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後伝

二、

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 男が新皇帝として、景仁宮けいじんきゅうに幽閉中の夏貴妃のもとを訪れたのは、二月のある午後のこと。

 薄暗い堂に足を踏み入れれば、まだ冷たいタイル敷きの床に、女が膝をつき、頭を垂れて男を待っていた。
 麻の素服もふく被髪ざんばらがみ。化粧っ気もないその姿には、かつて、夏元冀のやしきで逢った時の、姸麗けんれいさはどこにもない。

 男はしばし女の俯いた額あたりを見つめてから、そっと視線を外し、上座に通る。
 女が頭を擦り付けるように拝礼したのに、声をかける。

「姿勢を楽に」

 楽に、と言われたところで寛げるわけはない。女は依然、冷たい床に膝をついたまま。だが、今の男には、彼女の手を取って立ち上がらせてやることはできない。
 彼女は兄の妻、義理の姉であり、直接触れ合うことなど許されないからだ。

「夏学士の葬儀は無事に済んだそうだ……」

 おそらく、皇帝殺害の一件には何の関わりもないであろうが、娘が嫌疑をかけられただけで、官僚の生きる道は断たれる。夏元冀は自殺し、妻も後を追った。息子は官爵を返上して庶民となり、本貫ほんがん(本籍地)に帰った。生存を許されるだけで、かなりの温情である。

 温情と言えば、ここに皇帝自らが足を運ぶこともまた、破格の待遇ではあった。

煉昱れんいくは――仁寿宮にて健やかに過ごしておる」

 息子の名を聞いた時だけ、女の肩がピクリと動き、人形のように青白かった女の頬にわずかに、赤みが差した。

「煉昱とその母親とを、二つながら生かせる道はない、――そうだ」
「煉昱は……煉昱だけでも、生きることは叶いましょうか?」
「……生きるだけならば」

 女の問いに冷酷に応えれば、女が青白い顔をまっすぐ、男に向けた。切れ長の黒い瞳には、強い力が宿っていた。

「何一つ、わたくしは望んでおりません。……これまでも、これから先も」

 その白い、整った顔の細い顎を見つめて、男は目を伏せた。

「……そうであろうな」  
「わたくしに選ぶ道などなかった。……それは、おわかりいただけますか」
「何一つ、そなたの意志でないことは、朕も理解している。……せめて、煉昱は」

 女がふっと息を吐き、長く睫毛を伏せ、その場に崩れ落ちる。脇で控えていた宦官が一歩踏み出して、それから男を見た。……男が無言で頷けば、宦官が駆け寄ってたすけ起こす。

「……最後、会うことは叶いますでしょうか」

 男が立ち上がり堂を出ようとしたその背中にか細い声がかかる。男は足を止め、振り向いて言った。

「あれはまだ幼い。意味を理解できまいよ。……だが、母上には申し上げておく」

 景仁宮の院子なかにわの梅花が盛りで、風が香りを運んでくる。少し離れて振り返れば、淡紅色の花の向こう、堂の軒先に夏貴妃は立ち尽くし、男を見送っていた。

 ――昔、夏元冀の邸第やしきの庭にも、同じ花が咲いていた。
 婚約の印の翡翠の佩玉を彼女に贈ったその時も、花の下で彼女はずっと、男を見送っていた。

 同じ春、同じ花の下で、あまりに違う運命――




 乾清宮の居室に帰り着いた男を、幾人もの宦官たちが頭を下げて迎える。
 決まりきった儀式めいた日常が、耐えきれぬほど忌々しかった。

 ――皇帝とは、なんだ。俺はこの天下の支配者になったのではなかったか。
 
 かつて、力のなかった男は、皇帝であった兄に許婚を奪われた。
 そして今、兄が死に皇帝になった男は、彼女に死を宣告するしかない。

 一天万乗の君と言われながら、あまりにも無力ではないか――
  
 ひれ伏す宦官たちを押しのけるように寝室に逃げ込み、男はオンドルの上に設えられた長椅子に倒れ込む。鈴を鳴らそうと紐に手を伸ばしたが、紐を掴む前に扉が開き、黒髪を切り揃えた小柄な女が、水差しと盥を運んで入ってきた。

金鎖じんすお……」

 ――景仁宮で夏貴妃が縊死したのは、その夜のことであった。
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