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1巻

1-3

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「セシリア――その、いいですか? 少しだけ話を――」

 ――やっぱり初夜拒否はだめか! でもここは踏ん張りどころよ!

「あ……その、話だけなら……」

 カチャリとドアが開いて、バスローブ姿のユードが早足で部屋に入ってきた。
 アッシュ・ブロンドの髪が濡れて、普段よりも色が濃くなっている。はだけた胸元が壮絶に色っぽくて、わたしはくらくらした。

「身体の具合がよくないと聞いて――」
「え、ええその――なんだかひどく疲れてしまって……なんとなくお腹も痛くて……」

 長い脚であっという間に距離を詰めてきたユードは、わたしの座る椅子の前に跪き、わたしの手を取る。

「セシリア……俺はこの日を長く待ちわびていました。貴女に出会った日から、本当に俺には貴女だけで……どれだけ俺が貴女を想い続けてきたか――」

 形の良い眉が歪み、深い青色の瞳がせつなげに揺れる。
 ――う、こんな表情をされたら、愛されているって、信じてしまう。
 一年後には裏切られるとわかっているのに――

「ユード、その――」
「貴女に無理はさせたくない。でも……せめて同衾どうきんはお許しいただけませんか」

 ユードが握りしめたわたしの手を口元に寄せ、狂おし気に口づける。

「で、でも……」

 下から見上げてくるユードの目に熱がこもっていて、わたしは少しばかり冷静になる。
 ――そうよね、初夜で拒否されるなんて、男の面子丸潰れだわ。愛だの恋だの以前に、そりゃあ、抵抗するわよね。
 わたしは大きく息を吸い、わざとらしく微笑んだ。

「ユード、また敬語になっていてよ?」
「すみません……じゃなくて、すまない、セシリア」

 言い直す言葉遣いがぎこちなくて、わたしはつい吹き出してしまった。その様子に、ユードがふっと表情を和らげる。

「……よかった、いつもの貴女だ。……俺が何か失敗をして、機嫌を損ねたのかと――」
「失敗は、していないわ。……まだ」
「セシリア?」

 わたしは意を決してユードに向き直り、まっすぐにその目を見た。

「わたしね、気づいてしまったの。――あなたと、ディートリンデ様のこと」

 その瞬間、ユードはその青い目を大きく見開き、息を止めた。

「なんて言うか……今まで気づかなかったわたしが馬鹿みたいなくらい、バレバレよね? あなたたち」
「そんなことはありません!」

 ユードが慌てて首をブンブン振る。そのまま首がどこかに飛んでいきそうなくらいの、すごい勢いだ。

「俺と、ディートリンデ様はなんでもないです! 断じて! 絶対に!」
「でも、ディートリンデ様は披露宴の最中もずっとあなたを見ていたし、わたしを憎々し気に睨んでいらしたわ」
「それは――」

 ユードが一瞬俯き、それからまっすぐに顔を上げて力説する。

「俺はたしかに、ディートリンデ様の護衛騎士を命じられていましたが、ただそれだけで、やましいことは何もない! 本当に!」

 唾を飛ばさんばかりに言い募るユードの迫力に負けてわたしが頷くと、彼は不安そうにこちらを見上げる。

「やはり、俺のような平民と結婚させられて、ご不満が――」
「え? そんなことは――」

 なんでそんな話になるのかと戸惑うわたしの手をギュッと握り、整った顔を至近距離まで寄せる。美形だから迫力は満点だ。

「俺を拒否するのは、身分差を嫌ってのことですか?」
「ええ! そんなこと考えたこともないわ。わたしだって、庶子しょしだし。わたしはただ――」
「ただ?」

 グイグイ詰め寄られ、わたしは言葉に詰まる。ただ、一年後の破滅を避けたいだけ。「あなた、一年後にうちを叛逆で密告するつもりでしょ」なんて言うわけにいかないし、どうしたらいいの。

