慌てて謝る。
「ごめんなさい、ミレイユ、無神経だったわ」
ミレイユは大きく息を吸って、クロティルドを仮面越しに見て言った。
「わたくしこそ、声をあらげたりして、ごめんなさい。きっとただの噂よ。彼は二股かけるような人じゃないわ」
「ずいぶん、信じているのね」
「信じるわよ。……結婚を申し込まれてもう、三年になるわ。お父様があんなに冷たく突き放しても、絶対に諦めないと言ってくださったもの。わたくしが信じなくて、どうするの」
「でも最近、話もできていないんでしょう?」
「それはそうだけど……」
ミレイユは睫毛を伏せる。はっきり言えば不安だったが、多忙で家にも帰れないという恋人に、無理に会いたいなんて我儘は言えなかった。
と、次の瞬間、クロティルドがミレイユの袖を強く引っ張った。
「ミレイユ、あれ! ラファエルじゃなくて?」
父のアギヨン侯爵と長兄夫妻は前夜から侯爵邸に招待されていて、ミレイユは次兄と二人で馬車で侯爵家に向かう。一応、王家の催す正式な会より格を落とすために、遊戯色の濃い仮面舞踏会という形を取っているが、仮面は着けても着けなくてもいいという、緩い会だ。ミレイユは顔の半ばを隠す金の仮面を着けて、視界が悪いので兄の腕に掴まってゆっくりと歩いていく。
大広間からは音楽が流れ、人々のさざめきが漏れてくる。夏の夜のことで、庭に向かって広く開け放たれ、あちこちに篝火が焚かれ、湖にも船を出して明かりが灯され、それが水面に反射して揺らめいている。
「今日もまた随分と盛況だな」
黒い仮面をつけたフィリップがミレイユの耳元でポツリと呟く。小さな仮面なので、目のあたりを辛うじて覆うだけだから、知り合いが見れば誰だかすぐにわかるだろう。
「あいつは、来るのか?」
フィリップはラファエルの友人で、ラファエルとミレイユの仲を応援してくれる、数少ない一人だ。ミレイユはゆるゆると首を振る。
「特に聞いていないわ。姫君の護衛で城を抜けられないって……」
「……相変わらず、生真面目な奴だなぁ……」
そんなことを話しながら広間を横切ると、前方から声がかかる。
「ミレイユ! ミレイユでしょう?……やっぱり!」
ミレイユが仮面をはずしてそちらを見ると、向こうでも持ち手のついた仮面を少しずらして、赤毛の少女が手を振っている。仮面舞踏会と言っても雰囲気を楽しむだけで、皆、正体を隠すつもりなんて、さらさらないのだ。
「クロティルド! 来ていたの」
「もちろんよ! あら、フィリップ様もご機嫌よろしゅう」
クロティルドは最近結婚したばかりのミレイユの友人だ。横に立つのは新婚の旦那様。如才なくフィリップと握手を交わし、給仕が運んできた葡萄酒を取り、乾杯する。白葡萄酒で喉を潤して、クロティルドはミレイユの腕を取って、楽の音に紛らわすようにして、囁く。
「彼とは今日は約束しているの?」
夜会でラファエルと忍び逢う間、いつもクロティルドに協力してもらっていた。ミレイユは力なく首を振る。
「いいえ……今日も忙しくて来られないみたい」
「手紙だけ?」
「手紙もないわ。本当に忙しいらしくて」
クロティルドが何か言いたげに緑色の瞳を光らせる。
「さっき、ジロンド伯の馬車を見かけたわよ? 来ているのではないの?」
「まさか。彼が来るのなら、何か一言あると思うわ。――彼のお兄様か、お父様ではなくて?」
今まで、ラファエルがどこかの夜会に参加するときは、必ず事前に連絡をくれていた。ミレイユが同じ夜会に後から潜り込めるように手配したことも、一度や二度ではない。
「例の、出戻りの姫君が微行でいらっしゃるそうよ? その護衛として来るんじゃないの?」
「そうかしら。でもわたくしの方には特に連絡はないわ」
ミレイユの答えに、クロティルドが声を潜めるようにして、言った。
「ねえ、わたくし、こんな噂を聞いたのだけど……ミレイユは彼から、何か聞いてる?」
「最近、本当に忙しくて会えていないの。手紙もあまり……」
ミレイユはとても嫌な予感がして、それ以上聞きたくないと思った。だが、クロティルドはミレイユの気持ちには構わず、耳元で噂話を語る。
「……ジロンド伯爵の次男が王女の護衛に配置換えになったのは、陛下が王女の降嫁を考えているからだ、と――」
「まさか!」
思わず声が尖り、ミレイユははっとして口を掌で覆う。
「そんな馬鹿な。彼は次男で爵位も継げないし、いくら出戻りの姫君でもそんな――」
ミレイユは表情が凍ったのを見られたくなくて、さりげなく仮面を着ける。ミレイユが気分を害したのに気づいて、クロティルドが慌てて謝る。
「ごめんなさい、ミレイユ、無神経だったわ」
ミレイユは大きく息を吸って、クロティルドを仮面越しに見て言った。
「わたくしこそ、声をあらげたりして、ごめんなさい。きっとただの噂よ。彼は二股かけるような人じゃないわ」
「ずいぶん、信じているのね」
「信じるわよ。……結婚を申し込まれてもう、三年になるわ。お父様があんなに冷たく突き放しても、絶対に諦めないと言ってくださったもの。わたくしが信じなくて、どうするの」
「でも最近、話もできていないんでしょう?」
「それはそうだけど……」
ミレイユは睫毛を伏せる。はっきり言えば不安だったが、多忙で家にも帰れないという恋人に、無理に会いたいなんて我儘は言えなかった。
と、次の瞬間、クロティルドがミレイユの袖を強く引っ張った。
「ミレイユ、あれ! ラファエルじゃなくて?」
66
お気に入りに追加
1,077
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
悪役令嬢のビフォーアフター
すけさん
恋愛
婚約者に断罪され修道院に行く途中に山賊に襲われた悪役令嬢だが、何故か死ぬことはなく、気がつくと断罪から3年前の自分に逆行していた。
腹黒ヒロインと戦う逆行の転生悪役令嬢カナ!
とりあえずダイエットしなきゃ!
そんな中、
あれ?婚約者も何か昔と態度が違う気がするんだけど・・・
そんな私に新たに出会いが!!
婚約者さん何気に嫉妬してない?
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる