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1巻

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   プロローグ


 どうして、こんなことに――
 今、我が身に起きていることが、アニエスには悪夢としか思えなかった。
 これが現実だと考えたくない。こんなこと、あってはならない。


 大きな窓から月の光が差し込み、寝台を囲む天蓋に影が躍る。
 アニエスの白い夜着は力ずくで剥ぎ取られ、両手首はレースのクラヴァットでいましめられている。生まれたままの姿で自由を奪われ、押し広げられた両脚のつけ根で金髪の頭がうごめき、ぴちゃぴちゃと獣が水を飲むような音が寝室に響く。

「んっ、やっ、やめっ……ああっ、だめっ、いやあっ、あっ、あっ……」

 口淫にふける男の金色の髪が月光を弾き、青白く輝く。アニエスを力ずくで組み敷いている男は、妹の婚約者であり――この国の王太子だ。
 アニエスはわずかに動く両手で、その髪を引っ張ったり掴んだりして必死に逃れようとするが、そんな抵抗などなんの意味もなかった。男はアニエスの秘所に顔を埋めたまま、花びらの内側に舌を這わせて蜜を舐め取り、赤く腫れて立ち上がった陰核を舌で転がし、強く吸った。

「ああっ……あああああっ……ぁあ―――っ」

 瞬間、アニエスは甲高い悲鳴をあげ、全身を仰け反らせて達する。

「またイッたか……やっと解れてきた……」
「や、ああっ、もう……だめ……あっ……」

 溢れ出した蜜を男が吸い上げ、達したばかりのアニエスは全身を痙攣させて身悶える。すでに何度も絶頂に至っているのに男の責めは止まない。
 朦朧とした意識の中で、アニエスは思う。これはきっと、悪魔が見せる淫夢に違いない。
 淫魔が王太子殿下に化けて、わたしを堕落させようとしているのだ、と。
 なんて、恥ずかしい。淫らないやらしい夢。
 早く、この夢から醒めないと――
 アニエスは必死に首を振り、意識を保とうとしたが、アニエスをさいなむ舌も指も、あまりに巧みだった。敏感な尖りをもてあそび、長い指が内部の感じる場所を的確に暴きだしていく。初めて知る感覚に、腰から溶けていきそう。堕落を誘う悪魔の技に、アニエスはいつしか抗うことを諦め、脚の間でうごめく金色の髪に指を絡め、自ら腰を揺らして泥沼のような快楽に溺れていた。
 絶頂の波がアニエスを襲うごとに、脳裏で白い光が弾ける。

「あっ……ああっ……あっ……ああっ……あぁ―――っ」

 目くるめく快感に翻弄されたアニエスは、ぐったりと弛緩した身体をベッドの上に投げ出し、呆然と頭上の天蓋を眺める。知らぬ間に流した涙で視界が滲む。アニエスを散々なぶった男は、手の甲で口元を拭いながら真上からアニエスを見下ろした。
 月の光に照らされた端整な顔立ち。金糸銀糸の凝った刺繍がきらめく、豪華なジュストコールに揃いのジレ。緩く波打つ金色の長い髪が肩から背中を覆う姿は、月の精のように美しく冷酷で、かすかな乱れも見せない。
 この男の手で淫らによがって汗だくになった自分との違いに絶望する。
 この拷問のような行為はいつまで続くのか。男の目的は何なのか。
 ――いっそ眠ってしまいたい。
 そう思い、疲労に身を任せて目を閉じる。
 だから、男が下穿きを下ろして昂ぶりを取り出したのを、アニエスは見ていなかった。

「……れるぞ」

 脚のつけ根に熱いものを押し当てられ、アニエスはハッとして、身じろいだ。

「何を……もう、やめて……」

 その言葉に、男があからさまなあざけりを乗せてわらった。

「ここまで来て、やめられるわけがない。今からそなたの純潔を奪う」
「純……潔……」

 アニエスは息を呑んだ。修道女になるべく、生涯の純潔を誓っていた。だが運命のいたずらから還俗をいられ、そして今、月の精のように美しい男にもてあそばれ、さらには純潔まで奪われそうになっている。これはきっと、悪魔が見せる淫らな夢に違いない。
 目が覚めたら聖堂で懺悔して――
 だがその儚い希望を打ち砕くように、男が低くわらいながら宣告した。

「今からそなたを汚す。私ので快楽を教えてやろう……存分に」

 アニエスは、花弁に擦り付けられる熱いものを感じて、目を見開く。
 怖い。だめ。いや――
 次の瞬間、凶悪なくさびがアニエスの中心を引き裂くように、強引に押し入ってくる。肉が引きちぎられる強烈な痛みに、アニエスが悲鳴をあげた。

「いやあっ、やめて! 痛いっ……ああああっ」
「く……アニエス……うう……」

 容赦なく打ち込まれる剛直の圧迫感に、息もできない。
 痛い、苦しい、どうして――
 どうして、こんなことに――
 アニエスの疑問はそこに返ってしまう。
 涙で滲んだ視界には、何かを堪えるように眉をひそめた端麗な男の顔。
 男は深いため息をつくと、クラヴァットでいましめたアニエスの両腕の間に金髪の頭を突っ込み、まるで抱き合うような体勢を取った。そしてアニエスにし掛かり、唇を奪う。ぬるついた舌に咥内を犯され、アニエスの思考がさらに溶ける。
 わからない、わからない、どうして――
 男は王太子で、アニエスの妹ロクサーヌの婚約者だ。
 王太子妃にはやや身分の重みの足りない妹が十分な後見を得る代償に、アニエスは老侯爵に嫁がされるはずだったのに。
 なのに――
 なぜ今、自分は王宮で彼に犯されている? 
 妹の夫となるはずの、男に――? 
 男は力ずくでアニエスを押さえ込み、乱暴に腰を振ってアニエスの膣内を穿ち続ける。
 奥を突かれ、征服され、汚され――
 男の両手がアニエスの胸を鷲掴みにし、揉みしだき、先端をもてあそぶ。男の熱い息が耳にかかり、時に押し殺したような呻き声が混じる。それよりも聞きたくないのは、自分の淫らな喘ぎ声だ。内臓の奥まで揺すぶられるたびに、声が唇から零れ落ちてしまう。

「ああっ、あっ、あっ……ああっ……」
「くっ……アニエス……もう、出そうだ」

 男の豪華なジュストコールの刺繍や、飾りのボタンが素肌に擦れる。それすらも刺激となって、アニエスを襲う。男のくさびが限界まで膨れ上がり、一気にはじけた。熱くたぎ飛沫しぶきが、アニエスの膣内に叩きつけられる。

「ああっ……あああっ……あぁ―――――っ」

 呆然と男を見上げるアニエスの目は、さすがに汗ばんで髪をかきあげる男の首筋に、火傷の痕を捉える。
 あの、傷は――

「どうして――あなたは、あの時の――」

 だが次の瞬間、アニエスの口は男の唇で封じられる。
 疑問の答えは得られないまま、アニエスの純潔は永久に失われた。



   第一章 純潔の白薔薇


 アニエスの母は隣国セレンティアの大貴族、ルエーヴル公爵の外孫にあたる。彼女は中位貴族のロサルバ家の娘だったが、孫娘を溺愛したルエーヴル公爵は、国境を跨いだ領地を持参金として与え、ヴェロワ王国のラングレー伯爵家に嫁がせた。だが、彼女は一人娘のアニエスを産むとまもなく亡くなった。
 ラングレー伯爵にとっては、アニエスの母との結婚は単なる領地目当てに過ぎなかったので、前妻の喪も明けないうちに、以前から愛人関係にあったオリアーヌを後妻に迎えた。だから、アニエスと異母妹ロクサーヌの年の差は一歳も離れていない。後妻のオリアーヌは隣国から嫁いできた前妻に恋人を奪われた恨みもあり、その忘れ形見であるアニエスをうとみ、露骨に冷遇した。
 その後、跡取りとなる異母弟のアランが生まれると、アニエスはやかたの隅にある、日当たりのよくない部屋に追いやられた。わずかな使用人が最低限の世話をするだけの、見捨てられたような暮らし。
 継母オリアーヌにはうとまれ、父親も無関心。異母弟のアランがアニエスに暴力を振るっても、それを咎める者はいない。女主人や跡取りに媚びてアニエスにきつく当たる使用人も多く、アニエスはすっかり委縮していた。
 ただ一人、異母妹ロクサーヌだけはアニエスを迫害することなく、姉妹の関係は良好に見えた。アニエスは、金茶色の髪に若草色の瞳の、けして醜くはない娘ではあったが、一方のロクサーヌは、母親譲りの艶やかな黒髪に神秘的な紫の瞳をした、誰もが振り返るほどの美少女だった。彼女は家族や使用人たちから崇拝に近い愛情を注がれ、ドレスも装飾品も、金に糸目をつけず望むままに買い与えられていた。姉妹が並ぶと、華やかに着飾ったロクサーヌの隣で、型遅れのドレスを着せられたアニエスは、異母妹にとっては恰好の引き立て役であった。
 ――実のところ、ロクサーヌの豪華なドレスは、ルエーヴル公爵家からアニエスに送られた援助金によって仕立てられており、要するにアニエスは貴重な金ヅルでもあったのだ。
 アニエスへの虐待はルエーヴル公爵家も把握していた。彼女が十三の歳に、曾祖父の公爵は死に際してアニエスにかなりの財産を遺した。そのうえで、遺産が父親に搾取されないよう、王都の聖マルガリータ女子修道院に多額の寄進を行い、アニエスの養育と遺産の管理を託したのである。
 それ以来、アニエスは修道院で手厚く保護され、以後、母親の家名であるロサルバを名乗ることになる。
 聖マルガリータ修道院の院長ジョセフィーヌ大公女は、国王の姉にあたる。院長はアニエスの美質を見抜き、淑女たるにふさわしいさまざまな教育を施した。家族の愛を知らずに育ったアニエスにとって、修道院こそ真の家族、安住の地となり、アニエスはごく自然に、俗世を捨て、修道女として生涯を神に捧げることを志した。


 ――修道女として生涯純潔を守る。
 しかしジョセフィーヌ院長はアニエスの決意に懐疑的であった。
 幼児を献身者オブレイトとして教会に差し出すことに、院長は反対していた。

「あなたはまだ幼い。気づいたら修道女だった、そんな人生は送ってほしくないのです。神の門は常に開かれている。焦らず、今は自らの修養に努めなさい」

 修道の道は、自らの理性的な決意によって自律的に選ばれるべきであり、アニエスはあまりに世間を知らない、というのがその理由だ。
 そこでアニエスは、最初は俗人のまま、院内の仕事を手伝いながら過ごすことになった。
 といっても、貴族出身のアニエスに課されたのは刺繍の腕を磨くこと、そして薬草園を預かるシスター・リリーの補助。
 シスター・リリーはいわゆる「緑の指を持つ」人で、彼女にかかればどんな植物も生き生きと育ち、え、花を咲かせ、たわわな実を結んだ。ハーブとその効用の知識が豊富で、さまざまな薬を作り出した。
 薄荷ハッカ罌粟ケシを使った咳止めシロップ。毒消しに効果のあるヤロウ。ラベンダーにカモミール。ごく少量ならば薬になるが、量を誤れば恐ろしい毒となるトリカブト……生と乾燥ハーブの効果の違いなどなど、さまざまな知識を持つ老女の傍らで、アニエスは水を汲んだり雑草を抜いたり、シロップを煮詰めたり。
 美しい神の庭で、アニエスはさなぎが蝶に生まれ変わるように、清新な輝きを放つ娘に成長した。


   ◆


 アニエスが修道院に入ったのは、十三歳の冬の初めであった。厳しい冬を乗り越え、初めて迎える春。シスター・リリーの薫陶のもと、薬草園の仕事にもだいぶ、慣れてきた。

「その花と、薬を届けに行っておくれ」
「はい、わかりました」

 アニエスは修道院の隅の、石造りの塔に花束と薬を届けるよう頼まれた。以前はシスター・リリーが自ら運んでいたが、腰を痛めてしまい、アニエスがその役目を受け継いだのだ。
 薄暗い螺旋階段を上って、木の扉を叩く。

「ああ、お薬ね。ありがとうございます」

 中から顔を覗かせた中年のシスターに薬瓶と花束を渡し、代わりに空の瓶を受け取る。
 室内からかすかな歌声が聞こえて、アニエスが何気なく扉の内を覗くと、逆光になって顔はよく見えなかったが、毛織のショールをまとい、長い髪を背中に垂らした女性が窓辺に立っていた。
 修道女の頭巾ウィンプルを被らず、髪も伸ばしたまま。服装も、地味だが貴族らしく、趣味はよい。
 ――俗人の貴族が病気療養か何かで、滞在しているのだろうか。
 女性は窓辺のゆりかごを揺らし、優しい声で子守唄を歌っていた。

「あら、アンブロワーズ、目が覚めたのね、そんなに泣いて……よしよし」

 ――赤ちゃん? 
 アニエスは一瞬目を見開いた。
 だが、赤子の泣き声など全く聞こえないし、むずかる様子もない。
 訝しむアニエスの視線に気づいたシスターが、アニエスに首を振り、帰ってほしそうにするが、アニエスの足は縫い留められたように動かず、目を逸らすこともできない。やがて、女性はゆりかごから布にくるまれたを抱き上げ、いかにも愛おしそうに揺すって、子守唄を歌い続ける。
 ――赤ちゃんじゃない。お人形?
 ハッと息を呑んだアニエスの視線からその女性を庇うように、シスターが立ちふさがった。

「このお花はシスター・リリーが?」

 内部を隠すように扉を閉めながらシスターに尋ねられ、アニエスは我に返って頷く。

「は、はい」
「ありがとう、いい香りだわ。シスター・リリーによろしくね」

 シスターが微笑んで、扉は完全に閉まった。
 アニエスがシスター・リリーの薬草小屋に戻って空の薬瓶を並べていると、シスターが腰をさすりながら尋ねる。

「病人は相変わらず、人形を抱えていたかい?」
「え、ええ……あの方は、お子様を亡くされたのですか?」

 アニエスの問いにシスター・リリーは首を振った。

「いんや。息子は生きているよ。自分が一番幸せだった時―― 末の息子が赤子だった時で、自分の時を止めたのさ。――四年前からずっとあの通りだよ」

 実の母を知らず、継母に虐待されて育ったアニエスには、母の愛はわからない。
 ただ確かなのは、心を壊すほどの母の愛が、けして彼女の息子に届くことはないということだ。そのせつなさに、胸が痛んだ。


 やがて春の盛りとなり、修道院の庭には溢れるほどの花が咲き乱れた。真っ白なアーモンドの花が風に散り、黄金色の金雀枝エニシダの枝が重たげに揺れる。むせかえるほどの新緑の香り。
 院長の知り合いの修道士が滞在しているからと、アニエスは主棟への立ち入りを控えるように言われた。
 だが、日々の暮らしに変わりはなく、その日も庭で水やりのために噴水の水を汲む。と、人の気配を感じて振り返れば、フードを被った修道士が立っていた。
 修道士とはいえ、男性が庭にまでやってくるのは初めてで、アニエスは内心ドギマギした。

「こんにちは、修道士さま」

 アニエスが挨拶すると、修道士は一瞬、困惑したように息を詰まらせる。

「あ、こ……こんにちは」

 少し掠れた、声変わりして間もない風の、男性の声。

「その……花を、もらいに……病人の部屋に飾るのです。……どこに、行ったら……」

 ボソボソと言われ、アニエスはハッとする。
 ――あの、塔の部屋の女性にだ。

「でしたら、シスター・リリーにお願いしたらいいわ。このハーブ園の管理をしていらっしゃるから」

 そう言うと、修道士は戸惑ったようにアニエスを見つめた。
 俗人の自分が修道院にいることに驚いているのだと思い、アニエスは自ら名乗った。

「自己紹介が遅くなりました。わたしはアニエスと言います。アニエス・ロサルバ。こちらの修道院でお世話になって、いずれ、修道誓願をしてシスターになる予定ですが……」

 そう言っている間にもずっと視線を感じるのが恥ずかしくなり、アニエスはしゃべりながら噴水から水を汲もうとする。重たい木桶を持ち上げようとして、ふらついた。パシャッと水が零れて――その時、素早く駆け寄った修道士が背後から抱き留めるようにして、桶とアニエスを支えた。
 間近に立つと、彼はアニエスより頭一つ分以上背が高く、ゆったりとしたローブの上からはわからなかったが細身な身体つきのようだった。見上げれば、フードの陰から整った顔が覗いている。予想外の接近に、アニエスの心臓がドキンと跳ねた。

「僕が持とう」

 彼は軽々と桶を抱え、アニエスに尋ねる。

「どこに?」
「えっと、あそこの、花壇の花にやるんです」

 大股にローブをさばいて歩いていく修道士を追いかけていくと、彼が「ここ?」と言って、そのまま桶を傾けて水を撒こうとするので、アニエスが慌てて止めた。

「あの、如雨露じょうろがあるので、それで少しずつ……」

 どうも、その修道士は草花の世話などの仕事は、あまりしたことはないらしい。
 水をやってしまうと、アニエスに尋ねる。

「次は?」

 なぜ客であるこの人が仕事を手伝おうとするのか。そもそも花を取りに来たのではないのか。
 疑問がアニエスの頭を駆け巡る。しかし断ることもできず、アニエスはなんとなくそのまま、彼と花壇の雑草を一緒に抜くことにした。
 黙々と二人雑草を抜いて、彼が呟く。

「暑いな……」

 修道士は天を仰いで、目深まぶかに被っていたフードを外した。
 現れたのは予想よりも遥かに若い、見惚れるほど美しい顔立ちだった。
 青空を映したような瞳、通った鼻筋に形の良い唇。凛々しい眉もウェーブのかかった髪も、金の糸のように輝いている。豪奢な金髪は耳の上で短く刈り込まれ、頭頂部には剃髪トンスラがあった。そして、耳の下からうなじにかけては、赤くただれた火傷の痕が広がっていた。
 アニエスがハッと息を呑んだ気配に、修道士が顔を上げ、アニエスに尋ねる。

「……珍しい?」

 とっさに、火傷のことは口にすべきでないと思い、アニエスは誤魔化した。

「いえ、お若い方の剃髪トンスラは初めて見たので……」
「ああ、これ……」

 修道士が照れくさそうに笑う。その儚く透明な笑顔にアニエスは目を奪われた。
 そして同時に急に照れ臭くなって、アニエスは慌てて言った。

「あ、あの……そろそろ、シスター・リリーのところに行ってお花を受け取らないと! わたしもハーブをもらいに行くから、ご案内します」

 アニエスが立ち上がり、残った手桶の水で手を洗ってからリネンのエプロンで拭くと、修道士もそれにならう。
 青空では雲雀ひばりが鳴き、アーモンドの花びらが風に舞い、蝶が飛び交い、蜂がブンブンと唸り声をあげていた。


 シスター・リリーが花を準備する間、二人で石のベンチに座って話をした。
 照れ隠しもあって、つい、アニエスは冗舌になる。家族のこと、死んだ母のこと、妹のロクサーヌのこと。白い薔薇――ロサルバという母方の家名について説明したら、彼は綺麗な名だと褒めてくれた。

(――そういう、この人こそとても綺麗だわ――)

 なんとなく自分の話ばかりするのが恥ずかしくなり、アニエスは尋ねた。

「修道士さまは、ご病人のお見舞いに?」
「うん……僕の母がこの修道院にお世話になっている。――でも、もう――」

 やっぱり、あの塔の――アニエスが思った時に、修道士は両手で胸を押さえ、かがみ込むようにしてボロボロと涙を流した。

「修道士さま……!」
「あ、……これは……」

 ああ、この人がやはりあの、〈アンブロワーズ〉なのだ。
 ――あの女性が過去に戻り、時を止めてしまった最愛の息子。
 アニエスは反射的にドレスの隠しからハンカチを取り出し、彼に差し出していた。彼はそれを受け取ると、無言で顔を覆い、声もなく泣いた。
 何があったのかはわからないが、あの女性は自分の時を止めてしまった。
 息子が赤子だった頃の一番幸せな時に戻り、人形の〈アンブロワーズ〉を抱いて、生きている彼を拒絶した。アニエスが塔に届ける薬の中には、火傷につける軟膏がある。目の前の彼のうなじにも赤い火傷の痕が広がっている。多分、二人は火事か何かの事故に遭ったのだ。そして怪我をし、大きく傷ついて――
 母を亡くしたアニエスは、母が生きていてくれれば、と何度も思った。死んでしまったことを、密かに恨んでもいた。でも。
 生きていても、母に拒絶される人もいる。それもきっと愛されないせいでなく、母が彼を愛しすぎたために――
 青い空を白い雲が流れ、トンビが横切っていく。
 風が巻き上げるアーモンドの白い花びら。青い草の匂い。レンギョウ、雪柳、コデマリ、金雀枝エニシダ、ライラック――
 花に溢れた世界はこんなにも美しいのに、人は哀しみの中で生きていかねばならない。
 かける言葉が見つからなくて、アニエスは彼の僧衣を握りしめ、ただ寄り添っていた。


 しばらくして修道士は我に返り、ハンカチから顔を上げた。僧衣を握りしめて寄り添っていたアニエスもまた、ハッとして身体を起こす。
 ――いけないわ。聖籍にある方に、近づきすぎた。

「ごめんなさい……」

 アニエスがそう言うと、修道士はまだ少年らしさの残る表情でアニエスを見つめ、戸惑ったように首を振った。
 アニエスも戸惑っていた。修道士はアニエスがこれまで見たこともないほど美しい少年で、気づけば見惚れてしまっている。伏せた金色の睫毛は長く、唇もつややかだった。
 ――彼はきっと、高貴な生まれの人なのだろう。
 粗末な修道士の衣では隠しきれない、生まれの良さが滲み出ていた。
 慌てて視線を逸らすと、アニエスは誤魔化すように言った。

「……四つ葉のクローバーを持っていると幸福になれるんですって」
「え?」

 彼が青い瞳を見開いて、アニエスをじっと見る。その瞳が大きく揺れた。

「でも、今まで一度も見つけたことがないの」

 アニエスはそれから、ハンカチを指差した。

「だから、刺繍にはいつも、四つ葉のクローバーと白い薔薇を入れるの。少しでも幸せな気持ちになれるように」
「あ……ああ?」

 修道士の手にあるアニエスのリネンのハンカチには、白い薔薇と四つ葉のクローバーが刺繍されている。突然の言葉に戸惑った様子で修道士がアニエスを見つめる。
 ちょうどその時、ハーブ小屋からシスター・リリーが呼びかけた。

「アニエース! ハーブの籠、ここに置いとくよ! それからそっちの修道士さま! 花はこっち!」
「あ、はーい! 今行きます!」

 アニエスはシスター・リリーに声をかけると、修道士に言った。

「それ、あげます。幸せになるためのお守り」

 それだけ言うと恥ずかしくなり、アニエスはスカートを摘まんで一礼し、きびすを返してハーブ小屋へと駆けた。

「あ……君は……」

 背後で、彼が呼び止める気配を感じたけれど、アニエスは振り返らなかった。


 その数か月後、秋の初めに塔の女性が亡くなったとシスター・リリーが告げた。

「もう、花も薬もいらなくなったよ」

 女性の亡骸なきがらは修道院の裏の墓地に埋められ、女性についていたシスターは、別の修道院に移ったと聞いた。
 その後も、アニエスはハンカチに刺繍するときはいつも白薔薇と四つ葉のクローバーの図案を刺した。
 針を運びながら、あの金髪の修道士のことを考える。
 ――幸せになるための、お守り。
 まだ、持っていてくれるだろうか、それとも、もう捨ててしまったかしら。
 アニエスの刺繍の腕は上がり、白薔薇は精緻に、四つ葉のクローバーは鮮やかに、白いリネンを彩っていく。


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