「た、ただ、その――今夜は疲れていて……」

 たぶん、わたしは気づかないうちに涙目になっていたのだと思う。ユードがハッとして、それから慌てて謝った。

「すみません……その……無理強いはしないと言いながら、俺は――」

 本当に辛そうに眉をひそめる表情は、見ているこっちがいたたまれなくなる。美男子の憂い顔は、それだけで胸が締めつけられるものなのだ。

「セシリア……せめてその……キスはお許しいただけますか?」
「う……その、キス、だけなら……」

 わたしが渋々頷けば、ユードが私の頬に触れ、唇を塞ぐ。ユードの唇の柔らかで熱い感触に頭の芯から痺れて、身動きができなくなる。
 さらに全身に甘い疼きが走り、身体の奥に火が灯る。
 ――これは!
 わたしは思い出した。
 そうだ、前回も――
 ユードにキスされると、全身が燃えるように熱くなり、頭の芯から蕩けそうな心地よさに襲われるのだ。
 全身の血が沸騰し、指の先から爪先にいたる身体の隅々まで甘い感覚に満たされ、愛される歓びに支配されてしまう。
 頬に触れるユードの熱い指先が優しく滑っていく。
 そのまま首筋を撫で、うなじを支えてさらに強く唇を貪られる。

「セシリア……愛しています、貴女だけ……」

 一度離れた唇が、わたしの名をせつなく呼ぶ。吐息混じりの甘い声に、わたしの心臓が跳ね、ぐらりと酩酊しそうになる。そこをすかざすもう一度唇を奪われ――
 ユードのキスは、毒だ。
 見えない蜘蛛の糸のようにわたしに絡みつき、深い沼の底に引きずりこんで、囚えて離さない。甘い毒の檻のよう。
 このままでは、だめ――
 ユードの舌がわたしの唇を催促するように叩く。わたしはぐっと唇を引き結んだ。侵入を許したらだめ――

「セシリア?」

 舌を入れるのを拒否されたと感じたのだろう、ユードが唇を離した。凛々しい眉を微かにひそめ、青い瞳がせつなげに揺れた。

「だめ、でしたか……?」

 わたしは大きく息を吸って、首を振った。

「それ以上はだめ。お願い、帰って」
「セシリア……すみません、つい、調子に乗りすぎました」

 わたしがはっきりと拒めば、ユードは憂いを帯びた表情でため息をつき、いつもの甘い声で囁いた。

「キスを許してくださって、ありがとうございます。今夜はこれで失礼します。愛しています、セシリア」

 名残惜しげに頬を撫で、苦い微笑みを残して去っていく後ろ姿は哀愁を帯びていて、わたしの胸も痛んだ。でも、破滅回避のためには仕方がない。
 ――今度こそ、騙されるわけにはいかないの。
 わたしは心の中でそっとユードに詫びた。


   ◆◆◆


 一夜明けて翌朝、早々に父から呼び出しを受けた。執務室に出向けば、苦虫を噛み潰したような表情で叱責された。

「ユードを寝室から追い出したそうだな」
「えっと……」

 ギロリと睨まれて、わたしは気まずく目を逸らした。

「あれは平民だが、剣の腕前も用兵も、他に抜きんでておる。わしの跡取りとして選んだ婿だ。なぜ、拒む」
「いえ、その……」
「ただでさえ、身分差のある結婚ゆえに、あれこれ言う者がおる。まわりの思惑を考えろ」

 父がわたしを睨みつける。

「ユードが平民出だからとお前が蔑めば、周囲の者はさらにあやつを軽んずる。それはブロムベルクの将来に影を落とす」

 わたしがユードとの初夜を拒んだせいで、ユードが非難されると言われ、わたしは唇を噛む。

「お父さま、わたし……身分差で彼を拒んだわけではございません」
「ならばなぜだ。昨日、たしかにお前は体調がすぐれなかったかもしれん。だが、寝室から追い出すのはやりすぎだ」
「申し訳ありません……でも……」

