白薔薇の花嫁は王太子の執愛に堕ちる

無憂

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1巻

1-3

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「正確には知らないけど、父上より年上で、俺と同い年の孫がいるぜ? 笑っちゃうよな、友人の祖父が、姉貴と結婚するなんて! でも夜の方はまだまだお盛んで、若い愛人が五、六人はいるって話だぜ? だからあっちの方は大丈夫――」
「アラン! 修道院でする話じゃないでしょ! 声を落として!」

 ロクサーヌが弟の軽口を窘め、アニエスに微笑みかける。

「ギュネ侯爵って、本当に、びっくりするほど情報通なのね。隣国のルエーヴル公爵が亡くなってすぐ、お姉さまが唯一の継承人になったって知ってらした。お父様なんて、言われるまで気づかなかったのに」

 まさしく、院長の懸念が的中したのだ。すうっと血の気が引いて、アニエスは口元を押さえて俯く。それを横目に見ながら、ロクサーヌはことさらに陽気な声で続けた。

「確かにお歳は召していらっしゃるけど、貴族の結婚ですもの。年上の方の後妻に入るのは、別に珍しいことじゃないわ。なにしろ侯爵で、国王陛下の一番の寵臣なのよ!」
「ロクサーヌ、わたしは神に仕えて生きるつもりだったの。なのに、お父様より年上の方に嫁ぐなんて。なんとかお断りを――」

 だが即座にアランが言った。

「断るなんてとんでもない! ギュネ侯爵は父上の派閥のボスで、逆らったら我が家だってどうなるかわからないんだぞ!」
「そうよ。ギュネ侯爵に逆らって、王太子妃になれなくなったら困るわ。お姉さまには、絶対に、ギュネ侯爵と結婚してもらわないと!」
「絶対に……?」

 政略のために年上の相手に嫁ぐのも、貴族の役割と言われれば反論はできない。でも、ロクサーヌが王太子妃になるのと引き換えに、生贄のように老人の妻にされるのはあまりに理不尽ではないか。
 だが、アニエスの心情を知ってか知らずか、ロクサーヌは紫色の瞳を妖艶にきらめかせ、噛んで含めるようにアニエスに語る。

「ギュネ侯爵は、ルエーヴル女公爵の夫という立場が欲しいのよ。だから、お姉さまとの結婚を条件に、わたしを後押しすると約束してくださった。お姉さまさえ、ギュネ侯爵に嫁いでくだされば、わたしは王太子殿下と結婚できるの。ね、お姉さま、お願い。わたし、どうしてもアンブロワーズ殿下の花嫁になりたいの」

 アニエスの犠牲を当然とするロクサーヌの本心を突きつけられ、アニエスは黙り込むしかなかった。


 数日後、ラングレー伯爵は王都の公証人とお針子を引き連れ、修道院を訪れた。正規の手続きを経てアニエスを連れ帰るためだ。
 見習い期間ということもあり、実の父親による還俗の嘆願は認められてしまった。
 用意された真紅のドレスは装飾も凝った華やかなものだったが、アニエスには似合いそうもない。
 急遽、ロクサーヌのお古を手直ししたのだろうと、アニエスには予想がついた。
 別室で修道服からドレスに着替え、お針子がその場でサイズの手直しをする。薄く化粧を施され、金茶色の髪も結われて、すっかり貴族令嬢のように装った自分の姿を見下ろしても、アニエスの心は晴れない。足取りも重く貴賓室に戻れば、待っていたジョセフィーヌ院長は、花がほころぶように笑って、アニエスを迎えた。

「まあ、美しいこと、アニエス! 素敵だわ! ――あなたはルエーヴル公爵を継承するのよ。もっと派手なドレスでもいいくらいだわ。父親の伯爵よりも身分が上になるのだから」

 たとえ気休めであっても、自らの意志に反して還俗をいられるアニエスにとっては、院長の言葉はわずかな慰めに思えた。
 だが、院長に当てこすられたと感じたのだろう、ラングレー伯爵が一瞬表情を歪める。

「とにかく、これでアニエスのサインさえあれば、還俗の手続きが終わるはずです」

 そう言って、ラングレー伯爵はアニエスに書類とペンを突き付けた。

「院長さま……」

 アニエスが不安げに院長を見るが、院長は微笑んで、しかし無言で首を振った。
 ――どうにもならない、逃れる道はないのだ。
 アニエスは諦めて、震える手で書類にサインをした。


