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1、姫の帰還

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 前大公妃の馬車はすでに国境くにざかいの峠を越えた、とのしらせを受け、王太子マルスランは久しぶりに帰郷する妹のことを思い、立ち上がって窓辺に歩み寄った。窓の外に広がる庭園には、したたるばかりの新緑が広がって、山間やまあいの森から小鳥の騒ぐ声が聴こえる。最後に妹を見送ったのも、この離宮であった。

 マルスランの妹、ジュスティーヌ王女が隣りあう公国の大公に嫁いで六年になる。公家は大国の分枝であるが、豊かで広大な領地を擁して本家といさかいが絶えず、また大公は溢れるほどの精力を、女と戦とにつぎ込む男であった。周辺国はその旺盛な征服欲をまともにくらい、たびたび国境地帯を削られてきた。長い紛争に終止符を打つために、両国の和解の象徴として、わずか十二歳のジュスティーヌが大公の後妻に迎えられた。今、十八歳のジュスティーヌは未亡人となり、六年ぶりに故国の土を踏むことができる。

 国の平和をあがなうために、幼い妹を生贄いけにえに差し出さねばならなかったのは、王家にとって屈辱の極み。もとは、王太子マルスランの妃に大公の妾腹の娘を、との縁談であったが、婚約者との結婚を間近に控えていたマルスランはそれを拒絶した。すでに神の御前(みまえ)で婚約式も挙げ、正式な結婚と重みは変わるところがない、という理由で。しかし、その代償は高くついた。幾度も交渉を繰り返した挙句、婚姻以外に両家のよしみを結ぶ方法はないと突っぱねられ、泣く泣く最愛の末姫を差し出す羽目に陥ったのだ。沈痛な表情で同意書に署名する父王を、マルスランもまた唇を噛んで見守るしかなかった。自分が愛ある結婚を守った結果、幼い妹が父親よりも歳上の男の許に嫁ぐのである。マルスランはそのことを、ずっと悔いてきた。

 隣国の宮廷は乱脈を極め、大公の愛妾が宮廷を牛耳ぎゅうじり、幼い後妻のジュスティーヌは日陰者のような扱いであったと言う。噂を伝え聞くたびに、マルスランは屈辱で全身の血が煮え立った。
 大公が急死したのは半年前。毒物による暗殺であるとも、強壮剤の服用を誤っての腹上死であるとも噂されるが、とにかくジュスティーヌはようやく、忌まわしい夫から解放されたのである。

 マルスランは蜂蜜色に輝く金髪をかき上げ、遠い山並みに思いを馳せる。
 ジュスティーヌは山越えで疲れているだろうから、今晩は離宮で羽を休め、明日、王宮に向けて出発する。ジュスティーヌが嫁いだおかげで国境の紛争はなくなり、この六年、国は平和を謳歌することができた。村々には作物が豊かに実り、街には外国からの商人が行きかい、この国はかつてない繁栄の時を迎えつつある。――いつの日かジュスティーヌを取り戻すために、王太子マルスランは自国が大国に伍するための、あらゆる努力を惜しまなかったのだ。

 ――もう二度と、苦労はさせぬ。ジュスティーヌにはこれから先、今まで奪われた幸福を取り戻すのだ。

 十八で未亡人となったが、要するに、ジュスティーヌの人生はこれからだ。あんな狒々爺ヒヒジジイのことは忘れ、誠実な若い男と幸せな結婚をしてほしい。できれば家柄も文句なく、容貌涼やかで心映えも優れた――そんな非の打ちどころのない男は、たいていすでに売れてしまっているが――マルスランが顎に手を当てて考えていた時、背後から低く艶のある声が、彼に呼びかけた。

「殿下――ご到着なさいました」

 背後で片膝ついているのは、王太子付きの銀髪の近衛騎士。彫像のように整った美しい顔に表情はなかったが、マルスランを見上げる真摯しんしな紫色の瞳には、誠実さと忠誠が表れていた。

「そうか! もう、門に入っているか」
「はい。今、中央の車寄せへと向かっておられます」
「すぐに迎えに行く」

 マルスランは軽快に踵を返し、天鵞絨ビロードのマントをなびかせて部屋を出る。背後を銀髪の騎士が静かに着いてくるのに、マルスランは気軽に尋ねる。

「ラファエル、おぬしは、いくつになる?」
「二十二になります」
「婚約したと言う話は聞かぬな」
「――生憎あいにく、まだです」

 ここにまだ売れ残りがいた、とマルスランの形の良い唇が弧を描く。ラファエルはジロンド伯爵の次男、数代前に遡れば王家にも繋がる名門の出身。見目好く腕も確かで、人柄も誠実だ。

(そう、次男で、爵位が継げぬ故に騎士になったと言っていたな。この前の小競り合いで手柄も立てているが、諸般の都合で論功行賞が遅れている。それにかこつければ、叙爵も不自然ではない――)

 マルスランは妹の許に急ぎながら、その結婚相手の候補者として、自らの気に入りの騎士を強く意識していた。
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