 父は太眉の下からわたしを睨む。

「でも、なんだ?」

 わたしは懸命に頭を働かせ、言葉を選ぶ。一年後の破局を防ぐには、父にユードの危険性を認識してもらわなければ。

「わたし、気づいてしまったんです」
「……何が?」
「ユードと、オーベルシュトルフ侯爵家のディートリンデ様は、恋仲です」

 そうはっきり断言すると、父はわたしをじっと見た。

「そういう、噂はたしかにある」
「ご存知だったのですね」

 なのにどうして彼を婿に選んだのかと、わたしが非難の眼差しを向ければ、父は眉をひそめた。

「ただの、噂だ。オーベルシュトルフ侯爵家は、うちと違って血筋にはうるさいゆえ、娘を平民に嫁がせたりはせぬ」
「わたしの言っているのは気持ちの問題です。わたしだって貴族の端くれですし、家を守るためなら、政略結婚も受け入れます」

 わたしの言葉に、父は当然だというふうに頷き、先を促した。

「でもお父さま。たとえ愛がなくとも、最低限、相手方の誠実さが条件ではありませんの? 身分差のある相手に浮気されては、我が家の面目は丸潰れです」
「ユードが浮気すると? 婿入りしてそんな馬鹿なことをするものか。だいたい、お前だってあやつに夢中だったではないか」

 父の言いようにわたしはため息をつく。

「わたしは世間知らずで、ディートリンデ様との噂を知りませんでした。でも、披露宴の彼女の様子で確信しました。あの二人は間違いなくデキています!」
「デキているってなんだそれは!」
「わたし、昨日の披露宴では、ディートリンデ様にずっと睨まれていました! ユードはともかく、あちらは諦めるつもりなんてなさそうです。彼がほだされない保証なんてないでしょう?」

 沈黙してしまったところを見ると、ディートリンデ様の不自然な態度に、父も気づいていたらしい。

「だからって今さら……」
「ですから、釘を刺したかったんですの。甘く見られては困りますもの。それに――」

 わたしは大きな執務机越しに身を乗り出し、父の顔のそばで声を潜める。

「――もし、彼が嘘をついていて、本当はディートリンデ様と愛し合っていたら、どうなると思います?」
「お前は何を言って……」
「もしかして、あちらから送り込まれたスパイかもしれませんわ? うちの弱みを握って、お父さまを追い落とし、ブロムベルクを手に入れるために――」
「セシリア!」

 ダン! と父が大きな手で机を叩いた。

「馬鹿なことを! お前はそんな小賢しいことを言う女ではなかったのに!」
「可能性がないわけじゃありません。でも万が一騙されていたら、領民たちやご先祖様に合わせる顔が――」
「黙れ!」

 父がもう一度わたしを大声で咎め、じっと見つめてくる。

「くだらぬ妄想で夫を拒むなど言語道断ごんごどうだんだ! いいか、今夜こそユードを受け入れろ。そうしてブロムベルクの後継者を産む。それがお前の役割だ! わかったら下がれ」

 父に断固として命じられ、わたしは執務室から追い払われてしまった。


 意気消沈して父の部屋を出ると、外では護衛騎士のヨルクが控えていた。
 ヨルクはブロムベルク辺境伯家の遠い親戚筋で、幼いころは辺境で一緒に育ち、わたしが十四歳のときに帝都に出てきて護衛を務めている。

「お館様のお説教は済んだ?」
「……ええ」
「何があったの? 直前まであいつにメロメロだったのに」

 誰もいない場所だと、ヨルクは幼馴染の気安さで砕けた口調になる。

「……何って、ディートリンデ様にあんな目で睨まれたら、誰でも気づくでしょ」

 前回のわたしは気づかなかったけど。

「あー、あれねえ……あのお姫様はちょっと見目のいい男がいると、まるで調度品みたいに身近に侍らせたくなるらしいよ?」
「そんな噂が?」

 わたしは驚いてヨルクを見上げた。

「あいつはディートリンデ嬢の一番のお気に入りだったって話だもの」
「はあ、やっかいなこと」

 わたしがため息を零すと、ヨルクは面白そうな表情をした。

「でもお嬢がそれに気づいてよかったよ。ちょっと前まで盲信していたからさ」
「お父さまには叱られちゃった。妻の役目を果たせって……」
「まあ、俺に言わせればざまぁみろ、って感じだけど? あいつ、本当に無駄に女にモテるからさ。魅了の術でも使ってるんじゃないかってくらい」
「ええ?」

 わたしが声を上げた瞬間、前方を見ていたヨルクが手を挙げて制す。

「しっ! 噂をすればなんとやら、だ」

 ヨルクがわたしの腕を掴んでつい、と角を曲がる。そこで立ち止まり、無言で上方を指さした。その方角を視線でたどると――
 吹き抜けになった上階の、柱の並ぶテラス状の回廊で、ユードがメイドの誰かと話をしていた。
 紺色のお仕着せに白いフリルのついたエプロンを着け、赤い髪がちらっと見える。

「あれ……モリー?」

 柱の陰で何やら囁き合っている様子は、ずいぶんと親密そうに見える。

「あー、この廊下はお館様の部屋に通じていて、滅多に人も通らないから油断したんだなあ……」

 そう呟くヨルクに、わたしは言う。

「もう行きましょう。見たって面白くもなんともないわ」
「お嬢、ショック受けないんだ」
「えーだって……」

 あの男が裏切るのはもう、決定事項だ。
 今さら心が痛んだりはしない……前世の何も知らないわたしだったら、ショックを受けただろうけど。

「モリーとは以前から知り合いだったのかしら?」

 二人の密会現場から少し離れて、わたしが尋ねると、ヨルクは首を傾げる。

「さあ? ユードはお館様の後継者として婚約後はお屋敷に住んでいるから、知り合う機会はあったかもねえ」
「ユード様よ」

 わたしはヨルクを窘める。

「一応、わたしの夫で、次期辺境伯なんだから、呼び捨てはよくないわ」
「ちぇっ」

 ヨルクが舌打ちして肩を竦める。

「でも困ったわ。お父さまはああおっしゃったけれど、メイドに手をつける婿はだめよ」
「そりゃあ、まあ……」
「ヨルクは証人になってね?」
「俺がぁ?」

 ヨルクが自分を指さして、困った顔をしている。

「しょうがねぇなあ……」

 ぶつぶつ言うヨルクを後目しりめに、わたしは今夜はどうやってユードを躱そうかと考えをめぐらすのだった。


「本当に体調が悪いの! 夕食もいらないわ。ユードにも先にやすむと伝えて」

 考えあぐねた結果、わたしは体調不良で押し切ることにした。信憑性を高めるために、夕食も摂らずに部屋にこもり、ベッドに潜りこんだ。わたしの体調不良は夕食の席で伝えられるだろうし、これなら、お父さまも無理は言わないはず。
 毛布を被ってベッドの中で目を閉じると、脳裏に浮かぶのは朝のユードとモリーの姿。
 何を話していたのかしら。
 ――きっと、ディートリンデ様ともあんなふうに……
 なんだか急に睡魔に襲われ、わたしはそのまま眠りの世界に身をゆだねる。
 そうだ、前世でも見たことがある。あんなふうに寄り添い、抱き合うユードと、ディートリンデ様を――あれは――


   ◆◆◆


 夜の庭園。空には満月が輝いている。
 わたしはひとり、夫を――ユードを探していた。
 ところどころに魔導ランタンが設置され、噴水が虹色に照らされる幻想的な光景。夜風に揺れる樹々のざわめき。
 今夜は、皇太后陛下主催の舞踏会で――
 夜会や社交の場は憂鬱だった。無遠慮な噂話や親切ごかしの忠告が耳に入るたびに、心が少しずつすり減っていく。