 修道院の車寄せでは、ラングレー伯爵家の馬車が待っていた。先に父のラングレー伯爵が馬車に乗りこみ、アニエスも院長に別れを告げようとしたとき、院長がアニエスを抱擁し、周囲に聞こえないよう、耳元で囁く。

「あたくしはいつでも、あなたの味方よ。――ギュネ侯爵のこと、母の王太后には伝えてあるわ。安心なさい。ラングレー伯爵家には王宮から使者が向かう手筈になっているのよ」

 アニエスがハッと目を見開けば、院長が安心させるようにアニエスの背中を撫でる。

「身体に気を付けて、元気でね」

 院長の慈愛に満ちた笑顔に、アニエスは泣きそうになる。――希望の糸はまだ切れていないと、信じていいのかしら――
 だが、アニエスが馬車に乗り、扉が閉まると、ラングレー伯爵は不愉快そうに言った。

「ぼやぼやするな。……ずいぶん、時間を食ってしまった。約束の時間に遅れそうだ」
「申し訳ありません」

 約束とはなんだろうと疑問に思いながらも、アニエスが父に詫びれば、伯爵は馬車の座席に背中をあずけ、ホッとしたように息を吐いた。

「やれやれ、ようやく修道院から連れ戻せた。教会とは厄介なものだ」

 教会は治外法権があり、世俗の権力が通用しない。今、アニエスは教会の保護下を離れたのだ。アニエスは俯いて、膝の上で両手を握りしめる。父親が、アニエスに尋ねた。

「ロクサーヌから聞いているか?」
「王太子妃になると……」

 アニエスの答えに、ラングレー伯爵は面倒くさそうに首を振る。

「それではなく、ギュネ侯爵との結婚についてだ」

 アニエスはギクリと身を強張らせる。

「できる限り早く婚礼を、とギュネ侯爵がおっしゃっている。……王家から横槍が入らぬうちに」
「――っ」

 ジョセフィーヌ院長が残した救済の細い糸。だが、父もギュネ侯爵も、王家の対応を予測していたらしい。

「王太后が隣国の要請を持ち出して、お前を王宮で保護すると言い出しおった。だからともかく実質的に夫婦になって、王家が口出しできぬようにしないと」

 父の言葉に、アニエスは窓の外を見た。王都の地理に詳しくないアニエスだが、馬車が見慣れぬ方角に向かっているのに気付いた。

「どこに、向かっているのです?」
「――ギュネ侯爵邸だ」

 院長は、王家からの助けがラングレー伯爵家に向かうよう、手を回してくれた。だが、父とギュネ侯爵はその裏をかくつもりなのだ。
 アニエスの胸は絶望で塞がれる。
 見たこともない、父親よりも年上の男に嫁ぐ。政略結婚も貴族なら致し方ないのかもしれない。でも、妹の結婚のために売られるように嫁ぐのは、あまりにむごい。
 この先の人生はきっと、闇が続く――
 はるか遠くなった修道院の尖塔を見ながら、アニエスは涙を零した。


   ◆


 王都の石畳の道をしばらく進み、大きな屋敷の前で馬車は停まった。
 長く馬車に揺られただけで、アニエスはすっかり疲れ果てていた。いつもと違う、コルセットで締め上げたドレス、高い踵の靴も辛い。父に促されて馬車を降りると慇懃いんぎんに礼をする使用人の向こうに、白髪交じりの灰色の髪を撫でつけた恰幅のいい壮年の男が見えた。

「おお、これが我が花嫁か! いや、さすが美しい! ようこそ、未来のルエーヴル女公爵!」

 大仰な仕草で迎え入れられ、アニエスの足が竦む。
 ――これが、ギュネ侯爵。わたしの、夫――
 父娘どころか、祖父と孫ぐらいの年齢差のある相手に対し、まごついて挨拶も返せないアニエスに代わって、父のラングレー伯爵が言い訳する。