『あなたの旦那様、素敵だけど、ディートリンデ様と……』
『わたくしも見ましたわ、二人で寄り添い合って。……セシリア様という者がありながら!』

 貴婦人たちからのご注進に、わたしはいつも騒ぐ胸を抑え、おっとりと答えるしかない。

『ユードは以前、あの方の護衛騎士でしたし……ディートリンデ様も頼りがちなのでございましょう』
『だからってあんなあからさまに……少し寛大すぎるのではなくて? あなたは家付き娘なのだから、もっとしっかりなさらないと!』
『……ご忠告、感謝いたします』

 そんなやり取りに疲れ果て、例によってどこかに行ってしまった夫を探すていで、わたしは皇宮の広間をあとにしたが――
 夜の庭はただでさえ不安を煽る。ユードはどこにいるの?
 大声をあげて呼びかけたいのを堪え、ただ周囲を見回す。噴水の脇の石畳の小径をたどり、緑の生垣で区切られた庭の奥を覗く。月明りに照らされて青白く浮かび上がる大理石の四阿あずまやで、男女が抱き合っていた。
 わたしは息を殺し、そっと生垣の陰から目を凝らす。
 あれは――ユードと、ディートリンデ様。
 もう間違いなかった。噂に聞いた通りだった。
 二人は、わたしとユードが出会う以前から――侯爵令嬢と平民出の護衛騎士だったときからの、身分違いの恋人同士なのだ。
 口づけを交わし合う二人の姿を見ても、わたしは意外と冷静だった。深呼吸をひとつすると、足音を立てないよう、そっとその場を離れる。
 だが冷静なつもりでも、内心は動揺していたのだろう。うっかり小枝を踏んでしまい、ぱきっと折れる音がした。それは息が止まるかと思うほどの大きさで周囲に響きわたる。
 わたしはドレスの裾を摘まむと、そこからは足音を気にせずに駆け足になった。
 ――あの場に居合わせた人物がわたしだと、二人に知られたくはなかったから。


 二人のいる場所から離れても、まだ、動悸は収まらない。噂は幾度も耳にしていたし、ディートリンデ様からは、露骨に威圧されることもしばしばだった。
 ――なのに、心のどこかでただの噂に過ぎないと、わたしは信じこもうとしていた。決定的な場面に居合わせて、いかに鈍いわたしでも真実に向き合うしかない。
 夫の裏切りに傷ついた? それとも、失望?
 さまざまな感情が胸のうちをグルグルと渦巻く。
 わたしは、ブロムベルク辺境伯家の娘で、ユードは入り婿なのだ。我がブロムベルクの威信にかけても、知ってしまった以上は、不貞を許すことはできない。
 わたしは広間には戻らず、月明りの下、ひとり玄関の車寄せに向かって――


   ◆◆◆


 夢ともうつつともつかぬ記憶の海に揺蕩たゆたいながら、わたしは思う。
 ――前世のわたし、知っていたんだわ。
 口づけを交わす二人の姿を目にしていた。ユードの裏切りに気づいて、不貞を糾弾しなければと思っていたのだ。
 なのに――
 あのあと、どうしたのかしら。
 あれは皇宮の庭だから、わたしはきっと馬車で帰って――
 記憶の奥から、あの、強烈な香水の匂いが甦ってくる。
 ディートリンデ様の、香水。
 そうだ、ユードは時々、あの香りを纏って帰ってきた。そうして――
 ユードの端麗な顔が近づき、口づけられる。
 それだけで脳が沸騰して、わたしは抵抗する力を失ってしまう。そのまま、彼の熱い舌が咥内に侵入し、唾液が流しこまれる。
 頭の芯から痺れ、酩酊感に襲われて――いつもユードの口づけは甘い毒を注ぎ込み、わたしの自我も抵抗の気力も削いでしまった。
 そうして、わたしは――

「愛しています、セシリア……」

 愛を囁かれるたびにあっさりと彼を許し、抱かれるたびに彼の裏切りを忘れて身も心も捧げてしまったのだ。
 なんて、愚かな――
 あんな、嘘つきの裏切り者に――


「愛しています、セシリア……」

 熱い息を耳元に感じて、わたしは覚醒する。
 目を開けると、間近にユードの整いすぎている綺麗な顔があった。

「ユード……⁉」

 ギョッとして身を起こすと、ユードも慌てて身を引いた。

「すみません、勝手に入ってしまって……その……」

 ユードの部屋とはドア一枚でつながっている。そのドアに鍵をかけていなかったから、入ってこられたのだ。
 一応、夫だから咎めるわけにはいかない。

「セシリア、体調はどうですか?」

 心配そうに尋ねられ、わたしは首を振った。

「……いえ、大丈夫。横になっているうちに眠ってしまったのね」
「何も口にしていないと聞いて、果物なら食べられるかと思って」

 ユードは銀の皿に各種果物を切って盛りつけたものを持っていた。仮病のわたしの、腹の虫がぐうと鳴る。

「あ、っとこれは――」

 慌ててお腹を押さえるわたしに、ユードが微笑んだ。

「食欲が戻ったのならいいことです。少しでも食べてください」

 ユードはベッドの脇の椅子に腰を下ろし、皿をサイドテーブルに置いて、あっと言った。

「しまった。フォークがない」
「……じゃあアニーを呼んで」

 呼び鈴の紐に伸ばしたわたしの手を制止し、ユードは一口大に切ったメロンを指で摘まんで、わたしの口元に運んだ。

「はい、口を開けて」
「そんな……」

 完熟したメロンの果汁が滴り落ちそうで、わたしが反射的に口を開くと、そこにユードがメロンを押し込む。甘い果汁が口内を満たし、じゅるりとはしたない音がして、わたしは羞恥で顔を背けた。
 そんな様子をユードが蕩けそうな顔で見ている。そんなふうに見つめられたら勘違いしてしまいそうで、わたしは慌てて目をつむった。

「次は葡萄ぶどうを……」

 葡萄ぶどうはすでに皮を剥いてある。ユードの武骨な指がそれを摘まみ、わたしの唇に触れさせた。つるりと葡萄ぶどうを吸い込んだ拍子に、果汁塗れのユードの指まで吸ってしまった。

「あ……」

 しまったと慌てて口を離そうとしたけれど、ユードの指がわたしの口内をぐるりと撫で、口蓋の裏をついとたどる。一瞬、ぞくっとした感覚が背筋を走り、わたしは無意識に身をくねらせた。

「セシリア……」

 ユードの形のいい唇がニッと弧を描く。口内を弄んでいた長い指がわたしの顎を固定し、そのまま唇を塞がれた。半ば開いていた唇の隙間から、熱い舌が入りこむ。

「ふっ……んんっ……」

 脳内に一気に流れ込む甘い痺れ。口づけられるだけで、うっとり夢見心地になる。ぐらりと酩酊する感覚に、わたしは気づいた。
 ――これはまさか、魅了? でも、ユードは平民出だから、魔力はないはず――
 抵抗しなければと、わたしはユードの逞しい身体を押し返そうと腕を突っ張った。しかし、這いまわる舌に口蓋の裏を舐め上げられ、ゾクゾクとした感覚に抵抗の矢を折られてしまう。そのまま身体の力が抜けると、抱きすくめられた。

「だめ……」

 これ以上キスが続けば、わたしはすっかりユードの言いなりで、前世の二の舞になってしまう!
 わたしが涙目で首を振ると、ユードの唇が離れる。
 腕の中に囚われたまま肩で息をしているわたしを、彼は至近距離から見下ろしていた。

「セシリア、俺は、貴女を怒らせるようなことをしましたか?」


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