「これは修道院育ちで、なかなか世慣れませず」
「いやいや、この世の濁りに染まず、清らかなままである! ――そういう女を我が色に染めるのも、また一興……」

 下卑た笑みを浮かべるギュネ侯爵に、その場から逃げ出したくてたまらない。
 しかし逃げる場所などどこにもなく、アニエスはギュネ侯爵にがっちりと手首を掴まれ、にやにやと笑いかけられながら、屋敷の奥へと導かれた。手首を握る掌の、じっとりと汗ばんだ感覚が不快極まりなく、払いのけたいのを懸命に堪える。
 視線を感じてふと顔を上げれば、間近に顎のたるんだ老いた顔があって、アニエスは一瞬、息を呑んだ。男はすでに興奮しているのか、鼻息が荒い。

「部屋で休むがよい、また後ほど。――メイド長! 花嫁を部屋に。ラングレー伯はサロンでもてなすように。今宵は泊まられるからその支度もな!」

 進み出たメイド長に託されて、思わず安堵のため息を零す。
 今後のことを話し合うと言ってサロンに消えていった父とギュネ侯爵の背中を見送り、アニエスはメイド長に連れられて階段を上った。

「――ここがあなた様のお部屋です。結婚式が終わるまでは、勝手に出歩かないように」

 案内されたのは、それほど広くない客室で、天蓋付きの大きくて立派なベッドがやけに目についた。
 不安そうに周囲を見回すアニエスに値踏みするような視線を向けて、メイド長がため息をついた。

「……情けないこと、こんな小娘を奥様と仰ぐことになるなんて」

 聞こえよがしな呟きに、アニエスは眉をひそめる。アニエスだって結婚なんてしたくない。
 何か言い返そうかと振り向くと、いかにも蔑むような口調で、機先を制される。

「お荷物がまだ届いておりませんので、着替えはまた後ほど」
「……ありがとうございます。しばらく休ませていただきます」

 どうやら、父のラングレー伯爵は修道院からアニエスを連れ出すことしか考えていなかったらしい。
 アニエスは肩をそびやかして去っていくメイド長の背中を見送り、ため息をつくと布張りのソファに腰を下ろした。

「疲れたわ……」

 あまりにも怒涛の一日だった。まだ司祭の前で婚姻を誓っていないのが救いと言えば救いだが、ギュネ侯爵の顔を思い出すだけでゾッとする。
 これからどうなるのか……せめて今は少しだけ休みたい……とソファにもたれて目を閉じて――
 アニエスはそのまま眠ってしまったらしかった。

「ラングレー伯爵令嬢! 起きてくださいまし!」

 乱暴に揺り起こされて、アニエスはハッと目を開ける。
 見れば、呆れたようなメイド長の顔があった。

「お召し換えなさってください。この後、旦那様がいらっしゃいます」
「え……だ、旦那様?」

 ぽかんとするアニエスを後目に、メイド長がメイドたちに指示を出す。強引にドレスを脱がされ、浴室に引きずり込まれて乱暴に洗われた。
 着替えに準備されていたのは、薄いモスリンのシュミーズドレス。身体のラインがはっきり透けて見えて、アニエスは恥ずかしさに真っ青になる。
 ――こんなドレスでギュネ侯爵に会えと⁉

「待って、結婚式もまだなのに⁉」
「後々、大々的にお披露目はなさる予定のようですよ。ただ今夜は、旦那様はあなたをなさりたいんですって!」

 メイド長の思いやりのかけらもない言葉に、アニエスは身震いした。
 ――実はメイド長も侯爵の愛人の一人で、故にアニエスに当たりがきついのだが、もちろんそんなことをアニエスが知るよしもない。
 寝化粧を施され、グラスになみなみと注がれたピンク色の酒を勧められる。

「わたし、お酒は……」
「飲み干してください。旦那様のご命令です」

 遠慮しようとしたが拒否することは許されず、仕方なく、その甘ったるい酒を飲み干す。
 強い酒精にカッと身体が熱くなり、酩酊感に襲われて、アニエスはふらふらとソファに倒れ込んだ。同時に、身体に変化が起きるのを感じた。

(う……あ……? なに、これ……)

 天地が反転して視界がぐるぐると回り、身体が火照ほてる。じっとりと汗ばんで息遣いが荒くなる。
 身動きも取れずに悶えるアニエスの耳に、メイドたちが下がる気配と、誰かが部屋に入ってくる音がした。

「ふむ、よく効いているな、さすがの効果だ……」
「う……だ、れ……」
「ワシじゃよ、お前の夫だ――ルエーヴル女公爵アニエス」

 そう言って顎に手をかけられ、ぐいっと向きを変えられる。辛うじて薄く目を開ければ、ぼやけた視界に、ギュネ侯爵の下卑た笑顔が飛び込んでアニエスが息を呑んだ。
 酒精と薬の効果で侯爵の顔がぐわんと歪み、周囲の音が消え、極彩色の渦に飲み込まれる。
 いや、誰か――
 手足も動かせず、呼吸すらままならない。必死に空気を取り込もうとするが、闇雲に呼吸だけが荒くなる。苦しい、誰か――助けて――身体が熱い。全身が疼いて、息が苦しい。
 これは、悪い夢――? 
 浮かび上がろうとする努力もむなしく、アニエスの意識は混濁し、底なし沼のような闇に引きずりこまれていった。


 突如、ふわりと身体が抱き上げられるような気配がした。なにか、温かいものに包み込まれて――ふわふわと浮き上がり、優しいぬくもりを感じる。
 ――ああ、これは夢だ。金色の――
 黄金色に輝く光の中で、アニエスは修道院の、薬草園に続く庭にいた。噴水が夕暮れの陽光を弾き、木漏れ日が揺れる。風に白い花びらが舞い散り、目の前には金の巻き毛をキラキラときらめかせた、まだ若い修道士。あの人は――
 灰色の修道士のローブが金色の風になびく。少年が手を伸ばし、身動きの取れないアニエスを抱きしめた。

『アンブロワーズ……』
『アニエス』

 いけない、これ以上近づいたら――でも、これは夢だから――
 夢なのに、彼のぬくもりを感じる。
 少年がアニエスの肩口に神々しくも美しい顔を寄せ、彼の熱い息が顔にかかる。アニエスの身体は相変わらず熱を帯びていたが、温かい何かが、壊れ物に触れるようにそっと這わされる。太ももから秘密の場所へ――煮えたぎるほど熱い身体の奥から、疼くような感覚がせりあがってくる。
 これは、夢。きっと、あの妙な薬が見せる、淫らな夢。だから――
 金色の鮮やかな波に攫われて、アニエスの感覚は弾けて、粉々になっていった。



   第三章 手折られた白薔薇


 見慣れぬ寝台の上で目を覚ました。
 すでに日は高く、大きな窓から燦燦と光が差し込んでいる。慌てて身を起こすと、着ているのは昨夜、ギュネ侯爵家で着せられたモスリンのシュミーズドレスだ。

(……ここは……?)

 ギュネ侯爵家の客間ではなかった。昨夜、ギュネ侯爵がやってきて……
 最後に見たギュネ侯爵の下卑た表情を思い出し、アニエスは無意識に自分を抱きしめる。

(あの後、わたしはどうなったの? ここはどこ?)

 アニエスが起きた気配を感じ取ったのか、ノックがあってメイドが部屋を覗く。まだ若いメイドはアニエスを安心させるようににこりと微笑んだ。

「お目覚めですか。すぐに人を呼んで参ります」

 メイドの態度もお仕着せも、ギュネ侯爵家とは全然違う。メイドは一度部屋を出ると、二十代半ばくらいの、深緑色のシックなドレスを着た女性を連れて戻ってきた。

「わたくしは王太后陛下付きの女官長補佐、ジョアナ・ルグランです。アニエス・ロサルバですね? 気分はどうかしら?」

 女官長補佐だと名乗る女性は、目元の泣きボクロが色っぽく、茶色い髪を綺麗に結っていた。しっとりとした声で優しく尋ねられ、アニエスはドギマギする。

「だ、大丈夫です。……ここは、どこですか?」
「ここは、王太后宮の一室です。昨夜、王太子殿下と王太后陛下のご命令で、あなたをギュネ侯爵邸からお連れしたのよ」
「王太后宮……」

 全く予想もできない展開に、アニエスはあんぐりと口を開ける。

「えっと……あなたのことは、なんてお呼びすれば……」
「マダム・ルグランと呼ばれることが多いけど、ジョアナと呼んでくれてもいいわ。こちらはあなた付きのメイドになる、ゾエよ」

 ジョアナはメイドのゾエに命じて枕元の水差しからグラスに水を注がせ、それをアニエスに手渡す。

「あなたはおかしな薬を飲まされて意識がなかったの。薬は抜けていると思いますが、水をたくさん飲むようにしてください」

 アニエスは最後に飲まされた怪しげな薬酒のことを思い出し、グラスの水を両手で受け取り、慌ててごくごくと飲んだ。温い水が喉を通り、少しだけ頭がはっきりしてくる。

「王太后様が、わたしを?」

 ジョアナは頷く。

「ええ、ラングレー邸で捕まえるつもりが、あなたが直接ギュネ侯爵の屋敷に連れていかれたものだから肝が冷えたわ。王太子殿下が教令を出して、間一髪で救い出せたの」

 院長の依頼を受けて、王太后はアニエスを侍女に召し出すという命令を出してくれていた。
 だがラングレー伯爵とギュネ侯爵は王太后の裏をかき、まっすぐアニエスをギュネ侯爵邸に連れ込んで囲い込もうとした。それを察知した王太子が、侍従官を派遣してギュネ侯爵邸に踏み込ませ、意識のないアニエスを救い出したという。

「王太子殿下が……」
(じゃあ、夢の中のアンブロワーズは、もしかして――)

 昨夜の夢の中のアンブロワーズの姿を思い出し、アニエスはぎゅっと自分の身体を抱きしめた。


 王太后宮の侍医の診察を受け、異常がないことが確認されると、アニエスは王太后に拝謁することになった。ジョアナの指示で、拝謁のための身支度を整える。クローゼットには、ラングレー伯爵邸から運び込まれたというドレスが数着並んでいた。ジョアナがクローゼットを覗き込み、顎に手を当てて考え、紫色の一着を選ぶ。

「……少し、あなたには袖が長いのではなくて?」
「あ……たぶん、妹のお古だから……」

 ゾエにドレスを着付けられながらアニエスが言えば、ジョアナが眉をひそめる。

「ああ、ロクサーヌ嬢の……なるほどね。王太后陛下に申し上げて、あなたのためのドレスを仕立てていただきましょう。似合うドレスを見立てるのも、淑女の心得ですからね」

 暗にドレスが似合っていないと言われて、アニエスは恥ずかしさで俯いた。
 ドレスを着付ける間、ジョアナはゾエの手際に目を光らせつつ、アニエスのこれからについて話してくれた。

「あなたは行儀見習いのため、王太后陛下付の侍女としてお仕えすることになります」

 その言葉にアニエスはハッと目を見開いた。

「侍女……そんな大役が務まるでしょうか。わたしはずっと修道院暮らしで、貴族の常識にもうとくて……」

 不安そうに告げるアニエスに、ジョアナが微笑む。

「だからこその、行儀見習いの侍女よ。陛下はあなたを身近に置いて、自ら教育なさるおつもりよ。ルエーヴル公爵の継承人のあなたが、あまりに世慣れないのも不安ですからね」

 ジョアナによれば、ルエーヴル公爵領は隣国のセレンティア王家に忠誠を誓う大貴族で、領地もそこらの小国をしのぐほど広大であるという。隣国の王家が、ルエーヴルの継承に神経を尖らせるのも当然なのだと。
 にもかかわらず、ラングレー伯爵はアニエスの結婚を、ギュネ侯爵に売ったのだ。これは大変な国際問題になりかねない。

「セレンティアは、我が王家にあなたの保護を要請していました。ジョセフィーヌ大公女殿下が院長を務める聖マルガリータ修道院にいたから、ひとまずは大丈夫だと思っていたのに――」

 そう言いながら、ジョアナはアニエスの周囲を点検するように回り、フリルを直した。

「あなたが還俗して教会を出たら、ラングレー伯爵家に命令を下し、侍女として召し出すつもりだったのに、直接ギュネ侯爵邸に連れていかれてしまって。気が気じゃなかったわ」
「マダム・ルグラン、ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」

 裏でいろいろな暗躍があったと知り、申し訳ない気持ちでアニエスが詫びれば、ジョアナが笑った。

「お礼は王太后陛下と、王太子殿下に言うべきね。さ、支度ができたわ。王太后陛下はお優しい方よ、ここならあなたも安心して暮らせるわ!」

 結局、午後の日が陰る頃の時刻になっていた。
 初めて目にする王宮は、アニエスの想像を超えた豪華さだった。
 毛足の長い絨毯が敷き詰められた廊下は、それだけで一部屋分ありそうな広さ。高い天井には華麗な天井画が描かれ、ついつい首が痛くなるまで見上げてしまう。壁にも豪華な装飾が施され、キラキラしいお仕着せの衛兵が立ち並んで、まばゆいほど。国王の住まう本宮と王太子宮は回廊でつながっているが、王太后宮は庭を隔てた離宮になっているという。
 先導するジョアナがアニエスを振り返って微笑む。

「王太后陛下は贅沢を好まず、こぢんまりとした暮らしを望んで、こちらに引っ込まれたのですがね。……十年前の火事で、そうもいかなくなりました」

 これがこぢんまりなら、本宮はどんな豪華さなのか。
 あんぐりと口を開けて、しばらく高い天井のアーチに見惚れていたアニエスは、ハッと我に返り、ジョアナに必死についていく。真紅の絨毯の上をずんずん歩いて、ようやく奥の扉の前に来た。

「女官長補佐、ジョアナ・ルグランでございます。ご命令の通り、ラングレー伯爵令嬢をお連れいたしました」

 ジョアナが扉の前の小姓に告げると、小姓の合図とともに、扉が重々しく開かれる。
 扉の内部は広い居間だった。午後の光が金銀の装飾を反射してキラキラ輝く。高い天井から床まで届く大きなガラス窓。色ガラスをはめ込んだ装飾窓の光が、大理石の床に華麗な花模様を映し出す。ざわざわと人込みが揺れ、中年の女性が滑るように現れ、二人に告げた。

「奥に」

 導かれるまま、毛足の長い絨毯の上を歩いて窓辺に近づけば、長椅子に足を伸ばし、脚台オットマンに片足を乗せた老齢の女性が、逆光の中で身動きした。
 真っ白な髪を結い上げ、豪華な黒い衣装をまとった威厳溢れる女性。
 ――どことなくジョセフィーヌ院長に似ている。
 アニエスはそう思いながら、ジョアナにならってドレスを摘まみ、片足を引いて腰を落とし、軽く頭を下げた。礼儀作法そのものは、修道院で院長直々に仕込まれている。実践する機会があると思わなかったけれど。

「ラングレー伯爵令嬢のアニエスでございます」

 ジョアナがアニエスを紹介すれば、王太后陛下は威厳ある声で言った。

「よい、顔を上げよ。正しくは、ルエーヴル女公爵となるべき、アニエス・ロサルバ……そうであるな?」

 ずっと頭を下げたままだったアニエスは、王太后陛下の「楽にせよ」という声でようやく、姿勢を戻す。

「ジョセフィーヌから手紙をもらっておる。そなたがまるで娘のようだと。……ジョセフィーヌの娘であれば、わらわには孫も同じ。ギュネの狒々爺ひひじじいのもとに嫁にやるなど、到底、許せぬこと。行儀見習いを名目に侍女として召し出す故、気楽に仕えるがよい」
「……ありがたき、幸せにございます」

 それだけを口にするのがやっとだった。
 緊張で固くなっているアニエスの、世慣れぬ風を好ましく思ったのか、王太后陛下は微笑んだ。

「そなたは修道院にて修道教育を受けておった。《聖典》の読みは心得ておるであろう? 一つ、わらわに読み上げてたも。近頃、目がわるうなって、細かい文字が読めぬ故」
「は、はい……」

 戸惑うアニエスの元に、革張りの表紙に金文字の装飾が散りばめられた、見事な《聖典》が手渡される。鮮やかな挿絵に精緻な飾り文字がふんだんに使われて、金文字がキラキラと輝き、息を呑むほど美しい。アニエスがうっとりと見つめていると、王太后が面白そうに言った。

「そなた、書物は好きか?」

 問いかけられ、アニエスは慌てて我に返り、頷く。

「は、は、はい!」
「それは重畳。この宮は朗読に慣れた者が少なくてのう。早速、読んでたもれ。そうさな、詩篇の――」

 アニエスは指定されたページをめくり、深呼吸すると、静かな声で読み上げ始めた。
 王太后陛下はアニエスの朗読が気に入ったのか、じっと目を閉じて聞き入っている。


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